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「四階の国際交流の事務所でお菓子をもらっちゃったわ」
先輩がお菓子を自分の机の上においた。
「あっ、ありがとうございます」
田中はPC画面から視線を逸らさないまま、特に何も考えず反射的に答えた。
「あら、もらったのはアタシよー。あなたにあげるとは言ってないわー」
「…」
しまった、またひっかかった。この忙しい時に、面倒くさい。そう思わずにはおれなかった。もちろん田中はお菓子など欲しくはない。
「じゃあ、これあげるわ」
なにがじゃあなのか、もったいつけた口ぶりで先輩が田中の机の端に饅頭か何かを置いた。本当に机の端ギリギリ。何かの拍子に床に落ちそうだ。いったい何がしたいのか。奇行と言ってもいいレベルだろう。
「…」
礼どころか何かを言う気も失せる。そもそも御礼はもらう前に言った。作業はするから邪魔したり嫌な気分にさせたりしないよう、事務所に入って来ないでほしいとまで思った。
これからは先輩が何かもらって帰ってきたら「よかったですね」と言おう。もっと精神的に距離をとろう。そんなことを考えながら、田中はできるだけ反応を見せずに作業を続けた。作業は先輩がいなくてもできる。いない方が確実にはかどる。
先輩と一緒にいると必然のように襲い来る不快と嫌悪はこれぞ職場の人間関係のストレスの典型であるとさえ思えてくる。
田中のうんざりした心境をみすかしているのかいないのか、先輩は一人でしゃべり始めた。
田中は作業の手を止めない。単純な作業でも間違えると修正するのは余分な手間だ。確実に入力したい。
相槌すら打たないのが気に食わないのか、先輩が言い出した。
「ミイちゃん、あなたそんなに仕事ばっかりして夢とかないの」
田中は耳を疑う。夢って何だ。そんな仕事ばかりと言うがこれは先輩ができないことで田中にシワ寄せがきていることは彼女もわかっているはずだ。その上ここは職場だ。職場は仕事をする場所だと田中は思っていたが、先輩の認識は違うらしい。なおかつ今は就業時間中だ。先輩の中では職場で就業時間中に働く者は夢のないつまらない人物という認識があるのだろうか。
まともに返事をする気にもならないが、放置しても作業している横で延々と事務所内で騒がれることになりそうだった。
田中の推測通り、先輩は田中の沈黙など意に介さない。独白が続く。
「そうよ、仕事もすればいいけど、こんな仕事が夢ってわけはないんだから、なにか夢を持つべきよ。何かないのー?どーんなことでもいいわ。実際不可能そうなことでも、ちょっと思い浮かべたようなことでも、夢は言葉にしなくちゃ。さあ何かないの?」
自分の言葉に酔っているのか、年下に夢を持てと語ることで気分が良いのか、だんだん声が大きくなってやかましい。狭い事務所にわんわん響く。
<こんなつまらない仕事>をしたくないから表計算ソフトの使い方を覚えようとしないのだろうかという考えが田中の脳裏によぎる。
こんなの覚えたって仕方がない。覚えたら自分の仕事が増える。ということか、先輩らしい考え方だと思った。
ともかく、先輩が言う<夢を語れ>は、先輩自身ががそのように自覚して言っているかはともかく、今、暇だからおもしろい話のネタを提供しろということなのだ。と田中は受け取った。
なになに、あなたはそんなことがしたいの。
若いわねー。
意外だわー。
などと<後輩ミイちゃん>のことをあれこれ品評したいのだろうと。
その上で、若い人の夢の相談にのってあげる人望あるアタシというシチュエーションに持っていきたいのだろう。
なおかつ自己顕示欲の強い先輩が後から<職場の若い人の夢の相談にのってあげた人望あるアタシ>を職場内外にアピールしてまわるのが既に今から目に浮かぶ。
田中は自分のするべき仕事を人に押し付けてその言いざまは何なんだ。今日何度も同じ思いを繰り返していることに気づいていたまれない気分になる。そこに先輩に、夢、夢としつこく押し込まれることで田中は絶望的な気分になった。
この下らない年長者にまともに、自分の夢を語るつもりはなかった。かといってこのまま狭い事務所内でギャアギャア叫び続けられるといい加減に作業が行き詰まるし、神経に障る。田中は考えた。何か適当なことを餌として投げ与えてこの女を黙らせなくてはならない。