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第七章


 宴は久しぶりに明るいものとなっていた。

 善き報せの象徴となったアーヴィングの騎士を囲み、ひとびとはまさに蜜に群がる蜂のようにざわつき、喋りに夢中になっている。

 彼らが騎士から想像しているのは、同じ一族である乙女、まだ一度も宴の場に現れていない王の花嫁の美しさだろう。

 ひっそりと隅で佇むギルロイは、杯を手にぼんやりと今夜の主賓を眺めた。

 森の一族らしい濃緑の上着が燈火の揺らめきに艶のある影を落し、周囲の浮つきからは遠い静けさをまとわせている。そのせいか、若木の如き騎士は緊張しているようにも、苛立っているようにも見えた。

 気にする者はいないし、ギルロイも考えないようにしていた。華やかな祝いの夜が重く見えるとしても、ヒューナードとはなんの係わりもない。

 全てはいつもの恰好という居心地の悪さ故――のはず。喉に転がした酒がやけにきつく感じられた。

「もうっ! ちょっと目を離した隙に……あっ、ギルロイ様……失礼しました」

「ハーシングのローセンだったな。勇ましき女長の守りは大変そうだ」

 ぶつかってきた女騎士は頬を赤らめ、いえそんな別にと呟いた。

 ギルロイは薄く笑い、乙女の手に握られた空の杯をそっと取り上げた。

「宴は長いぞ。酒に呑まれるな」

「はい……」

「まあ今夜は楽しめ。キンガも慎みを忘れたりはすまいよ」

「でも騒ぎを起こしていなくても、居場所くらいは把握したいなと……キンガ様にお会いしませんでしたか?」

「見てないな」

「ああ……急いで探さなきゃ……」

 と言いながら、ローセンの眼差しは中央のひとの囲みから離れない。女長より気になる者がそこにいるらしい。

「ローセンよ。ひとまずキンガは置いといて、森の騎士に挨拶してはどうだ? 森の一族にハーシングの女騎士を誇る役は、女長でなくとも勤まろう」

「挨拶はしたいのですけど……」

 近づく理由を貰ったわりに、ローセンは大きくため息をついた。

「自信がなくて……それなりの化粧をしてからでないと」

「装うだけが女の美しさではないぞ」

「ギルロイ様がそうお思いになるのはですね、ご覧になる女性が生まれつき装う必要のない美女か、綺麗に着飾ってどうにかした女だからですよ。大方の女は努力して取り繕ってやっと、ですから。身の程を知らないと」

 俯くローセンがヒューナードの隣に並んで見劣りするとギルロイは思わない。草地の中からすらりと伸びた花のような乙女は、いきいきとした魅力がある。

 ただ平原の女騎士の言葉は、ギルロイの胸にもつかえた。

「身の程というなら、俺は……一刻の寄る辺となっただけなのだろうな」

「は……よるべ?」

「これから咲き誇らんとする身なれば、若き力を傍らに置くのが似合い。か弱き手の求めるものが、俺だけなどと……傲慢な思い込みだ」

「にあい……」

 ギルロイの呟きは、ローセンの酔いの回った頭では上手く理解できなかった。単に話し手の滞るような気持ちだけが伝わって、とっさに浮かんだ考えは――僻みっぽい。

 高潔なる騎士が何を僻むのかと否定してみるが、無感動に杯をあおる姿は、拗ねているというのが最も正しいように思えた。

「あの、ギルロ……あっ」

「平原の宴は華やかですね。改めてギルロイ殿にはご挨拶を」

「挨拶を。息災でなによりだ、ヒューナード殿」

 ギルロイだけを見つめ、はちみつ色の騎士が大きく笑顔を作る。作ったとしか言いようのない笑顔であった。

「今夜の宴を充分に楽しんでくれ。貴殿が来て、ヴァイルント・ドネルには大いなる和がもたらされた。シアーズの不穏を残しているが、すぐに片づけられよう」

「全てはアルフレイ達の力添えによるもの。私が為したのは、些細なことです。残るシアーズについてはご心配なく。我が一族が追っていますから」

 ヒューナードはあくまでも微笑んでいる。だが声の柔らかさには刺が混じっており、言葉も素気ない。

 ギルロイ同様の困った顔で、ローセンは息を潜めた。

 未詳の平原の女騎士という立場では、この場から下がらねばならない。ただ、あまりにも早く始まってしまった会話のために、退く機は失われていた。

「森の一族としては、良い機会に恵まれたと思います。平原の方々の憂いを力で払えば、我らが末姫を取り戻す言い訳も立つ」

「取り戻す……?」

「スウェンがロイシンの男に泣かされているのかと思うと、我慢ならないので」

 冷たさを通り越して、蔑みすら感じさせるはちみつ色の瞳が騎士を見た。

「アーヴィングの娘を弄ぶのは、楽しいですか」

「弄んでなど」

「ならば教えて頂きたい。王の結婚相手が別の娘だと知っていながら、スウェンを偽りの約束に縛りつけた訳を。あなたの腕の中なら怖くないという娘を、どうして他の男に引き渡そうとしたのか」

 表情をなくしたギルロイの腕を、ヒューナードは掴んだ。

「王の花嫁という嘘から、あなたなら解放してやれた。なのにしなかったのは、したくなかったから? しようとも思わなかった? 聞かせて欲しいな……スウェンの想いに気づいてない、なんて嘘以外でね」

 ヒューナードのそれは押し殺した声ではあったが、貴ぶべき相手に対する口ではなかった。もちろん祝宴の片隅で行うことでもない。

 しかし止めないだろうと、ギルロイにも分かっていた。

「スウェンは、大事に思う者にしか渡さない。だからロイシン王には、やれない。こうなったらもちろん、シンリスだってやらないけどね」

「ヒューナード、それは」

「約束を守れって? でも愛しいと思う者をそばに置けない世界なんて、一つにする価値はないね。そんな約束は間違ってる。ああ、でもあなた達ハーヴィグの一族は、ずっと女達を置き去りにしてきたね。心寄せてくる娘など、捨て置いて構わない?」

「違う!」

 自らの激しい否定の声にギルロイの顔が歪んだ。

 そんな顔をするくらいなら、とヒューナードの中に怒りが湧く。目を見ずに顔を背けるのも、白々しい気持ちになった。

「ぼくには……あなたがロイシンの一族に負うものは分からない。だけどスウェンのために一度はシアーズと戦ったなら、もう一度、戦って欲しい。賢者が言うように、まだ間に合うんだ。あなたがスウェンの願いを叶えても、世界は壊れない」

 ギルロイは言い切るヒューナードを眩しいものを見るように眺めた。

 心のどこかで、かつて東の丘で力を振るったように、古き王の名を以てすればできないことなどないと知っていた。ただスウェンの伸ばす手をギルロイが取れば、紫の瞳の娘の時と同じ過ちを繰り返すようで怖かったのだ。

「ヒューナードよ、俺は終わり行く者で……姫君に誓えるような男ではない。お前達が知らぬ時、俺は東の地で古き王の名誉に驕り、手にしたものを失ってきた。お前が姫君を大事と思うなら……何も守れはしない男に、戦いに明け暮れる者に……愛しい娘を渡そうと思うな。それに姫は、俺を頼る気持ちを勘違いしているだけだろう。まだ雛が巣から離れられないようなもの。そばにいろと言いはしても、俺の花嫁になりたいなどと……一度も口にしておらぬ」

「長く生きてきて、嘘をつき慣れてしまったんですね、あなたは」

「嘘?」

「だって今の言葉は、スウェンから目を逸そうとして言い訳だらけだ」

 ギルロイは再度の否定をしなかった。したところで、嘘を重ねることになるのは分かっていた。

「契約の騎士よ、あなたが嘘をついていないと言うなら、今すぐスウェンに尋ねて欲しい。望みは何かを。スウェンはあなたのせいで我慢してしまったんだ。叶えられることだったのに。ぼくは知ってるんだ……アルフレイに会えば、あなたも分かる」

 掴んでいたギルロイの腕を放し、ヒューナードは寂しげな微笑みを浮かべた。

「アーヴィングの森で、ぼくはずっとスウェンのそばにいた。いつか……送り出す時が来るまで、守るのが務めだったから。あなたはスウェンに何を約束した? もう嘘は言わないで下さい。ぼくはそれが果たされるのを……見届けて、最後の役目としたい」

 この瞬間において、はちみつ色の騎士は金色の少女の守護者という意味では、誰よりも正しい者であった。


***



 宴の遠いざわめきが風に乗って聞こえてくる。

 スウェンは上掛けにくるまり、動くことを忘れたかのように伏せていた。

(ヒューは……ヒューナードは、どうするつもりなのかな……)

 願いを叶えてあげると言って、部屋を出て行った従兄。だができることなど、ないようにも思える。そもそもスウェンの望みというのは、言葉にすればひどい我儘でしかない。

 好きなひとの――ギルロイの、花嫁になりたい。

 とても単純なことであるのに、それを叶えようとすれば、平原と森の婚姻の約束を無にして、ヴァイルント・ドネルを混乱に陥れるか、姉姫シンリスに好きでもないひととの結婚を押しつけるのだ。

 その上いくらスウェンが願おうと、ギルロイが受け入れてくれなければ、無意味な願いでもある。

(リンゴくらいにしか思われてない……みたいだし……)

 では諦めようか。

 そんな考えが浮かびもするが、同じ勢いでヘアルドに許してと言いたくなっていた。従兄の言葉は存外、スウェンに力を与えてくれたようである。

 寝台の上でぎゅっと縮こまらせた躯を深呼吸で宥め、静かに顔を上げた。

 広い王族の間を全て照らすには灯りは小さく、闇の片隅にある王の部屋への秘密の扉は見つかりそうにない。ヘアルドに会うなら、広間に探しに行くか、回廊で待つかを選ばなくてはならない。

 迷うまま絡む金色の巻き毛を払い、スウェンは息を止めた。

「スウェン」

 微かな扉の軋みとともに、低いささやきが耳朶を撫でる。そこにいるのが誰か、分かりきってはいたが、声を上げなかった。

 騎士が腰の大剣を外し、部屋に入ってくる。乙女の前で男が剣を置く。それが血のつながった者でないなら、森の儀礼としては求婚に当たるのだが、それを平原の男に適応して良いかは、スウェンには分からなかった。

 ギルロイが寝台に座る間際、慌ててスウェンは上掛けを引っ張り上げた。

「スウェン、逃げるな」

 聞き慣れた低い声、髪に触れる優しい風のような口づけがスウェンを誘う。

 言われた通り、逃げているのはわかっていたが、そのまま息を潜めていると、やがて小さな悪戯が――くいくいと上掛けを引く動きがあった。

 反抗の意を込め、端を引き寄せる。と、いきなり脇に差し込まれた大きな手が、スウェンをひっくり返した。

「ギルっ」

「教えてくれ、スウェン。俺はお前に約束した。ずっとそばにいると。それがお前の望みだと思ったからだ。だがそれは本当なのか? それだけが望みなのか? 他に俺に願うことはないのか? お前の従兄殿に怒られたぞ……俺は己の愚かさを賢しさと思い込み、お前が口にしたかったことを封じてしまったと。だから……俺にまだ願うことがあるなら、言え」

 はしばみ色の瞳を真上に見ながら、スウェンは震える唇を小さく開いた。

 願うことは一つ。

 ただ、ずっと言ってはいけないと思っていた心の重石は退けがたく、言いたかった願いは、なかなか声にならなかった。

 もどかしさに惑うスウェンの頬を大きな手が撫でる。

「スウェン?」

「ギルの……」

「俺の?」

「ギルの、花嫁になりたかった……の。でもギルは誰か大事なひとを亡くして、わたしのことなんかリンゴくらいにしか思ってないだろうし、王さまの花嫁になるのも、止めてくれなかったし……だから」

 胸の痛みで荒くなる息の隙を突いて、スウェンは声を絞り出した。

「ギルの花嫁にして、なんて言えなかったの! 花嫁にしてもらえるはずがないんだから、諦めなくちゃいけないって! そばにいられるだけで良いんだって! それに、ヘアルドさまに約束を守るって言ったのは、わたしの方だもの……でも、本当は……ギルの花嫁になりたかったの……好きだからっ」

 ふわっと溢れる涙が世界を覆った。

(何か、言って。ギル……嫌なら、それでも構わないから)

 湖の中から見上げるような影が揺らめき、温かさがスウェンの瞼に触れる。そっと涙を拭い取って行く柔らかさは、あまりにも近くにあって見えなかった。ささやきが聞こえて初めて、それがギルロイの唇だと気づく。

「俺こそ諦めねばならないと思っていた、スウェン。俺に許されるのは、お前を守ることだけだと……俺のような呪いに塗れた男が、大事に愛されてきた森の娘を手にしたいと思うのは間違っている。森の金色の妖精は、若き王か騎士の花嫁になるのが似合い。そのくせ、こうやってそばにいられるのは俺だけだと自惚れていた。お前は他の男の手など取るまいと、愚かにも導く男のつもりでいた……スウェン、息をしろ」

 スウェンの鼻先にギルロイはふっと息を吹きかけた。途端にぷはぷはと小さな息が洩れるのを見て、微かな笑みを浮かべる。余程苦しげな顔をしていたらしい。

「許してくれ。俺の愚かさがお前を苦しめた。お前の胸にしまっていた願いは、叶えよう。もう二度と、息が止まるほど泣かせはしない」

「叶……えてくれるの……?」

「ああ、俺のそばにいろ。花嫁として」

 低く、近くなるささやきの意味に気づくより先に、スウェンはギルロイに抱きついた。欲しかった約束を聞き、今ここで命が途切れても構わないような気がしていた。

「ギル……ギルっ、でも……ヘアルドさまは許して下さる? 世界に果たす役を、アーヴィング一族が投げてしまうことを」

「心配するな。ヒューナード殿とは異なるかもしれないが、俺にも考えていることはある。いずれにせよ賢者の……アルフレイに会わねばなるまい。だが、もし」

「わたしはギルと一緒にいる! そこが森でも平原でもない場所だとしても!」

 最後まで言わせなかったスウェンの決意は、伝わったらしい。抱き締めたままのギルロイが、肩を揺らして笑った。

「勇猛なる森の一族の姫よ、約束については案ずるな。少しだけ待っていろ。森も平原も無事に収めてみせる」

 はいと小さく答え、スウェンは手を離した。

 別れではないとしても、ようやく手にしたひとの熱が腕の中から失われるのは、寂しいものだった。

 ギルロイも同じ思いでいたのだろう。惜しむような淡い微笑みを残し、扉の向こうに消えて行った。しかしその口許には、見間違いようのない僅かな苦みがあり、スウェンがその訳に気づいたのは、温もりの残る敷布に唇を当てた時になった。

(あれはっ……ギル、誓いの口づけ……しようとしてくれてたのね……)

 先に抱きついて阻止したのはスウェンである。近くなる吐息でそれと分からないスウェンが悪いのである。追いかけようかと思うものの、羞じらいもあって止めにする。

 戻るまで、全てお預け。

 怒るに怒れないスウェンだが、それで良かったのだ。と、ため息をついた。


***



 昼から降り始めた小雨も途切れ、草原に落ちようという陽は、枯れかけた葉先の水滴に最後の煌きを与えていた。

 窓を開けたスウェンは、その夜を呼ぶ前の一瞬の美しさに息を呑んだ。

 初めて遭遇した平原の嵐は、風を遮るものがないだけに激しく、雨とともに全てを洗い流して澄んだ空気をもたらす。

 しかし、全てを冬に塗り替えてしまうまで続く森の嵐とは異なり、小休止というものが平原にはあった。

 刻々と変わる空と大地の色を見ながら冬を待つ。それがヴァイルント・ドネルの平原の秋なのだ。

 スウェンはしばらくの間、嵐の息抜きのような夕暮れに見惚れていたが、遠い東の空の黒さに目を留め、首を傾げた。夜闇に沈むには、まだ早いだろう。

「ずっと見てなくても、誰かが来たら知らせくらい入るよ? スウェン」

「違うの、空が気になって。東の方は嵐みたいで……あっ」

 言うなり、暗雲から雷光が落ちる。スウェンはぎゅっと躯を縮こまらせた。

 だが、いくら待っても轟きは聞こえず、遥か彼方に光の乱舞が繰り返されるだけだった。

 でれんと伸びたアナグマのように長椅子に転がっていたヒューナードも、起き上がって窓を覗き込んだ。

「かなり遠いね。南の湖沼の辺りかな……こっちに来たりはしないと思うよ」

「そうなの?」

あうん(たぶん)ねー……」

 欠伸まじりで呟く従兄からは、少し前に見せた騎士の気概など昼寝の夢の如く消えてしまっている。

 それを怒るつもりはスウェンにはない。急に大人びるのは寂しくもあるし、とはいえ、のんびりとした口調で南と言われると、ざわついた気持ちを察して欲しくもなった。

「ねえ、ヒュー……ナード、姉さまは南に下ったのよね。ギルはだから、東で合流するつもりでハーサ川沿いに進んでるのよね? 嵐は……丁度その辺じゃない?」

「近くではあるね。だけど……アルフレイからの知らせが正しければ、もうとっくに出会ってる頃だよ。それですぐこっちに向かっていれば、嵐になる前に湖沼を抜けている、と思う」

「だったらもう……着いていてもおかしくないのに」

「そうだけど」

 ヒューナードの濁す言葉の先を思い、スウェンは口を引き結んだ。

 王の砦にシンリスが来る――正確には、ギルロイが連れて来ると言ったのは、本来の王の花嫁である姉姫に、婚姻の破棄を宣言させることを目的としている。

 すでに全ての一族がヘアルドを王と認めているのだから、乗り気ではない当人達を婚姻という約束で縛る必要はない。

 と、当人達の口から言わせることが、ギルロイの考える最も穏当に全てを収める方法だった。

 もちろんギルロイが率直に「スウェンが欲しい」とヘアルドに言うことも、できなくはない。

 だがそれが許されるのは、ギルロイの持つ古き王の名をひとびとが認めているからであって、「契約の騎士」としてロイシンに従う立場のままでは有り得ない。そして古き王の名は、新しき王の下で一つになることを目指す世界のためにはならない。使ってはならない。と、少なくともギルロイはそう考えている。

 半ば同意、といってもヒューナードの考えとしては、もう少しアーヴィングの側に寄る必要があった。シンリスのための正当な理由、そしてスウェンが負った身代りという嘘を、差し引く言い訳を捻り出さねばならなかったのだ。

 折よく、シアーズを片づけるという「功」をアーヴィングは得られた。しかもそれを為したのはシンリスである。言い訳には充分――ならば、それをもって堂々と断れば良い。

 さらには王が姉妹に揃って振られてしまえば、これ以上森の娘を求めるような見苦しい真似はすまい。という暝い思惑もヒューナードにはあった。

 一番の問題は、シンリス自身がそういった事情を知らないので、ロイシンの王に会うつもりがないだろうということだ。

 どうにかして伝え、連れて来る。

 それだけのことがとても難しいのだと、シンリスを知る二人にはわかっていた。

「姉さまは、アーヴィングの森を出た先の湖沼でシアーズに遭ったのよね? どうしてそんなところに行ったの」

「知らないよ。そもそも家出の訳を知ってたのは、スウェンだけだろ」

 スウェンの頭に顎を乗せ、ヒューナードは答えた。村で子どもだ、ばかだと言われたことは忘れていないらしい。

「だって……どこに行くかまでは言ってくれなかったし……シアーズのことを知ってた訳じゃないと思うけど……だいたい姉さまってば追って行くなんて、いくら剣に自信があっても危ないのに」

「アルフレイが一緒にいてくれて、良かったよ」

 スウェンをギルロイに託し、冬ごもりの砦に向かったヒューナードは、そこで思わぬ知らせを一族と突き合わせることになった。

 流石というべきなのか、賢者達はすぐにシンリスを見つけていた。ただ、用が済むまでは帰らないと頑なに拒まれ、さらにシアーズを見つけるに至っては追撃するとまで言い張り、守りに何人かをつけて残し、大方は村に知らせに戻るしかなかったらしい。

「冬ごもりの砦に着いたら、シンリスは見つかってるし、スウェンのことは……君が無事の知らせはわりとすぐに届いたけど、待ってる間は長かったよ。シンリスがシアーズを片づけたって知らせが届いて、ようやく叔父上がここに行くことを許してくれたんだ」

 後で乳母に謝れよ泣いてたんだから、という従兄のささやきを上に、スウェンは闇色になった平原を見つめた。

 心揺るがせ、案じているひとびとが北の森にいる。離れるのが掟であっても、離れたからといって想わない訳ではない。距離も時間も、心の中にしかないのかもしれない。もちろん言葉にしなくては、伝わるはずがないが。

「ところでさ、スウェン。今夜はアーヴィングだけで夕食にするけど、来る?」

「行く……ずっとみんなに心配させてるし、兄さま……」

「うん……」

 言いようのない沈黙が二人の間に流れた。

 確かな事実であっても信じたくないような、うっかり闇夜の中でぶつかったものが、ぬるぬるとして生温かかったような気分。

 敬愛する兄に対して大分失礼な例えなのだが、王の砦にいる者の抱いた思いとしては正しいはず。今や砦は、ロルドリスとキンガの話題に全てをもって行かれている。

 合議や宴ではハーシングの女長に幾度となく嫌味を浴びせられ、絡まれていた森の一族の長子が、ここ数日、何故か腕を絡め取られている。もっと正確に言えば、しなだれかかられているのである。

 キンガの真意が掴めず、アーヴィング一族は沈黙を保っているが、ロルドリスが嬉しそうなので余計に戸惑う。よもや結婚――双方事情があるといっても独身には違いなく――可能性は充分にあった。

「せめてランスリス様が何か仰って下されば……」

「そんなの何を言うのよ?」

「いや、賛意を示すとか心境を質すとかいろいろ」

 言いながらヒューナードの顔は曇って行く。彼自身、既にロルドリスに尋ねているのだ。そして、笑ってかわされてしまっていた。

 スウェンの方はと言えば、尋ねる前にかわされて、兄は姉以上に意志が固いのだと思い知るだけになった。

「ヒュー……ナードは、どう思う?」

「悪い話じゃないって思う……けど」

「けど?」

「スウェン……おや、ヒューナードもここに居たのか」

「に、兄さま!」

 繊細極まる話題の中心、混乱の元が微笑みを浮かべて立っていた。相も変わらず扉に鍵は掛かっていない。

「今……」

「あのね兄さまわたし反対しないから! ちょっと変な気がするけどもっと早くて良いんだしローセン笑ってたしそんなに意地悪な方じゃないとそれでだから」

「何を言ってるんだ、スウェン」

「えっ、ええと、兄さまの……」

「私? それより聞きなさい。先ほどギルロイ殿がお戻りになった。シンリスを連れて」

「えっ」

 動転する二人を前にして、ロルドリスの声は来る波乱を予見しているだろうに、いつものように穏やかだった。


***



 黒々と重く立ち塞がる扉は、中の緊張を滲ませたかのようである。

 スウェンは扉を見つめ、その向こうにいるひとを思い、来るひとを待っていた。

「来たか」

 ぽつりと呟いたランスリスの声に続いて、軽やかな足音と急かす小声が耳朶を打つ。

 振り向けば、長身の男が、賢者の一族であることを示す鴨羽の青緑色のマントをまとい、一人の若い娘を連れて回廊を歩いて来ていた。

「姉さま!」

 優雅に手を広げ、シンリスは飛びつく妹を腕に抱える。森に轟く美貌の姉姫は、スウェンがヘアルドの足許から奪い返した長衣を身に着けていた。

 アーヴィングの装いをした娘達を見て、ここが王の砦であることをランスリスは一瞬忘れそうになった。勝気な鳶色の瞳も、その脇から覗くように綺麗な青い瞳が見上げてくるのも、村にいた時そのままである。

 だが状況はどれほど変わったことか。複雑すぎる表情の父親に、シンリスは謝るように抱き着き、すぐに離れた。謝罪を言葉にしない強情さは、却ってランスリスを安心させた。

「スウェン様、私に挨拶はなしですか?」

「アルフレイ!」

 黙する強情な父娘の横で、金色の妹雛は小さな傷をさまざまに残した賢者の手を握った。

「会えて嬉しい。あのね、一緒にいるって聞いたから、姉さまのことは心配しなくてすんだのよ。ありがとう」

「うろついているところを見つけられたのは幸運でした。あなたを助けることはできなかったけれど……あのどんぐり下僕は何をしてたのか」

「ヒューナードを怒らないで。ちゃんと守ってくれたもの。それにギルが助けてくれたから」

 ははあと呟く賢者を押し退けるようにして、シンリスがスウェンの頬をそっと両手で挟んだ。

 覗き込む鳶色の瞳は好奇に満ちている。たとえ姉でなくても、愛称で呼んでいたはずの従兄と、愛称で呼ぶようになった男の意味に気づかない者はいない。

「あの方から伺ったけれど、少し疑っていたの。わたしの妹はまだ雛で、手のうちに包むくらいでまだ愛なんか語れないって。でもそれは間違いね、スウィー」

「サーガ姉さま」

「そんなふうに呼びながら付いて回ってきたあの小さな子が、いつの間にか花嫁になりたいと想うひとを得たなんて……ごめんなさい、スウェン。あなたに責を押し付けるつもりはなかったの。だからわたしが、断るわ」

「積もる話もあるでしょうが、さあ姫君方、並んで下さい。これ以上ロイシン王を待たせてはなりません」

 もっとシンリスに話したいことがあったものの、スウェンは賢者の言に従い背後に控え、顔を伏せた。

 王が声をかけるか、父長もしくは賢者に呼ばれるまでは、彼女たちはいないものとみなされる。

 その時に備え、スウェンは勇気を溜めることに集中した。

(断りを言うのが姉さまであっても……謝るのはわたしがしないと。嘘をついたのはわたしで、姉さまじゃないんだから)

 そして父長でもない。

 約束の反故の責は他の誰でもなくスウェンにある。

 合図で軋む音をたてて扉が開く。

 中央の壇にロイシン王と側近、一段下にギルロイ。両側の並びには、全ての一族の長が揃っている。

 賢者から静かに挨拶は始まった。

「常なる緑と叡智を願う者より、ロイシンの若き長、貴き王にご挨拶を」

「挨拶を。賢者よ、久しいな」

 王が返すものとしては、ひどく短い歓迎の挨拶に聞こえる。

 僅かに滲む冷たさを声に感じ、並ぶ者達の中には眉宇に不審を露わにする者、あからさまに好奇を見せる者も現れた。

 緊張するスウェンやシンリスに、賢者が気づいていないはずはないだろう。ただアルフレイは笑顔を崩すことなく、背後へと手を差し出した。しかし――奇妙な声が、檀の方から響いた。

「サァっ?」

「……は?」

 賢者は不自然な体勢で固まった。

 固まったのはアルフレイだけではない。スウェンも、そして横目で見た限りは、居並ぶ長たちもこわばった顔をしていた。

(今の声、何? 壇の……ヘアルドさま? え? アルフレイじゃないわよ、ね)

 とにもかくにも、スウェンは紹介が終わらなければ動けない。声のした檀を見ることもできず、ひとびとの挙動不審を感じるだけだった。

 もっとも、スウェンにとって初めて見るひとびとであれば、挙動不審と断定してしまうのは違うかもしれない。驚きや困惑といった感情に差がないとしても、壇上の貴人から目を逸らし、何もない振りを続けている努力が伝わってくるとしても、である。

 短い沈黙ののち、アルフレイは声の主を糾弾しないと決めたらしく、緩やかに言葉をつないだ。

「ロイシンの王よ……我らを煩わせていた悪意あるシアーズの残る二人は、ここにおわすアーヴィング一族の上の姫君、シンリス姫の手により終の闇を与えられました。森と湖沼、東のハーサの地を襲ったシアーズの禍難は、ひとまず脱せられたものと断言致します」

「シンリス姫……?」

 うわごとのような王の呟きと同時に、ひとびとの視線がシンリスに向かう。

 顔を伏せていても、乙女の美貌は見間違いようがない。なめらかで淡い光を放つ白い肌、華奢なとがった顎。鼻梁の美しさは完璧で、仄かなバラ色の頬が彩りを添えている。

 緩くうねる淡い麦色の髪は、長い首と細い肩を覆って背へと翼のように流れ、鮮やかな濃緑と純白の長衣をまとう嫋やかな肢体を縁取っていた。

「いやなんと申しましょうか……賢者殿が仰せになるのでなければ、かような乙女が剣を振り回すとは、信じ難いものですな」

 どこからともなく洩れた感嘆にひとびとが頷く。

「噂には聞いておりましたが、森の一族には美姫がまことに多い。シンリス姫と、隣に並ぶ小さな姫君は、妹姫ですか。こうして見ると、姉妹ごと差し出すのかのようですな。王の花嫁に年若い方の姫とは珍しいでしょう」

「言葉を慎まれよ、湖沼の騎士よ」

「おお、これは失礼! しかし、賢者殿はご存知ないかもしれませんが、すでに砦には王の花嫁としてお迎えした方が……いらっしゃるのですよ。もっとも、我々は拝顔の栄誉に預っておりませんから、どなたと言う訳には参りませんが」

 騎士の無遠慮な視線を感じ、スウェンは震えるのを辛うじて耐えた。

 湖沼の騎士が言わんとしているのは、賢者への牽制。「王の花嫁」の呼び名をもらった者が誰なのかを、砦にいるひとびとは知っているという「事」、すなわち嘘の存在を明らかにしたのだ。

 悪意を含んだ言葉は恐ろしいばかりだが、実のところスウェンが思うほど、ひとびとは意に介さなかった。

 湖沼の一族が、王の花嫁を出す森の一族を妬んでいることを知らない者はいないのである。まして乙女の美貌をその目で見てしまえば、今更姉妹を貶めても印象を悪くするだけ。新たな花嫁を差し出したところで、見劣りすると思われるのは分かりきっている。

 鼻白むひとびとの気配を自分のせいと感じたスウェンは、思い切って前に進み出た。

「わたし、アーヴィングの長の末の娘であるスウェンを、シアーズから助けるために王の盟友である契約の騎士ギルロイさまを遣わして下さったことを、深く感謝致します」

「スウェン?」

 父長と姉姫の小さな驚きの声を傍らに、可憐な少女が何を言い出すのかと、ひとびとの好奇の目が注がれる。

「ですがそのご厚意は、森の一族から花嫁を迎えるという理由だけで、向けて頂けたものではないと信じております」

「もちろんだ、姫」

「王の砦でわたしを王族の間に迎えて下さったのは、人目から……守るため。どの一族の娘であれ、同じ扱いであったと思います。湖沼の方や、他所の一族の方々に誤解を与えてしまっ……たことを謝り」

 あっという間に青い瞳から涙が溢れ出した。

「わたしは嘘、を……ヘアルドさまに」

「姫、待……」

「ロイシンの若き王よ、我が妹の涙を止める気がないのであれば、連れて帰っても

構いませんか。見ていられません」






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