この世界のルール
エルマリートは『下級神官』である。
彼女の役目は、女神によって選ばれし4人を補佐することだ。
また4人のことを『勇者』と呼んだ。
世界の命運は彼らの肩にかかっていたのである。
つまり、ここにいるタクマはただの筋肉愛好家ではない。
女神によって優れた才能を見い出され、女神から『加護』を与えられし特別なお人なのだ。
「俺に筋肉が必要ない……? それはつまり、俺の生き方そのものを否定することになるぞ」
「そう言われましても……。少なくとも魔王を倒すうえで役に立たないのは事実ですし」
タクマは気炎を上げている。
彼の言うことも正論だった。いくら神官であれ個人の趣味や生き方まで否定する権利なんてないだろう。
それでも彼を勇者として導くためには、エルマリートも弱気になんてなっていられなかった。
「勇者様には魔王を倒せるほどに強くなってもらわなくてはなりません。その為に残された時間は、あと150日間しかないのです」
「そう言われると短いかもしれないが、俺たちは常人の約20倍の早さで歳をとるのだろう? はじめにそう説明されははずだが」
「あ、覚えていたんですね……わたしの顔も忘れていたのに……」
この世界のルール。
すべては勇者たちとの顔合わせのときに伝えてある。もっとも説明はエルマリートからでなく、彼女の先輩にあたる上級神官によってだった。
では、その彼がよっぽどの説明下手だったのかといえばそれはない。
彼の完璧な仕事ぶりを、エルマリートは背後にひかえて見届けていたのだから。
だとすれば欠陥があったのはタクマの記憶力ということになる。
「俺の脳の容量は、筋肉にまつわる事柄の為にだけ使用できるようになっている。ストレスで筋肉が分解されないよう身につけた、いわば特殊能力だ」
「ずいぶん都合のいい能力ですね……。だったら勇者様はもとの年齢に関わらず『その肉体が最も可能性のひらかれていた年齢』で召喚されるのですが、そのことはさすがに覚えていますよね?」
タクマは揚々としてうなずいた。
脳の容量のことはともかく、勇者にはいくつかの特殊能力が備わっている。
女神によって与えられた『加護』と呼ばれる能力だ。
召喚される肉体年齢のことも、成長速度の特異性についてもすべては『魔王』を倒すべく授けられたものだった。
「俺の今の肉体は、ちょうど15歳のころだろう。それもちょうどトレーニングをはじめた時期に符合する。そして10年後といえば、これはビルダーとして全盛期を迎えていた頃だ……つまり俺にトレーニングをしろということだな!」
「いえ違います。女神さまは筋肉を司る神さまではないので」
「大変なことになったぞ……! 俺の完成されたトレーニング知識と経験によって、今から鍛えはじめたらどれだけデカくなってしまうというのか……っ!」
たしかに大変なことになった。
この分だとタクマは、いちばん肝心な『レベル』についても忘却しているのだろう。
これからその重要性を説いてタクマに納得させることは、あの上級神官でさえ手こずりそうな課題だった。
もちろんエルマリートなんて問題にならないだろう。
……ぐぅぅぅ。
悔しくてうなり声を上げたのではない。
鳴いたのは彼女の腹の虫だった。
「えっ、や! ちがいますっ! これは頭を使ったからお腹が減ったとかじゃなくて……!」
「奇遇だな、俺もだ。しかしこのままでは筋肉の分解が進んでしまうだろう……ただでさえ不足しているというのに、弱ったな」
筋肉のことはともかく、たしかに栄養が足りなければ思考も冴えないだろう。
ならば、そろそろ昼食にしないという手はなさそうだ。
「あのわたし残っていた仕事を思い出しましたので。話はまたの機会にしてこれで失礼します」
「ちょっと待て。……腹が減っては効率的な仕事もできないだろう。今から昼食にするから一緒にどうだ?」
「お伴します」
即答だった。
そりゃ思考力が奪われているのだから仕方がない。
すべては空腹と、それから異世界人がみな美食家だという事前知識のせいだ。
決してエルマリートも、目の前の仕事から逃げているわけではなかった。