子沢山
「それでは、他の係の決定を行いたいと思います」
進行役の横尾教諭が再び話し出したその時、幼子の泣き声が保護者達の緊張で張り詰めた講堂の空気をつんざいた。
「あの、すみません。オムツ替えてきてもいいですか?」
幼子二人を両脇に抱えたぽっちゃりとした女性が、側に控えていたひらめ組のもう一人のクラス担任、山道教諭に質問した。
「もちろんです。私がお一人をみておりますから、どうぞ行ってきて下さい」
山道教諭が言うと、女性は「すみません、直ぐに戻って来ますから」と早口に言い、幼子の片方を山道教諭へ託し、もう一方の幼子とオムツ替えセットの入った大きなリュックを抱え講堂出口へと駆け出した。
講堂内にはユウくんママ同様スーツ姿で不安げにキョロキョロしている人物が数人いたのだが、彼女もその一人である。
膨張色であるピンクのスーツは彼女のBMI26の体形をさらに太めに見せていた。白髪混じりのひっつめ髪に化粧もおざなり、昔買ったパツンパツンのピンクのパンツスーツを着て、疲労の色濃く目の下には青黒いクマがくっきりと見える。
それもそのはず、彼女のここ一年の睡眠時間は平均して約3時間半。実家や夫の実家は事情あって全く頼れず夫も激務な上非協力的、ほとんど一人で家事育児をこなしてきたのだ。
彼女は4人の子持ちである。すなわち小学3年生の長女、3歳の次女、その下の1歳の双子の男児の4きょうだいだ。
2019年の合計特殊出生率が1.36である事から、彼女を「子沢山」と呼んでも差し支えないであろう。実は子沢山夫婦の当初の計画では子どもは2人にするつもりだったのだが、次女を出産して間も無く思いがけず妊娠し、さらに予想外な事に多胎妊娠が判明したのだった。
子沢山夫婦は家族が増えるにあたりローンを組んでミニバンを購入したのだが、ペーパードライバー歴の長い彼女が事故を起こさず運転できる大通り沿いにあるのはこのマッスル幼稚園だけであった。さらに、「弁当の日」が無く毎日給食が提供されるのもありがたい。何がなんでも娘をこの幼稚園に入園させたかった。しかしここまでマッスルに特化しているとは想像だにしていなかった。育児に追われ、子沢山も園の保護者会の情報までは入手出来なかったのである。クラス係の自己紹介を聞きながら、子沢山の顔面もユウくんママと同じく青ざめていた。
子沢山が考えるに、一番負担が少なそうな係はベルマーク係であると思われた。かなり前から予約しておけば、双子は一時保育に預ける事が可能だろう。子沢山の住む地域は子育て世帯が多く待機児童が100人を越えており、一時保育やファミリーサポートも予約待ち状態、本日は双子を入園式に連れてこざるを得なかったのだ。
「ママ、もうすぐ帰ってくるよ〜」
山道教諭の腕の中から抜け出し母親を懸命にハイハイで追いかける幼児を、山道教諭はマカロンでもつまむ様に片腕でヒョイと抱え上げあやしている。
山道教諭は音大出のお嬢さんである。長い栗色の髪を頭上で饅頭の如く束ねており、うなじの後れ毛も色っぽい。平行二重の垂れ気味なアーモンドアイが見るものに癒しを与える可憐な容貌をしている。園長とは対照的に、華奢な中に秘めたる熱きマッスルの持ち主で、趣味はパッチワーク、特技は超絶技巧曲弾き語りである。
その容姿ゆえにあまりにも頻繁に痴漢被害やストーカー被害に遭ってきた為、中学時代に自らの身を守ろうと合気道を始めた。その過程でマッスルに目覚めたのである。
彼女は音大在学中にバイオリン専攻の男と交際していたが、男の浮気発覚の際、彼を投げ飛ばし学食の窓二枚を破壊した為に「幼児教育学科の裏番」の名をほしいままにした怪力女であった。