ポルカドットに疵付ける
真冬の朝は空気が冷えきって、不快で透明な音が鳴りそうだった。
香理は家の中ですでに冷たくなってしまった足を、厚手のタイツとブーツで包んで駅まで歩いてきた。約十分。
駅舎の中には、青いライトが灯る自動改札機が、何台か並んでいる。そこをくぐる時、足という部位の中で冷たいのは、ターコイズブルーのネイルが剥がれかけた爪先だけになっていた。
二番線に降り立って、線路二本を挟んだ向かいのホームを見る、午前七時過ぎ。三番線のホームの方が二番線より人が多い。足元番号一番に立って、その少し斜め前。赤茶に塗装されたH型鋼の柱に寄りかかって文庫本を開く女性を見つける。香理も彼女もほぼ毎朝同じ時間に、同じホームに立っている。彼女はしかし、文庫本から顔を上げず、香理はそんな彼女を見つめるのだった。彼女の持つ文庫本が、大学の教科書であったり、資格試験の参考書であったりしたことはあるけれど、電車を待つスタイルは変わらない。そして香理は毎朝、この後に訪れる一瞬を待っている。
それは、三番線に列車が訪れる旨のアナウンスが流れた後の瞬間。列車がやって来る方に向かって彼女がふと、顔を上げる。大学生にもなって、化粧っ気のない彼女の唇に、香理は赤いルージュを塗る想像をする。色が付くか付かないか。それくらいの時に、二人の間を列車が遮った。発車のベルの音が消えて、列車が彼女を浚っていった。残った香理も彼女が行った方向からやってきた列車に、ブーツの踵を鳴らして乗った。
江藤香理は凝り性である。小学校時代は、消しゴムをひたすらに練り消しに変えたり、シャープペンシルの残りの芯を小さな缶に貯め、ボンドでくっつけて鉛筆の芯を作ったり、工作糊を机の金属部分に伸ばして固め、ビニールのような膜を作ったり。飽きるまで些細な拘りを続ける子どもだった。児戯はやがて空想へと姿を変える。それはアウトプットしなければ他人にとやかく言われることはないと、理解し始めていた。用事がないときは空想に耽る。その習性ともいえるものの成れの果てが、今の彼女にとっては、毎朝向かいのホームに立つ高校時代のクラスメート、渡辺七海の唇に色をつける妄想をすることだった。
香理が七海に似合うと思って買った口紅は、これまでに十を超える。高校を卒業してから三年が過ぎようとしているが、香理の妄想はそろそろ香理の枠をはみ出して、七海の方まで染みていきそうになっていた。
今年の春の新色は一月の頭に発売される。香理は各社が競って発売するそれらの中から、真っ赤なルージュを選んだ。それはスティックタイプではなく、指にとって唇に差すもの。七海の唇に紅越しに触れることを考えると、香理はそわそわとした。発売日に買ってから鞄の中で揺られているルージュ。真冬の中のモノクロの彼女には特に映えるだろう。
列車に揺られる香理は丸いつり革を握って、さっき見た七海の白い顔に何度も紅を添えて、吐息を漏らした。
香理が新色のルージュを買ってから暫く経ったある日のこと。
大学から帰る途中、駅の改札を出たところで、香理は後ろから呼び止められた。江藤さん、という声には聞き覚えがあった。振り向くと七海が立っている。
「やっぱ江藤さんや」
朝、向かいのホームで見ていることがバレているのだろうか。焦る香理の前で、七海は首をかしげる。
「もしかして、忘れとる? 高校の時同じクラスやった……」
「……忘れとらんよ、渡辺さんやろ」
そう言いながら、香理は七海の姿を頭から足先まですっとチェックした。今日の七海は、珍しく化粧をして、布地が新しいパンツスーツを着ている。唇が薄桃色だ。
「就活?」
「うん、四回生の春までには決めときたくて。卒論もあるし」
「へぇ」
香理は七海の唇を染める色に苛立ちを感じた。
「江藤さんは?」
「大学に残る予定。試験まだやから、どうなるか分からんけど」
言葉を交わしていると、改札の向こうで足音が大きくなりはじめた。列車が次の乗客を連れてきたのだろう。香理は七海を促して駅の外へ出た。
冬の風が不意に吹き付ける。香理が足元に目を落とすと、七海が履く綺麗なパンプスが視界に入る。艶やかな黒がかつての七海を、香理の知らない七海に変えてしまっていた。
いや、この三年間、見ているだけで全く接点はなかった。高校生の時からの、彼女の変わらない様子を垣間見て、安心していただけなのだ。
「今日は面接?」
「うん、市内の」
「そうなん」
「あ、江藤さんはどこの院?」
「このまま、今の研究室にいるつもり」
「いいな。先生との相性、よかったんだ」
「まあまあ、かな」
教授を思い出し苦笑いした後。隣を歩く七海を見ると、彼女は瞼を微かに震わせていた。
途中のコンビニで香理は缶コーヒー、七海はミルクティーを買って、駅近くの公園の花壇の縁に腰かけた。
冬の常緑樹は、葉の色が少し黒く見える。花壇には『セアカゴケグモに注意』の立て札がかけられ、しかし立札のイラストはゴケグモではなかった。辺りに虫の姿はなく、パンジーが空っ風に柔らかな花びらを持っていかれそうになっている。
クラスメートだったとはいえ、取り立てて仲が良かったわけではない二人。その原因の大半は香理にある。香理は周りのことには全く関心がなかった。大学に入っても興味のある事には一生懸命になれたが、人付き合いはからっきしで、結局サークルにも入らず、研究室に所属してからはほとんどそこで過ごしていた。
「もう一年で大学も終わりで社会人だよ。就活してても全然想像できない、働いてる自分」
七海が隣で自嘲めいた笑いを溢した。
公園の地面は子どもを意識したのか、色タイルが使用されている。その中の群青色だけを目に映しながら、香理は高校の頃を思い出していた。
必要最低限。それが香理にとって心地のよい、他人との会話と距離感だった。
教室のどこにいても、それを心に決めて置いておけば楽に過ごすことができた。どうせ、三年。高校は目的を達する為の踏み台でしかなかった。香理の眼に映るクラスメートの中にいた七海は、香理とは真逆の存在だった。休み時間の教室に浮かび上がる、笑い声が作る水玉模様。そのどこかで水玉に混じっていた七海。それには入らないことを選択した香理。
数年経ってこうやって並んで座ったって、水玉が地に染み出すなど。
「江藤さんが羨ましいな、研究で残れるの」
そう言って、七海は唇を噛んだ。唇に張り付いていた薄桃色が、七海の前歯に削られる。色が落ちて、香理は七海に血が通っていることに気づいた。気づいたといっても、人形が人間に変化したというような。遠くから色を塗る存在だった七海が、香理の中で急に実体を持った。
進路のことで、七海は悩んでいるのだろうか。進学を諦め就活をすることにした。それによって傷ついた彼女にも紅が似合う。傷を違う赤で埋めたい、と香理は思った。
「渡辺さん」
と七海に呼びかけると、彼女の白い頬が、首の動きに沿って側面へ移動した。斑らに色が残った唇がよく見える。
七海に似合う、と香理が考えている色が、就職活動に向かない色であることは、誰の目にも明白であった。ましてや、いつもは化粧をしない彼女が、赤い色を付けるために越える壁は高い。
彼女の唇を、どうにかして自分の持つ色に変えてみたい。そんなことを考えていると、七海が持つペットボトルの口が、香理の目に留った。白かった飲み口にも、桃色が付着している。唇の色が落ちていることをそれとなく伝えると、そう?とだけ言って、視線を空気中に投げ出した。
「塗ってあげる」
唇の色を変えたい、という粘り気のある欲望が、言葉を押し出した。出してしまった声は引っ込めようがないから。さっとカバンに手を入れて、香理は例のルージュを出した。
「え、いいよ。そんな」
「色落ちしてるの、気になるの」
七海の前に立って、ほら、上向いて。と強引にこちらに向かせる。彼女は戸惑い目をしぱしぱさせながらも、口の両端に力を入れて塗られる体制になった。
香理はルージュの蓋を取って薬指に少し、色を乗せる。それから左手の小指で唇の輪郭を押さえ、色が乗った右手の指で七海の唇を軽く叩いていく。元あった斑らの桃色が、少しずつ赤に塗り替えられていった。
七海は落ち着かなかった。目の前の香理が、真剣に七海の唇を見ていることが。触れられているのは唇なのに、背骨がむず痒い。
香理の指はとても優しい。それなのに心が踏み躙られて、泣きそうだった。それは決して、七海が惨めだからではない。
混じり合わないはずのものが、指先と皮膚で繋がって。
真冬の曇天の下、七海の口元で、香理の赤い指先が閃く。空っ風が、鳴った。