勇者レベル1、経験値より筋肉を求む。
それは小さな荷車の車輪だったらしい。
車軸と合わせて、だいたい15キログラムの重さがある。
シャフトを握りしめ、肘の位置を固定する。
手のひらを上に、腕を伸ばして、その位置から重りを持ちあげる。
ぐっと力こぶを作るように、肘を曲げる。
15キロという重量はそれなりのものだ。特にこのトレーニングで鍛えられる部位、上腕二頭筋は小さな筋肉である。
「……ぐぅぅ!」
意識せずとも息が漏れる。
5回目にして、腕はもう上がりきらなくなっている。
だけどあと最低3回は、全身の反動を使ってでも上げきる。
「あと、……いちっ」
「あのぅ、お体を鍛えている最中にすみませんが」
すると背後から声が。
それに集中力を切らして、とうとう15キロを8回挙上しきることは叶わなかった。
「くぅぅ……しかし今日できなかったあと1回は、いずれできるあと1回になることだろう」
タクマは満足げにダンベルを置いて、振り返った。
「それでエルマリート、声をかけるならせめてインターバル中にしてくれないか」
そこにいたのはゆったりとした白衣に身を包んだ、ふわふわの髪の少女。
全体的にのんびりとした雰囲気だが、これでも女神に仕える下級神官なのだ。
「いえ、それはすみませんでした。でもそれどころじゃないんですよ、タクマさんっ!」
エルマリートはちょっと怒ったような顔で、タクマさんとそう呼んだ。
あの30日目の試合以来、いつの間にか呼称が変わっていたのだ。
しかしタクマはといえば、それでどうしたということはない。
今朝も変わらず筋トレに励んでいる。
「タクマさん、いつになったら勇者としてレベルを上げるつもりなのですか?」
「レベル? レベルなら上がっているじゃないか」
「うそっ、まさか……」
エルマリートがタクマの左手をとると、そこにはやはり『1』の刻印が。
それはこの世界に召喚されたその日から、すこしも変化していない。
タクマはレベル1の勇者なのである。
「ほらー、やっぱりレベル上がってないじゃないですかー」
「そんなことないぞ。トレーニーとしては日々レベルアップしているからな……それに今後は本格的なウエイトトレーニングを開始するつもりだからな。レベルの上昇は飛躍的になるぞ」
なにやらぶつぶつ言っているが、つまり魔物を倒し経験値を得て、勇者としてのレベルを上げるつもりはないらしい。
そんなタクマを呆れたように見つめるエルマリートだったが、ふと笑みをこぼした。
「……ほんとに、タクマさんは変わりませんね」
「なに? これでも筋肉量でいえば当初とは段違いだぞ? 身長も3センチは伸びたし、体重だって10キロ以上も違う。ほとんど別人だ」
「いいえ、タクマさんは変わらないですよ」
あの日、すごい勢いで「四つん這いになれ」と言ってきた筋肉バカはあの日のままだ。
中身はちっとも変わっていない。
他の勇者たちがこの街を出ていったあとでも、彼は初日に借りたこの部屋で体を鍛えている。
「タクマさん、ほかにやるべきことはないんですか?」
するとタクマはダンベルを左手に持ち替えた。
「馬鹿をいえ。俺にとってははじめから、これだけがやるべきことだ」
「魔物を倒して、経験値を得ることよりも?」
「俺は筋肉を求む!」
彼の宣言はすがすがしいまでに明快で、この晴れわたる空にもよく響いた。
どの世界にいても、変わらずそう言うのだろう。
「……ところで、もうじきこの街で大きな剣術大会が開催されるようですね」
「ああ、ベッサにも誘われていたな。ただ俺には剣にかまけている時間はなさそうだ」
「そうなんですか。たしか優勝商品は、使うものを強くする『神の粉』と呼ばれるアイテムが手に入るのだとか」
「……なんだと!」
タクマはダンベルをはたと置いた。
すごい勢いでエルマリートに詰めよると、その手をとる。
「ちょっ、タクマさん!」
「いま神の粉と言ったか? まさか……我々ボディビルダーにとってなくてはならない、必須栄養素」
エルマリートの悲鳴にも気づかない。
タクマは自分の世界に入っている。
「食事だけで摂りきることが難しいそれを、補うためのあの粉……まさしく『神の粉』が、この世界にあるというのか……?」
なにか不用意な言葉を言ってしまったらしい。
エルマリートは恐れおののく。
そうしている間にもタクマは着衣を直して、壁にかかっている剣に手をかけた。
鈍い光を放つ、両刃の剣である。
「エルマリート! 決めたぞ、俺も剣術大会にエントリーする!」
「え、えぇ……でも、参加期日はたしか今朝までだって」
「なにぃ! それじゃこうしちゃおれぬ。行くぞエルマリート!」
「ちょ、わたしは関係ないのに……ちょっとタクマさん!」
家を出て、タクマは走り出した。
しかたなくエルマリートもそれに続いた。
魔王が復活するまであと110日と少し。
だけど勇者レベル1にとっては使命なんてどこ吹く風で。
彼はこれからも経験値より、筋肉を求め続けるのだった。




