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第六章


 王の砦は平原を通り抜けるハーサ川のほとり、まさに平原の中央にあった。

 大きく視野を遮るものがないとはいえ、砦から懐かしい北の森を見ることはできない。南に蒼く霞む海は微かに見えるが、スウェンはもっと近く、ロイシン一族の『都』を囲む城壁を眺めていた。

 灰色の石壁はかなり大きく、風から、あるいは侵略者から守るため、あれが木々の代わりを務めるらしい。

 窓の窪みから下り、スウェンは風に跳ね上がった巻き毛を慌てて撫でつけた。

 平原はどこまでも広がって美しいが、吹き荒れる風には困る。せっかくギルロイが朝までかかって綺麗にほどいてくれたものを、無駄にしてしまうところだった。

 王の砦にきてから、ハーシングの女達のように、緩くでも編んでみようかと思うこともある。しかしそれもすぐ諦める。

 スウェンの軽い巻き毛では、束に分けるのさえ一苦労。ふわふわと逃げる金髪を一人で結ぶのは難しすぎた。

 荒々しい風の中で生きるわりに、平原の女達の着こなしは森よりずっと寛いだものである。

 女騎士のローセンは男達と似たような衣装でいるものの、キンガなどは薄い衣の胸飾りを外し、ゆったりと重ねた折り襞を広げている。

 それは女の目から見ても艶めかしく、ふと真似してみようという気になった。

 ギルロイにとってスウェンが雛鳥か小さなリンゴに見えるのは、平原の女のような魅力が足りないからに違いないのだ。

 布の端を腰帯から引き抜き、緩みを持たせ、銀の留飾りを外す。ふわりと広がった胸許が、微かな風を招き入れた。

「……」

 キンガほど胸が大きければともかく、スウェンではただ不格好なだけに思えた。

(何か想像と違……ううん、こうすれば色っぽいかな? どうかな)

 右手を後頭部に、左手を腰に置いて思いっきり胸を突き出してみる。

「…………」

 寝起きのガチョウがそこにいた。

(おかしいわ……! 白鳥の悩殺の技だって姉さまが見せてくれたのにっ)

 二度、三度と腰を振って、やはりガチョウの散歩にしか見えず諦める。

「可愛いものが見られたな……」

「へあうっ!」

 どうしてどこからと考えるまでもなく、無断入室の声の主はガチョウの擬態を目撃し、笑うヘアルドだった。

「座れ」「嫌」

 スウェンの速やかな否定にヘアルドは目を伏せた。目眩いでも起こしたかのように、こめかみに指を当て、不快そうなため息をついてみせる。

「じゃあ私は立っているから、座るといい。食事もまだだろう?」

 今度はスウェンも素直に従う。これで反抗しては、命令口調まで改めたヘアルドに対して大人げなさすぎる。

 小卓の上にハーシングの女騎士が運んできた薄焼きパンの包みを広げ、小さく千切る。空腹を満たす麦の香りが、恥ずかしさに荒ぶる気持ちを静めた。

「昨日は……失礼なことを言いました」

「謝るつもりがあるということは、ロイシンとアーヴィングの婚姻が必要だと、お互い分かっている訳だ」

「互い?」

 スウェンの問う視線に気づかないまま、ヘアルドは落ちていた枕を拾った。

「私に兄弟でもいれば、形だけという結婚も有り得たが……姫には、森の姫君にはロイシンを引き継ぐ子を産んでもらわねばならない」

 俯いて言葉をなくしたスウェンに向かって、枕が投げつけられる。

「姫、聞け。私が必要なのは……結果だ。愛などではない。だからそれまでのことは譲ろう」

「譲る?」

「婚姻の時まで、愛しい男と恋を楽しんでこい。誰でも良い、姫が好きな者に我儘をきいてもらえ。賢者でもないのに世界から身を引いて、何でも知っているような顔をしている奴を困らせてやれ。それを……許す」

 誰でも良いと言いながら、ヘアルドは明確に一人だけを示している。そこには何か後ろ暗い思惑でもあるのかと疑いたくもなるが、スウェンを見ようとしない王の端整な横顔からは、別のものが読み取れた。

(ヘアルドさまには……想う方がいらっしゃるのね)

 その女性との結婚を、叶えることはできないのだ。婚姻を強いられて傷ついたのは、シンリスもスウェンも、そしてヘアルドも変わらないと初めて気づいた。

「ごめんなさい……」

「謝るな。私は、愛せもしない花嫁を迎える卑怯者なだけだ。本当は止めてやりたいとも思う。ただのロイシンの長のままなら……止められたかもしれない。だが無理なんだ……森の一族が他の一族に見くびられるのは、姫とて嫌だろう?」

 王の砦で、一族の長達が何を話し合っているかがよく分かる言葉である。

 ロイシンの長を王とすることに従いはしても、次という順列に拘る者達はいる。

ヘアルドが森の娘を妃に迎え入れる影響は、スウェンが予想するより大きいのだろう。

「わたしは……アーヴィングの約束は……守ります」

「良い返事だ。あれほど昨夜は泣いたくせにな」

 ヘアルドは過ぎた夜を繰り返すかのように、スウェンの顎を指先で持ち上げた。

「どうする? 私からギルロイに言ってやろうか? 子ども扱いしないで下さいって」

「じ、自分でっ、言……だってギルロイさまとは限らないんですけどっ?」

 なけなしの嘘にヘアルドはにやりと笑い、横を向いてわざとらしく難しい顔をした。

「それは困ったな。ギルロイならば許せるが、他の男では子どもができたら……」

「こっ? 子どもっ? そんなのそれはそんな」

 ずいぶんと広い意味で、ヘアルドはスウェンに恋の自由を与えるつもりらしい。

「違うわだって、ギル……ギルが許さないわ。それに許すってそんな……ロイシンとは言えないし、出自を偽ることになるのよ」

「跡継ぎとしてはそうでもない。伯父上の子であれば、おれより古きロイシンによほど近しい。まあ……女であれば、おれの子も一人くらいは欲しいかな」

「お、伯父っ……さま? ギルが?」

 知らないのかとヘアルドの目が見開かれる。

 言われてみれば、ギルロイの一族であるハーヴィグはロイシンの祖である。しかし伯父甥というほど近いとは思わなかったのだ。

「姫はギルロイをギルと呼ぶのか……」

「えっ?」

 惑乱に陥りかけていたスウェンに、ヘアルドの少しだけ拗ねた声がかかった。

「ギルって呼ぶのはおかしいの?」

「それはロイシンの王にさえ許されていないんだがな? 契約の騎士の名を自分のもののように扱うのは……どこのお姫様が我儘を言ったのやら」

 間髪入れず、ヘアルドの顔に枕が飛ばされた。


***



 しなければならないことがある時、風のように過ぎ去って行く時もあれば、澱んだ水のように動かない時もある。

 その例えで言えば、今のスウェンは嵐の中で水桶に浸かっているようなもの。為すすべもなく水浸し、という境地に甘んじていた。

 ヘアルドと奇妙な取り決めをしてから三日。ギルロイに何も言えないまま――それどころか、二人きりになれないまま時は過ぎている。

 もちろんロイシン王の信頼厚い騎士ともなれば、忙しいのは分かっている。

 とはいえ、部屋を訪れてもすれ違う日々が続くと、避けられているような気がするのだ。

「そんなこと、ない……わよね」

 ぽつりと呟いたスウェンの横で、ぱたりと黒い馬の耳が動く。煩いなあと言わんばかりの仕草は、どんぐりを投げつけた悪戯娘を、ともにギルロイを待つ仲間とは認めたくないのかもしれない。

 捕まらないのなら待ち伏せを。と、スウェンは城の内陣にある馬場に来ていた。

 運良く、外出のための装備をつけた黒馬を見つけ、待つ気になったものの、誰も現れる様子がない。これでは、ロルドリスが妹の不在に気づくもの時間の問題である。

 このところ兄はすっかり妹の番人と化している。スウェンを一人にしないよう頑張っているのだろうが、なかなかギルロイを捕まえられない理由も、その張り付きにあった。

「そばにいなくても良いのに……わたしといると、兄さまは意地悪言われるんだから」

 妹の番人となったロルドリスに対して、美人だけれど口の悪いハーシングの女長キンガは、嫌味を言うのが生きがいとなっているらしい。

 ロルドリスが軽く受け流しているのは、叔父に怒られる方が大変だと思っているからで、アーヴィングの怒れる金の猪を知っていれば、当然の感覚である。

 しかし平原の女キンガが叔父を知るはずもなく、ロルドリスは妹ばかり気にする情けない男と決めつけられている。

 スウェンはキンガも一度叔父さまに怒られてみればいいんだわ、と褒められないことを考えた。

「そこにいるのはスウェンか?」

「ギ……ルっ」

 ぽん、と心臓が跳ねるのと同じ勢いで、スウェンは立ち上がった。

 待っていたはずなのにいざその時がくると、頭の中は真っ白になる。心構えも何もあったものではない。

「ギル、あの……」

「相変わらず悪戯者だな。ロルドリス殿の見張りからどうやって逃げた?」

「兄さまは今、お昼寝で……」

 昼夜を問わずの見張りの結果が、それである。

 だがスウェンは、澄んだはしばみ色の瞳を見上げながら、少しだけ泣きたくなった。

「やっぱり兄さまのあれは、見張りだったの……」

「姫にそう言われると、ロルドリス殿も困るかもな。そばにいるように俺が頼んだのだ。王の花嫁を一人にしてくれるな、と」

 花嫁と小さく呟き、スウェンは俯いた。

「そう……ロイシン王の花嫁のそばには、契約の騎士だっていられないのね。ギルがわたしを避けてるのは……気のせいじゃないんだわ」

 ギルロイは黙ったスウェンの前に片膝を着き、血の気の失せた頬を大きな硬い手でそっと包み込んだ。

 覗き込むはしばみ色の瞳の穏やかさが、却ってスウェンを苦しくする。王の花嫁となる約束は変えられない。契約の騎士も、それを変えるつもりはない。だが世界のために、それは正しいことなのだ。

 顔を上げないまま、スウェンはギルロイに抱き着いた。

「スウェン?」

 当惑する低い声は、無視する。王に許されたのだから、もう遠慮はしない。誘惑して、かりそめでも恋人として扱ってもらうつもりでいた。

「ギル、わたしはっ」

「仕方ない、一緒に行くか。ヒューナード殿を迎えに」

「えっ?」

 スウェンの中の決死の思いが霧散して行く。代わりに湧き上がるのは、懐かしいはちみつ色の甘い心地。

 はしばみ色の瞳の視線を追って馬場の扉が開くのを見つめる。

「ヒュー!」

 入ってくる者の中のうち、スウェンの目が真っ先に従兄を見つけ出したように、ギルロイと黒馬の影に入っていた従妹をヒューナードもまず見つけた。

 最初に為すべき礼も忘れ、はちみつ色の騎士が金色の雛に駆け寄る。

「スウェン、会いたかった! 自分の目で君の無事を確かめたかったんだ、どうしても」

「わたしも!」

 スウェンを抱き締める硬い腕、強さとしなやかさが半々の胸、離れていたことが信じられないくらい、馴れた匂いが鼻先をくすぐる。

「ヒュー、怪我してるって聞いたけど……治ったの?」

「大したことないから。それより……ごめん、守れなくて。スウェンを守るのが、ぼくの役目だったのに。怖い思いをさせたよね」

 腕の中に金色の従妹を抱いて、ヒューナードはギルロイを見た。

 髪と同じはちみつ色の瞳は、ギルロイと初めて森で会った時とは比べ物にならないほど大人びていた。もう少年と見ることはできない。一人の若き騎士である。

「契約の騎士殿。我らが末の姫を救って頂いたこと、アーヴィング一族より改めて御礼申し上げます。シアーズとともにいたはぐれ者どもは、全て片づけ終わりました。その上で賢者の助言に従い、王と長にお伝えしなければならないことがあります」

「では俺が王のところへ案内しよう」

 ヒューナードに頷きを返し、ギルロイは近づく番人を制した。身をこわばらせたスウェンを慮ってのものだ。

「スウェン……」

 察した従兄の心配を否定して、スウェンの金色の巻き毛が揺れる。それに頬を押し当て、抱き締める若き騎士の姿は、王の砦で娘を迎えたランスリスによく似ていた。

 だからギルロイが胸を痛める必要はない。彼らは兄妹のようなもの。しかし。

「こちらだ、ヒューナード殿」

 従妹を抱えたはちみつ色の騎士に言い知れない思いを抱く己を、ギルロイはひどく嫌悪した。


***



 森からの新たな客を迎え、ひとびとはさまざまな思いに浸ることになった。

 賢者の「まだ間に合う」という短い伝言が、異なる場に生きてきた者達のわだかまりを捨てさせた。

 このまま王の次席を競っていては、シアーズの脅威を打ち払えない。己が一族の利を減じたとしても、まずは為すべきことを為す。それはとても単純な決意だが難しい決定でもあった。

 だが、それを選ぶと長達は新王の前で誓った。全ての一族が王の臣下として等しい地位にあり、ひとびとを守るために力を尽くすと。

 一つの王国となる新たな見通しを得、ひとの集まりは謁見の間から広間の祝宴へと場を移した。

 しかしギルロイは、すぐには広間に向かわず、ぷらぷらと回廊を歩いていた。

 晩餐の始まりまでは、僅かに暇がある。いつもなら知己の騎士達と話でもしているところだが、どうしてもその気にはなれなかった。謁見の間でのヒューナードを思い浮かべ、密かにため息をついた。

「あら、ギルロイ様。もう広間においでになったかと思いましたわ?」

「キンガよ、そう言うお前もまだだろう。しかし、ずいぶんと(めか)し込んだものだ」

 ふふんと笑って、ハーシングの女長は銀細工の首飾りをつまんで見せた。

 平原の技巧を自慢するというより、よく磨かれた爪先や、胸の辺りの衣の折り重ねが少ないことを強調したかったらしい。布の薄さがキンガ自慢の胸の豊かさを浮かび上がらせ、美貌を鮮やかにしていた。

「これは森の若き騎士様に見せるためよ。平原の女も美しいのだと思わせたいの」

「充分だな。だが、もう少し年上の猪殿を狙っていると思ったぞ」

「そりゃあね? わたくしの魅力を知るには年月も必要よ。だから見せるだけ……あの若さなら、わたくしよりお姫様だとか、ローセンの方が似合いでしょうよ」

「そうだな」

 ギルロイの声に憂鬱さを感じとり、キンガの片眉がきゅっと上がる。

「まさかと思いますけど、こんな所を歩いているって、着替えに戻るおつもりかしら?」

 女の勘とは侮れないものである。口ごもる騎士に盛大なため息が贈られた。

「呆れた……! アーヴィングの美貌に臆してどうするのよ。戦う男なら、見かけ以外で勝負なさい! 嫌ね、名を伝説の如く広めた古の王のくせに」

 要するに外見は敵わないと言い切られてしまった。ギルロイは顎に手をやり、苦笑を隠した。

 キンガに言われるまでもなく、容姿を争うつもりはなかった。ヒューナードの真新しい森の騎士の正装の前で、古の騎士の威厳を少しでも示せればと思っただけなのだ。それを虚飾と言われれば、そうかもしれないが。

 平原の誇り高き女長は、さえない契約の騎士を残して憤然と去った。らしくない男の面倒をみるほど彼女も優しくはない。

 流石に戻る気を失い、向かう先を迷うギルロイの背後に、入れ替わりのように別の足音が近づいてくるのが聞こえた。

「ヘアルド……まだ着替えていなかったのか」

「しなければならないか? 今夜は飾り立てたところで無駄だろう……何故笑う」

「いや……」

 充分に恵まれた容姿でありながら、ヘアルドもヒューナードに嫉妬しているようだ。ギルロイもまた己の嫉妬――嫉妬であると認めるしかないものを笑った。

「腐らずに磨け。その気概が最後に残るものだ」

「余裕だな、ギルロイ。あれは……姫には、余程大事な騎士と見える」

 暝く虚ろな灰青色の瞳がギルロイに向いた。

「こうなった以上、双剣の王なんて古い名誉で、姫を落せるなんて思うなよ」

「ヘアルド! 姫はお前の花嫁だ」

「まだ違う。まだ……言いたくないとも言われた。だからおれは姫に告げたんだ。花嫁でない間は自由だとね。恋を叶えてくれば良いと」

「お前は何を……」

「でも……平原の男のつまらない誇りだとしても、あの森の一族の男にはやりたくない。それくらい……分かると思ったのに」

 緩く首を振るヘアルドに、返す言葉をギルロイは持たない。

 愚かで虚しい取り決めを挟み、騎士と王とは黙って別れることになった。


***



 焼いた牛肉の薄切りを上に乗せ、たっぷりと肉汁をかけた厚くて堅いブレッド。添えた小壺には、新鮮な酢漬け野菜が収められている。

 さらにもう一つの蓋付鍋の方は、三種の豆のスープが香草を飾って食欲をそそる匂いを漂わせていた。

 リンゴやベリーを混ぜた焼き菓子も熟成は充分。しっとりとして柔らかそう。供されたものは全て温かく、ローセンからは微かにエールの香りがしていた。

 白い布に包まれていた夕食は、祝う催しの食事、つまりヒューナードの歓迎の晩餐の一部であった。

「すごい、美味しそう。でもローセン……足りないものがあると思うのだけど」

 女騎士一人では運べないから、果実のソースや豚の丸焼き、脂と魚をたっぷりと煮た汁はスウェンも諦めがつく。だが祝いの席に付随するものは、一つ持ってくるのに労はいらないはずである。

 見上げる青い瞳の期待を裏切り、ローセンは腰からリンゴ酒の瓶を取って横に置いた。

「やっぱり匂いで分かっちゃう? でも姫様は、いつもので我慢して下さいね」

「狡いわ。せめてエール……最初の日は、はちみつ酒を渡してくれたのに」

「あれはその……ことによってはまあ、あれかしらって……」

 頬を染めた女騎士を見て、スウェンも仄かに赤くなった。あの夜、ヘアルドが結婚を告げにくることは、王の砦の誰もが知っていたらしい。

「でもまあ本当は、結婚の儀式まで待たないといけないわよね? だから幽霊が出るんだし」

「ゆ、幽霊……?」

「まだこの砦がお城だった頃、結婚を強要された若い姫君が身を投げたらしいの。それで王族が相応しくない「夜」を迎えようとすると、泣きながら回廊を走る亡霊が……」

 怖いわね、と身を震わせるローセンに、スウェンは何を言うべきか。

 当たり障りなく頷き、何も言わないことにした。

「そろそろお偉い方々のお食事も終わった頃だろうし、あたしは広間に戻るわね。キンガ様がロルドリス様に喧嘩売ってないか見張ってる」

「ごめんなさい。兄さまの分まで面倒をかけて」

「いいのよ。なんだかロルドリス様って、構いたくなる感じよ。あ、そうだ……」

 他の一族の長子すら弟妹扱いのローセンが、奇妙にかしこまった表情でスウェンを見た。

「今日ご到着の……あの……凄い美形の騎士の方って、姫様の……?」

「びけい……?」

 あまり「騎士」と合わせて使わない形容を聞いて、スウェンは誰についての話か混乱した。

 美形美人美貌、それは大抵女性を表すものだ。もちろん男性に対して全く使わない訳ではないし、例えば叔父などは森に名立たる美貌の騎士である。とはいえ王の砦にいない者のことを言っているとは思えない。

 困ったように目を瞬かせるスウェンの前で、

「あんな美麗な男性がいるなんて、信じられない……! いえね、ほら、今いらっしゃる方々がどうって言うつもりはないんですよ? でもあの綺麗なはちみつ色の瞳が……」

 ローセンは握り合わせた両手を豊かな胸に当て、夢見るような遠い目をした。事実、夢見る乙女である。

 言うところの美形がヒューナードと分かり、スウェンも自分が褒められたかの如くにやにやした。

「森の一族って本当に狡いわ。あの……姫様、もし良ければそのうち……ご紹介頂けます?」

「もちろん!」

 快諾を胸にローセンが急ぎ戻る一方、残されたスウェンは、怪しげな笑みを顔に張りつかせたまま食事を腹の内に片づけた。それから空となった小壺を布に包み直し、先ほど持ち込まれた衣装箱を見つめる。

 ローセンに勢い良く答えたものの、紹介は宴ですべきもの。人を避けることを言い訳に閉じこもっているが、彼女の願いを叶えるならば宴に出なくてはならない。

「もう怖くない……と思う。ヒューもいるし、みんなにも会いたいし……」

 考えてみれば、砦に来てからまだ一族の者と顔を合わせていない。父長とともにきたアーヴィングの警護の騎士達は、スウェンの怯えを慮り、そっとしておいてくれている。だが幼い頃から面倒を見てくれた者達に対して、いつまでもそれではあまりにも悪い。

 スウェンは蓋を開け、中から衣を取り出した。

 平原の襞の多い装いも美しくはあるが、やはり慣れた森の衣の方が落ち着く。姉のものしか入っていないのを訝るが、長袖のチュニックと長衣、ゆったりと脇の開いた上衣を選んだ。

「借りちゃっても構わない……誰っ」

「男は怖いが、あのアーヴィングの騎士に会うためなら宴に出るのも平気なのか」

「ヘアルド、さま」

「言っておくが、あの男は許さないぞ。ギルロイであれば我慢もしよう。だが、あいつでは認めないからな。もし森の騎士を選ぶなら、取引は止めだ」

「許さないって、ヒューのこと? ヒューが何をしたっていうの。ヒューは」

「姫の大事な男か?」

 ヘアルドが何を怒っているのかスウェンには分からなかった。ただ灰青色の瞳の昂ぶりが恐ろしく、酔った男の気配が躯を動けなくする。

 大股で近づくヘアルドの足に、落した長衣が踏まれた。

「止めて! 踏まないで! それはっ」

 スウェンのものではなく姉姫のもの。一番上等とは言えないが、とても大事にしていた姿を覚えている。恐怖も忘れ、ヘアルドの足に飛びつく形で長衣を奪い取った。

「そんなにあいつの……待て、それは」

「スウェンに近づくな!」

 鋭い声が二人の間に投げかけられた。

「離れろよ、恥知らず」

 扉のそばに立つヒューナードは、ヘアルドに向けてわざと侮辱的に顎を上げてみせた。

「王族の間に許しなく入り込むとは豪胆だな。流石はアーヴィング……と褒めようか?」

「扉は最初から開いていたけどね。でも入り込む許可はもらえたみたいだ」

 大仰な仕草で一歩踏み出し、ヒューナードが扉をくぐる。広間を思って浮かれたローセンは、扉をきちんと閉めていなかったらしい。

 むっとした顔のヘアルドだが、それ以上入室を止めることはしなかった。代わりにスウェンを引き寄せ、はちみつ色の瞳が怒りを滾らせるのを眺めた。

「ようこそ、我が妃の一族の者。王と定めた者への礼を欠くのは、姫に免じて見逃そう。すぐにでも出て行けば、全て忘れてやる」

「いいからスウェンを放せよ、怖がってるんだ。そんなことを許すアーヴィングの男はいないぞ」

「許さないから、どうだというんだ? ロイシンにアーヴィングの姫を嫁がせる約束は、変えられるものではないのに」

 ヒューナードはヘアルドの暗い笑いを鼻先で笑って、衣をしっかりと抱えた従妹を王から引き剥した。

「どうするも何も。お前が脅しているのは、お前の妃じゃない。ぼくの小さな従妹だ。上手くいかない苛立ちで当たり散らすような奴に渡せるか」

「なんだと?」

「へえ? 嫌がらせだと思ってないんだ?」

 はちみつ色の瞳が琥珀のような光を帯びる。

「森と平原の婚姻が大事だと知っているなら、迎える乙女には誠意を見せるものだよ」

「それは姫にも言えることだ」

「だからアーヴィングの姫は約束通り、王族の間にいる。花嫁として愛されるために、幸せになれると信じて。なのにどうだ? お前は怖がらせるだけじゃないか。王が聞いて呆れる」

「黙れ!」

 蔑みを表にしたヒューナードの言葉は、ヘアルドを激昂させた。同時にスウェンも震わせた。嫌がり、逃げ出し、約束を守れていないのはスウェンも同じなのだ。

「ヒュー、待っ」

「バカなんだな、あんたは。それとも本当に気づいてないのか。花嫁をあてがわれた腹いせを、スウェンにしてるってことに」

「違う!」

 冷たいはちみつ色の瞳と、逆上する灰青色の瞳が真っ向からぶつかり合う。

 互いに面識などないに等しい。だが、騎士は怯える金色の少女を見ただけで王の隠し事に気づいた。想う女を花嫁に選べなかった苛立ちが、彼にはあると。

 もっともそれは、従妹を大事に思うヒューナードの少しばかり身内褒めに近い勘からくるものだった。

 いずれにしても、目を逸したのはヘアルドの方が先になった。

「約束を守ると言ったのは姫だ……それに決まってしまったことで、おれに何ができる?」

「王なら言い訳するな。古の物語を賢者から聞いていない訳じゃないだろう。王というものは決まりを守る者じゃない、決める者だ。ハーヴィグからオズウァンが王の称号を奪ったところで誰も認めなかったのは、やつらがヴァイルント・ドネルに対して何も決めなかったからだ。王だというなら、新しく決めたら良い」

「分かってないのはお前だ! 新しい世界は、シアーズと戦えと命じる者を王と呼びたいんじゃない! もう戦いに明け暮れるだけでは、王とはいえない。もっと、ずっと先のために決めたことを守らせる者が欲しいんだ! なのに……王が守らなくてどうする」

 若い王の冴えた美貌が、はちみつ色の騎士の腕に守られた乙女に向く。

「そういう意味では……私は愚かだったな。私は姫に許すと言ったのだから……もう誰を選んでも、何も言わない」

「待てよ、許すって何」

 ヘアルドはそれ以上の説明は加えず、開け放しの扉から出て行った。

 すれ違いざま若い王から自嘲を混ぜた一瞥を投げつけられ、少しばかり戸惑ったものの、ヒューナードはまずこわばるスウェンを寝台に座らせた。

「どうしてシンリスの身代りを承諾したんだよ……スウェン」

「父さまから聞いたの?」

「うん。だけど君が本当はどう考えているのか、知りたくて。君はきっと長に言われたら、嫌とは言わないからね。ま、シンリスもそういうところがあるけど」

 くすりと笑うヒューナードの腕の中で、金色の雛が動く。

「ヒュー、ヘアルドさまを怒らないで。悪いのはわたしなの。わたしが引き受ければ、姉さまのためにもなると思ったの……」

「やっぱりね。でも君にシンリスの代わりはできないよ? ギルロイ殿が好きなんだろう?」

 小さく息を止めたスウェンのどうして分かるの、と尋ねる声が、互いの心にだけ伝わった。

「分かるよ。だって君は笑ってぼくを迎えてくれたから……大好きなものを見せたがるみたいにね。迷子になったり、叱られた時は、泣きながら駆け寄ってくるのにさ」

「もっ……もうそんな子どもじゃないってば」

「そうだね」

 はちみつ色の騎士は、スウェンの金髪を優しく撫でた。

 丁寧に梳かれた髪は指先をするりと通し、いつもの羽毛玉とは違っている。誰かのために美しくあることを惜しまない姿は、幼い妹のように思っていた従妹が、いつの間にか乙女になっていた証だった。

「スウェン……君の望みを言ってみて」

「言ったらいけないの。平原との約束は守らないと」

「それがなんだよ。君が無事なのは、ギルロイ殿がいたからだろ。あの時、ぼくは君がどこにいるかも分からなくて、躯を引きずるだけで、何もできなかった。君は……シアーズに連れられてどこにいた? 何をされてた? 間に合ったと思う? 王の砦にいた長やロルドリス様は知らないんだ。今、スウェンが笑っていられることの危うさを。君を失っていたら、守る約束なんてないのに!」

 スウェンは従兄を見上げ、微かに首を横に振った。

 ヒューナードが何もできないことはない。村でギルロイに出会わなければ、いずれ一族のものではない馬の跡を追って湖に着いただろう。

 ただ、間に合ったかどうかは分からない――その場にいた者だけにしか分からないことは、確かにあった。

 金髪を撫でつける手が止まり、はちみつ色の瞳がスウェンの顔を覗き込む。宵闇の灯火のそばで、ヒューナードとこれほど間近に見つめ合ったのは久しぶりだと気づいた。

 スウェンが覚えているのは、柔らかな丸みを持った少年の顔。平原の女騎士が美形と称讃する、気圧されるような大人の男の顔ではない。

 それでも目の中の強い意志の光は昔のままで、許されるはずのないことをしても良いと信じそうになる。

「ヒュー、わたし……」

「手を出して、スウェン」

 言われてぎこちなく差し出した手に、大きなどんぐりが一つ付いた腕環が乗せられた。それはシアーズに襲われて無くしたと思っていた大事なものである。

 スウェンはそっとヒューナードの手を握り返した。

 ギルロイほどではないがしっかりと硬く、力強い手。幼い頃の記憶からすれば、見違えるようなもの。愛称で呼ぶ時は終りにきていた。

「ヒューナード……」

「そうだね……もう君はぼくの小さな従妹ではなくて、我らがアーヴィングの末姫だ。時期外れ生まれで、いつか森を出て行く姫君。こんなに急だとは思わなかったけれど、多分、どれだけ時があっても突然だって思ってしまうだろうから……仕方ないかな」

 長らくお守りをこなしてきた騎士は、僅かに残る幼さ惜しむように、スウェンの頬を両手で包み、優しく額に口づけた。

「スウェン、彼に望みを伝えるんだ。言葉で。彼の花嫁になりたいってね。言えばきっと彼は叶えてくれる……いや、ぼくが叶えさせる」

「望んでも良いの? 約束を破ることになるのよ」

「心配ないよ。それについては、ぼくに考えがある……もちろんシンリスだって、望まない結婚なんかさせないからね? ロイシン王も想う娘を花嫁にすれば良いんだ」

 スウェンの顔に浮かんだ不安を読み取って、ヒューナードは大きく頷いた。

「覚えてるかな、アルフレイが言っていたこと。君はいつでも森を出て良い、好きなひとを探しに行って良いんだって。その通りに君は……ハーヴィグの古王を見つけ出したよ?」

「ヒューっ……」

「ヒューナードだってば」

 はちみつ色の騎士は、金色の妖精の頬を指先で軽くつまんだ。

 この先忘れられないだろう寂しさを、束の間、その柔らかさで癒すために。







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