はじめては未経験
タクマはエルマリートを部屋に通す。
室内はだれもいない。
同居人のコニカはこのごろ帰らないことが多くなっていて、今夜もまた魔術師のところに泊まっているのだろう。
「先に飯にするか?」
タクマがたずねると、エルマリートはぶんぶんと首を横にふる。
あんな盛大に腹時計を鳴らしたというのに、どうやら彼女の悩みとは空腹よりも優先することのようだ。
なんにせよ、エルマリートが満足するような夕食はタクマにも用意できなかっただろう。
この日は豆のサラダに、ゆで卵、赤身肉のソテー。そしていつものオートミール。
味つけは塩のみ、とくればまた文句のひとつでも言ったはずだ。
「タクマ様、あの、お頼みしたいことがあってきたんです……」
「俺に頼みか。まさか筋肉のことじゃないよな?」
彼女に限ってそれはないだろう。
しかしエルマリートのこたえは沈黙だった。それはつまり、まさかの肯定ということではないのか。
「わたしに、懸垂をおしえてほしいのです」
「なに……!」
はたして、エルマリートはこう言った。
トレーニングについてご教示いただきたいと。
タクマの耳にはそう変換されていた。
すぐさま上着を脱いで、準備にとりかかる。
立派なハリが、柱のあいだに渡してあった。
その太さはちょうど握り込めるくらいで、強度も申し分ない。
タクマがこの部屋を選んだなによりの理由でもある。
「チンニング、いわゆる懸垂だな」
ひょい、と飛びついて梁を掴んだ。
タクマはフォームの解説をしていく。
懸垂とは主に背中の筋肉を鍛えるためのトレーニングであり、自重トレーニングでいえば広背筋に効かせられるほとんど唯一の種目だろう。
「手幅は、肩幅よりも広く。握り方は順手、つまり手の甲が上を向くように。そしてなるべく胸を張って、脚は揃えるか折りたたむかして、なるべく動かさないように……」
スタートポジションから、タクマはゆっくりと体を持ち上げた。
肩甲骨を下勢して、背中に負荷を感じながらまっすぐに挙上する。
アゴがバーを越えたら、また同じようにして体をおろす。
「……とまあ、これが基本動作だ。なにか質問はあるか?」
「あの、タクマ様はそれを何回できますか?」
予想外の質問である。
てっきり広背筋を意識するコツは? ときかれるものと思っていたので、ふと考えこんだ。
「いや、筋肥大を目的としたトレーニングならば、10回で限界がくるように行うのがいいだろう。俺はネガティブにもしっかり効かせるよう意識して、10回から12回を3セットといったところだな」
「はぁ、そんなに出来るんですね……」
エルマリートの表情はさえない。
なにやら解説についてもうわの空なようだが、ではいったい何が知りたかったのだろう。
すると意を決したように、エルマリートは口をひらいた。
「わたし、今度また下級神官の定期試験があるんです。そこでは筆記試験と体力試験が課されていて、結果によっては減俸になったり、中級神官に昇格できたりするんです」
「はぁ、学校のテストみたいなものか……?」
「筆記にはけっこう自信があるんです。こう見えて頭がいいんですよ、わたしって」
たしかにそうは見えないが。
なんて言って話のコシを折るのもなんなので、タクマは黙っていた。
「ただ体力試験の内容が……懸垂が5回以上できないと、欠点になってしまうんです」
「ほう、5回か。エルマリートは何回できるんだ?」
「わたし、1回もできません!」
堂々とした宣言だった。
しかしながら決して胸を張るようなことじゃない。エルマリートも、小さくなって顔を赤くしている。
するとタクマは、そんな彼女の肩に手を置いた。
「べつに恥ずかしがることじゃない。大の男でも懸垂が1回もできないなんてザラにあることだ。……俺だってさいしょは同じだった」
「タクマ様でもですか……?」
「あたりまえだ。誰だってはじめては未経験なんだから」
「言葉の意味はわかりませんが……わたしにも出来るってことですか?」
その問いに、タクマは揚々とうなずいた。
なにせ腕立て伏せも嫌がった彼女が、自分からチンニングを教えてほしいなんて、感慨深いものがあったのだ。
エルマリートがかつて必要ないと言い放った筋肉を、今こうして欲しているのだから。
「任せろ。俺がおまえの背中をバッキバキに鍛えてやる」
「いえ、それはお断りします」
こうしてタクマとエルマリートの、臨時の師弟関係が結ばれたのだった。




