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「そうですねー。夢かあ。私、満漢全席を制覇したいです。あれはお金も時間も人もタイミングも必要になってくるみたいでかなり大変そうで」
昔昔、今の中国で明から清に王朝が交代した時、中国の周辺からやってきて清朝を建てた満州族と、以前からいた漢民族との融和を謀るために満州族の料理と漢民族を料理を融合したのが満漢全席である。
と、大学で同期だった松原が以前語っていた。今回この状況を脱するために、過去の記憶を手繰り寄せて拝借することにした。
グルメな松原が語る料理のうんちくを、自分自身は食べることもないだろうと思いながらも聞いていた自分を褒めてやりたいと田中は思った。
完全な受け売りである。
思い出した話を忘れないうちに一気にまくし立てる。
「バブルの時は日本でも食べられたらしいですけど、今はやっぱり香港に行くのが一番確実らしいです。やっぱり本場ですから。ただ、一人とか二人で行ってもダメみたいで。ある程度の人数をそろえて行かないといけないみたいで。そうなると海外はねえ」
松原の話の完全コピーが意外とすらすら出てきたことに田中はほっとする。一方で、本当は知らない話をさも自分の知識のように語っているのだ。とんでもない大噓を語ってやしないかとひやひやだ。松原の話を聞いているときには、そんなものかと聞き流していたことが、自分の口で繰り返すと矛盾やおかしな点に気づく。
松原は確かに「今なら香港に行くしかない」と言っていたが、今時香港で食べられるものが東京で食べらないはずがない。東京で食べられるものは大阪や名古屋でも食べられそうだし、横浜、長崎、神戸には中華街もあるのに食べられないみたいに断言してしまって大丈夫だろうか。なんの根拠もないことを自信満々に話す怖さが身にしみた。
万が一、先輩が満漢全席について詳しかったりすると次の異動までこれまで以上に田中はマウントを取られ続ける。異動後は先輩が退職するまで自分がいないところで<おいしいものについて何にも知らないバカな子>と言いふらされ続けるだろう。
先輩は浮かない顔で言った。
「中華料理が食べたいの?」
田中は心の中でガッツポーズをした。先輩は満漢全席について田中よりも知らない。あとは松原の受け売りを思い出せる限りアウトプットするだけだ。多少の間違いは許される。田中は勝ちに出ることにした。
そりゃ満漢全席は中華料理には違いないだろう。ただ「田中ミヅキの夢は中華料理を食べること」とそこいらで言いふらされたりしたら聞いた人によっては大変な誤解をするかもしれない。
松原ほどではなくても田中も美味しいものはいろいろ食べている。中華料理だって大好きだ。先輩には外食したことすら話題にはしないだけで。
田中が満漢全席と言ったのだから勝手に中華料理に置き換えないで欲しい。今日は先輩にも満漢全席というものがあるということぐらい覚えて帰って欲しい。
俄然強気になった田中は聞き覚えていた話をさも自分の知識かのように披露した。
「清朝ができたとき、満州族と漢民族の融和のためにつくられた中国の宮廷料理ですから、分類は中華料理になります。かなりの品数をちょっとずつ食べるんです。種類が多いから一度の食事で食べきるのは無理な量になるらしくて。一度の香港旅行で旅行中ずっと昼食と晩御飯を同じレストランに通い詰めて満漢全席を食べきるっていうのはもはや楽しみじゃなくて修行とか競技ですよね。本当のグルメはそんなふうにするのかもしれないけど。何度かわけて食べていくと重複するお料理があるかもしれないし」
田中の頭に、本当に日本国内では食べられないのか。という疑問が再び浮かぶ。振り切るようにして再び口を開いた。
「おいしいもの食べるのにも苦行みたいなのは嫌ですもんね。楽しめないとか食べるのがしんどいとか。すると何回か香港に遊びにいく、その旅ごとに少しずつっていうのが無理がないんですよね。でも、時間もお金もかかりますから。行く度にかかる往復の飛行機代もばかにならなし。それなりの人数の予定をあわせるのだって大変だと思うんです」
もしかしたら大阪でも食べられるかもしれない、大阪で食べられるもの当然名古屋でも福岡でも食べられないわけない。いや、松原が知らないだけで実は普通の中華屋さんでも裏メニューとかなら作れるもんなのかも知れない。などと思いながら、それらしくまくしたてた。
これ以上満漢全席について、知っていることも本当も嘘も何も付け加えることはないというぐらいしゃべった。
心の中で旧友に礼を言う。
先輩の様子を伺い見た。
見た瞬間、田中は驚いた。やりとげて高揚した気分が急速冷凍庫に放り込まれた気がした。満漢全席について頭をめぐらしている間、何が起こったのか。それ程、先輩の形相が変わっていた。なぐられるとか事故とか外からの力なくしてあんな風に人の顔が変形することがあるのかと思った。試合直後のボクサーのように元の形をとどめていない、そんな印象をあたえる風貌になっていた。
先輩は田中のほうを見ると、ゆっくり元の顔に戻った。それで田中は先程の<試合後のボクサー顔>が先輩にとっては顔の筋肉を動かしたしかめっ面であることがわかった。
十分それだけでも先輩の中に得体のしれないものを感じるのには充分すぎるが、田中は次の瞬間、言葉を失う。
先輩は言った。
「そんなアタシが知らない話をしないでちょうだい」