鬼のトレーニング
早めに到着したせいか、空き地にベッサの姿はなかった。
タクマは軽いストレッチをして、しばらく時間を過ごす。トレーニングの前後に、それらの柔軟体操を欠かしたことはない。
怪我の防止にもなるし、なにより体を正しく使うために柔軟性を養うことのメリットは大きいのだ。
「……遅いな」
せっかく暖まった体が冷えてしまうのだが……と、タクマはベッサの左足のことを思い出す。
杖をつかなければ満足に歩けない彼女の脚。ここまでのわずかな道のりでも、じつは難儀しているのかもしれなかった。
タクマは空き地の奥にある家に向かった。
どうやら人の気配はあるようだ。
「ベッサ、いるかー?」
しかし呼びかけても返事はない。
悪いとは思いつつも、彼は戸をあけた。
室内はよく片づいていた。
物が少なく、必要なものはすべて椅子の周りに固めて置いてある。あそこが彼女の生活空間なのだろう。
人気は、その奥のカーテンに仕切られた部屋にあるようだった。
「ベッサ? いたら返事をしてくれ」
呼びかけても応答がない。
タクマはしかたなく、カーテンを掴んで開いた。
まず、上気した耳が見えた。
ほのかに赤い首まわり。
そして真っ赤な長い髪が、水気を吸ってしな垂れている。
細い首からつながる、僧帽筋のたくましさ。肩甲骨まわりの隆起した広背筋。
しずくをまとった肩の後部は、まるでダイヤモンドのように美しい。
女性的なしなやかな背骨のラインに沿って、脊柱起立筋が谷間のように流れている。
髪をまとめるために動いた、上腕三頭筋のたしかなボリューム。
タクマはただ、彼女の背中に目を奪われていた。
「……はっ」
やがてどちらともなく息をついた。
ベッサはこちらに気づいたらしい。はじめはぽかーんと呆気にとられていたが、やがて髪の色よりも頰を赤らめる。
「思ったとおり、美しい肉体だ」
「……っ!」
返事のかわりに投げ込まれたのは湿ったタオルだった。
タクマの顔を覆って、その視界は真っ白になった。
剣術の型とは、積み重ねの美学である。
数多の戦闘を経て最適化されたそれぞれの動きを、体系化していったもの。
それはトレーニングの種目が多岐に渡るように、ひとつずつ確かな狙いを持って形づくられたのである。
「次、下段の構えからの振り上げ」
ベッサの指示する動作を、タクマはひとつずつ体に教えこむ。
形としてだけではなく、それが筋肉の一片までどのように動かすべきなのか理解していく。
いわゆるマッスルコントロールである。
タクマにとって、型を覚えることは得意分野だ。
なにせトレーニングにおいても、狙った筋肉を鍛えるためには姿勢というものは最重要であるから。
動員する筋肉、しない筋肉。骨盤の位置から、骨格の可動域まで。
おのれの肉体を熟知し、完全に制御しなければトレーニングは最大限の効果を発揮しないのだ。
「……ふぅ、……すぅー」
タクマも、覚えて実践するまでは完璧といっていい。
そこはベッサも認めているところだ。
しかし、それが剣術になっているかというとそうではないが。
「ほら、もっとゆっくり。止まるんじゃないかってくらい、体をゆっくり動かせ」
「すぅー……はっ……」
そこでベッサが考案したのは、型の動作をスローモーションで行うという訓練方法だった。
まずは得意な分野を伸ばしていく。
できる限りタクマには多くの型を吸収させて、その精密性を高めていく。
実際に戦闘で使えるかどうかは二の次にして、まずは剣術の動きに慣れさせるというのが狙いだった。
「……なんだい、もうへばったのかい」
「はぁっ……はぁ。……意識が飛びそうだ。脚トレのあとくらいキツイ」
「そんなんで済むと思うなよ。今日は吐くまでやらせるからね」
ただこの訓練は、おそろしく辛い。
動作をゆっくりにするということは、そのあいだ筋肉も動かしっぱなしだ。
ずっと力が抜けないし、心肺機能にもかなりの負荷がかかる。
型を3つも行う頃には、汗だくで立っていられないほどだった。
「というか、やけに今日は厳しくないか……?」
「べつに。アタシに剣を習おうっていうなら、あんたも血へどを吐く覚悟だろう?」
「いや、鬼のトレーニングだ……」
ベッサの当たりがキツイことなら、さすがのタクマでも察しがついている。
着替えを覗かれたからなのだろう。
なにせ、訓練がはじまってから一度も目を合わせてもらえなかったのだから。
「ほら。今度は突きの動作だよ」
「い、インターバルをもうすこし」
「ダメだ。今日中に型をあと6つは覚えてもらう。そのあとは薪割りだからね」
「し、死ぬ……」
しかしトレーニングがきつければ、充実感も増す。
きつくても辛くはない。
ふと笑みをこぼすタクマだが、そのせいでベッサから、さらに苛烈なしごきを受けたことは言うまでもない。




