これが屹度、物語でいう転調の瞬間だったのだろう。
「ああ、くっそ!ここに来てとか最悪っ!」
普段からそれほどお淑やかとは言い難い言葉遣いをする女だった。だが、これほどではなかった。まるで一気に膨れ上がって破裂したような苛烈さで吐き出された言葉だった。
机の上に置かれた書類の山を薙ぎ倒し、力の限り振り下ろされた両の腕が勢いよく机にぶつかり痛々しい音が響いた。そのまま頽れるように机に肘をつき、抱えるように頭に添えられた手が肩より僅かに長いくらいの、淑女としてあるまじき長さの艶やかな黒髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜて、苛々を押し隠すためだろう、噛み殺すような呼吸を繰り返す様が痛々しかった。
どれほどそうしていたのか、息を潜めて女の様子を伺っていた周囲に漸く気付いたのか、はたまた感情に折り合いがついたのか、ゆっくりと頭を上げた女の周囲を見回して、怒りと僅かな不安で瞳を揺らしながら頭を垂れた。
「先に謝罪を。この作戦は失敗しました。本日中にこの砦を遺棄し、一隊を残し、撤退します。残留隊はおそらく全滅するでしょう。それでも力を貸してくれる方のみで、隊を編成してください。判断ミスをした責任は全て私が負います」
死にに逝け、といつになく丁寧な言葉で命ずる言葉に怒気が膨れ上がった。だが、再び頭を上げた女の顔を見て誰もが息を呑んだ。感情という感情が削げ落ちた、それは生きた人形のようだった。いつもいつだって感情を隠すことなく生きていた女だった。表情もさることながら、シナモンのような明るい茶色の瞳はいつだって雄弁に感情を物語っていた。その何方もが、消えただけ。だというのに怖気を覚えるほど女の風貌は静かで異質だった。
「この戦いが終わった暁には、この身体、如何様にも好きにすればいい。嬲って犯して切り刻んで煮て焼いて晒してもいい。だからこの戦いが終わるまで、力を貸してくれるだけでいい。それが出来ないものは要らない。っていうか、こんな事なら最初から歩み寄ろうとか考えるんじゃなかった。最初から最後まで、自力でするんだった。信頼の証に大事な諸事を任すなんて馬鹿げたことするから裏切られた時に首を締めることになるんだって知ってた癖に油断するとか、ほんと最悪」
前半は周囲に、後半はただの独り言だろう。だが、召喚など世界規模の誘拐だと国王相手に苛烈な批判をした女が、それでも少しは持っていた優しさを手放した瞬間だった。
「請け負った以上は最後まで付き合う。けど、従えないなら足手纏いだから出て行って」
淡々とした声音で告げて扉を指差した後、女は崩れた書類を踏み潰しながら部屋の中を歩き回った。周辺地図を力技で片付けた机の上に広げ、滅多なことでは使わなかった深い青玉色のインクが入った瓶を取り出し、折れたガラスペンを拾い上げて椅子を台にして机に登って地図の上にペタリと座り込んだ。左手で地図を辿り、右手で黙々と地図に直接メモを書き込んでいく姿は幼子が一心に落書きをしているような様相だった。
「あの、」
声を上げたのはまだ若い兵だった。何を言おうとしたのかは分からないが、声が上がると同時に女は机を叩いて顔を上げた。
「こういう言い方が不快なのは分かってるけど、黙って出てってくれない?今は自分が立てる物音すら煩わしいぐらい腑が煮えくり返ってて苛々する」
何か少しでも感情が垣間見れれば良かったのだろう。だが、何も察することのできない異常性に背筋が粟立った。この世界を女が見限ったのだと、そこに居合わせた人間全員が理解した瞬間だった。恐らく、自分という存在すら、女は見限ったのだ。
一人、また一人。音を立てぬように部屋を出て行くのを見送ることなく女は地図に視線を戻し、自分すら駒として作戦を立てているであろう女を見遣る。
人種の問題なのか、小さく華奢な骨格をしているこの女を見たときに覚えた反感は今はもう欠片もない。それどころかその小さな肩に全てを押し付けたのだという罪悪感が日に日に増していたこのタイミングで、彼女の補佐をしていた男が裏切ったらしい。作戦の調整のために男は先日から砦を離れているから、どの様な基準でもってそう判じたのかは分からないが、彼女はそれを疑っていないようだった。ちらりと見た地図に書かれていたのは、作戦が失敗した時の避難所として準備していた西の砦すら破棄するという内容だった。
部屋を出る瞬間、女は口を開いた。
「泣かないし、後悔している時間すら惜しい。自分の甘さに吐き気すら覚えるけど、それに打ち拉がれるような繊細さは持ち合わせてない。一時間後に詳細を伝えるから、撤退の準備だけ早急に進める様に全軍に通達を」
破棄する、と女は言っていた。先ほどまで生きていた作戦でいう破棄は、正真正銘の破棄だ。壊し尽くして燃やして何も残さず棄てるのだ。想い出すら、女は捨ててゆくのだろう。
軽い音を立てて閉じた扉に背を預け、目を閉ざす。親友だと思っていた男の裏切りも、女と男が重ねていただろう淡い思いが泡沫の夢の様に弾けて消えた事実も、言い様のない感情を生んで胸を塞ぐ。表現し難い感情が溢れて叫び出したいのに声すら出ない。ぐちゃぐちゃとした感情だけが、ドス黒く渦巻いて沈んで行く。こんな時、他人はおろか自分が抱いた感情さえ正しく判断することのできない、剣を振るうしか能のない自分に嫌気がさす。ただ分かるのは、自分が男にとって悩みを相談するに値しない人間だったという事実と、守りたいものの為に巻き込んだ女が、手にしていた物を何もかも捨てて自分が決めた事をただこなすだけの人形と成り果てたということ。ならば巻き込んだ人間の一人である自分だけは、何があっても彼女を守る剣であろう。裏切った男への怒りや不満はこの砦に捨てて行く。男が彼女に牙を剥くなら、迷わず斬り捨てる。
「後悔している時間すら惜しい、か」
「将軍?何か仰いましたか?」
「いや、何でもない。この砦は本日中に破棄することになった。撤退の準備を早急にせよ」
その言葉に周囲が一気に動き出した。仔細を何も知らなくても、事態が急変したのだと察して慌ただしく駆け巡る足音を聞きながら、女が全滅を予測した残留隊に残る為に、女を説得するための知恵を貰いに、先ほどまで共にいた参謀の元へと足を進める。その後、撤退準備の合間に女が示した作戦の異常さに度肝を抜かれ、片手間に作成したと言っていた爆弾なる物の威力に胃の腑を竦ませ、命辛々彼女の作戦の予測を引っくり返し、失ったものの大きさに頭を抱えることになるとは思いもせずに。
大陸を統一せしめるのでは、と恐れられていた帝国軍を、一人の女が破滅させた。正しくは、女が描いた戦略を一人の男が周囲の反対すら押し退け実行し、勝ち取った戦勝だった。そして、この敗戦を機に帝国は一気に衰退することとなる。
後の世に至高の軍師と称される女について知られていることは少ない。出身や女人禁制だった当時の軍に所属するに至った経緯もだが、女に関するものは名前すら何処にも残されていない。短いが艶やかな黒髪にシナモンのような淡い茶色の瞳をした、小さな女だと歴史書に記されているだけ。唯一女の仔細が伺えるものは、帝国軍を破滅させた国の旗で血を垂れ流す男の首を包んで抱え、廃墟に設置された豪奢な椅子に座って眠る少女の様な姿が描かれた絵画だけ。その裏に女の直筆で記された言葉は今なお読解できるものはいない。
なお、女について仔細を知るものたちは口を揃えてこう言った。彼女が人間のままでも何れ帝国軍は敗れただろう。だが、帝国が彼女を人形にしたことで戦況が一気に加速したことは事実だ。そして、彼女がこの世界を疎んじて、生きた証を残すことを厭い、神と制約を交わしたから、彼女のことは語り継ぐしかないんだ、と。
彼女を描いた者は唯一残すことを許された絵画を前に言った。この首は、彼女が約束を果たした証なんです。同時に、彼女が二度と元の生活に戻れない証でもあります。戦争のない国で、どのような理由であれ人を殺めれば罪となる国で、彼女は生まれ育ったそうです。無理矢理呼び寄せられたにも関わらず、我々との約束を守り戦勝を齎した彼女は、母国では咎人となるんです。我々には、彼女を咎人にした責任があることを忘れないでください、と。