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第五章


「ロルドリス、どうだ?」

 森で最も勇猛な一族の長ランスリスは、控えの間の前でじっとしてる若い男に話しかけた。

「義父上……無事とは聞いているのですが、静かすぎて。いくら助けられたといっても、伝説の騎士の名に臆する妹ではないでしょうし、喧嘩していないか、却って心配で」

 温和な顔の直截な物言いは、正しいだけにランスリスには堪える。ため息を受け止めるだけの重い扉を眺めた。

 王の砦と呼ばれるだけあって、戦いに備える場でありながら華やかな意匠を凝らしてある。もともと平原の一族の方が飾りを好むので、森の一族が見ると気遅れするくらいだ。

 そうはいっても、ランスリスはロイシン一族を神聖視するつもりはない。ただ、契約の騎士という存在の力を無視できないことは分かっていた。

 平原の王の盟友が、拐われた姫の無事を約束したのなら、ランスリスは――森の一族は動けない。もし自ら動けば、平原を信じていないと見なされてまう。

 だが本当ならランスリスがすべきことだった。シアーズから娘を奪い返し、村を襲ったはぐれ者どもに報復するのは。

「とにかく……契約の騎士は、その名の通りに助け出してくれたわけだ」

「義父上、間違ったで入ってしまいましょう。王はまだのようですし」

「む……」

 呼ばれもせずに入ることはできない。しかし早く無事を知りたくてたまらない。怒る父親から、ぷいと顔を背ける娘に会いたい。結婚相手となる王に、礼を欠くなと言わねばならない。何より傷ついているなら、抱き締めて守ってやれなかったことを謝りたい。

 猪の如き勢いで、父と兄の勇猛さが間違った方向へ走る。

 思い詰めたランスリスの灰色の目が許可を出す。弟に知られ、月が一回りするまで怒られ続けることになろうと構うものか、行け――

 ロルドリスの手に押された扉は、暗い音に反して軽々と開いた。

「シンリ……ス」

 兄が探したのは、森の美姫と名高い妹の勝気な鳶色の瞳。なのにロルドリスが見つけたのは、柔らかな金色の巻き毛をもつれさせ、男物の肌着一枚で立ち竦む小さな妹の姿だった。

「スウィー……スウェン!」

「スウェン? スウェンだって?」

 呆然とした義息を押し退け、ランスリスは控えの間に飛び込んだ。

 よくもまあここまで絡んだという金髪の下で、怯えていた青い瞳がランスリスを捉える。

「スウェン! シンリスではなく、拐われたのはお前だったのか!」

「父さまっ」

 青い瞳からあふれる涙を最後まで見ていられず、ランスリスは華奢な躯を強く抱き寄せた。まだ見つかっていない姉姫への不安は残されているが、今は小さな存在を確かめるように、柔らかな金髪に頬を押し当てる。

「どうして……まさか一人で森の中にいたのか? ヒューナードは何をしておったのだ。シンリスのことだけでも胸が潰れそうだというのに、お前まで。顔をよく見せ……ひどい頭だな。うむ、無事で良かった」

「ヒューは悪くないのよ、父さま。隠れていたのに見つかったわたしが悪いの」

「その娘がアーヴィングの姫か?」

 扉のそばにロイシン一族の若き長、ヴァイルント・ドネルの新王となるヘアルドが佇んでいた

 父親が娘を掻き抱く横で、ロルドリスは控えの間をそっと出て行った。この場に招かれていない男は、王と会うことできない。

 それを執り成すように、ギルロイは口の端で笑い、まずは椅子に座れとヘアルドに示した。

「王よ、盟友との久しぶりの邂逅であろう。挨拶より先に姫君に目をつけるとは如何なものか」

 ひやりとするような物言いにも聞こえる。しかし王は気分を害した様子もなく、ゆったりと椅子に座った。

 秋の葉に似た黄褐色の艶やかな髪がさらりと揺れ、灰青色の瞳と氷に触れるような冴えた容貌が明らかになる。

 年はロルドリスよりヒューナードに近い。長としては若い方だが、王となる威厳は充分に備えていた。

「言う通り座ったぞ? まずは挨拶をしておこうか、ギルロイ。我らが世界のための合議には、来ないのかと思った」

「新しき世は新しき者に。古き者は見守るだけがよかろうかと。だが遅れたことは謝らねばな。アルフレイに会えなかったために、思いがけずアーヴィングの一族の世話になった。ひどいことはあったが、善きこともあった。幸いに感謝を」

「感謝を。盟友の善きことを、ともに分かち合いたいものだ」

 ヘアルドの灰青色の瞳がランスリス、そしてスウェンに向く。

 父親の胸のうちから出ようとしない娘を軽く撫で、ランスリスは王へと礼を返した。

「ロイシンの若き王よ、この小さき者が、契約の支配者たるギルロイ殿の手によって救い出された我が娘、アーヴィングのスウェンになります。災厄に遭った娘に憐れみを頂ければと思います」

「もちろんだ。ここでは禍を遠いものとして、その頬に微笑みを浮かべられるよう、心よりもてなそう」

 ランスリスに促され、スウェンは蒼白の顔を上げた。

 王が新たな客の訪いを認めたのだから、挨拶をしなければならない。契約の騎士への感謝やシアーズのことも知らせるべきである。だが、躯は動かない。震える唇を開いても、それだけに終わった。

「スウェン……」

 気遣う父の声に泣きたくなる。

「ヘアルド、すまないが姫君を休ませてやってくれ。か弱き乙女の身は、平原を越える旅路が堪えたようだ」

「ギルロイ殿の仰るように、我が娘は長旅を無事に終えたばかりで、ずいぶんと恥ずかしい姿を晒してしまっております。若き王の前での乙女の羞じらいを、どうぞ無礼と取らずにおいて頂ければ幸いです」

「そうだな。スウェン姫か……狙ってその名をつけた訳ではあるまいが、可憐な姫君だな」

「お褒めに預り光栄……」

「平原の者達にも、我が妃となる森の姫の美しさの噂は知れ渡っている。まあその自慢も、寛いでからにしようか。王の砦は城ではないから、姫君が休むには快適とはいえないかもしれぬ。王の間でも良いか?」

 ランスリスが何一つ感情を表さずにいられたのは、年の功というものだったのかもしれない。

 王がスウェンを花嫁と誤解したのは、やむを得ない。まさかアーヴィングの姫を連れて来ておいて「違う姫」だと思うまい。知らせを聞いたランスリスも、来たのは姉姫の方だとばかり思い込んでいたのだ。

 こわばったスウェンの手を握り、ランスリスは長としての責任と父親としての想いを巡らせ、全てを決めた。

「ヘアルド様のお心遣い、痛み入ります。しかし父としては、婚姻の誓いもまだの娘と、部屋をともにさせるのは……」

「勇猛で知られる一族でも、父の心配は変わらぬか。いや、王の間とは冗談だ。用意するのは、我が部屋の隣にある王族の間だ。それくらいは、構わないだろう?」

 優雅な微笑みを浮かべる王と平静そのものの父。スウェンは二人を信じられない思いで見つめ、叫び出すのを辛うじて耐えていた。

 王の誤解を機に、花嫁がすり替えられたのだから当然である。

(どうして……姉さまが見つかるまでの身代り? ギルは……)

 契約の騎士は、スウェンではなく、姉姫が王の結婚の相手であることを知っている。彼が指摘してくれたら、王も誤解を羞じなくて済む。

「部屋はともかく、女物の衣などは誰か女長に借してくれるように言わねばな。姫を案内してくれるか、ギルロイ」

「承知」

(どうして……ギル、言ってくれないの! わたしが……)

 俯いて潤んだ視界に大きな影が入り、ランスリスがスウェンの手を騎士へと渡した。

 小さな抵抗の証に、握り返したりなんかしてあげない、と伸ばした指は、大きな硬い手に丸ごと包まれた。

(こんなの狡い……)

「スウェン姫、どうぞこちらに」

 ギルロイの手はいつものように温かかった。だがスウェンの躯は、足裏に感じる石床より冷えきっていた。


***



 王の砦には、ヴァイルント・ドネルに生きるほぼ全ての一族の長が集い、世界を一つに変える話し合いをしていた。

 ギルロイが砦に到着した時には、新たな王を認めることは正しい形で決まり、平原の一族と森の一族の婚姻も、ほぼ揺るぎないものとなっていた。

 ために、ロイシンの長ヘアルドを除けば、宴で最もひとに囲まれていたのが森の長であるのは当然だった。それは契約の騎士に守られ、王の砦に連れてこられた彼の娘、『王の花嫁』に対する興味からきている。

 しかし、その傍らに話題の乙女の姿はない。夜の宴に出られる年に達していないから――というより、今夜においては群れる男達を恐れてのことだろう。

 ギルロイは久しぶりの酒を舌先に転がし、ざわつく広間に目を向けた。宴も半ばを過ぎ、ひとびとは緩やかな酔いに満ちている。

「ギルロイ様、何を物思いに耽っていらっしゃるの。あの可憐な王妃様のこと?」

「王妃……?」

 眉をひそめたギルロイに、ハーシング一族の女長キンガは、わざとらしいほど大きなため息をついた。

「わたくしに世話を頼んでおいて忘れるなんて、荷物扱い? 周りをご覧なさい。契約の騎士がお連れした森の姫君の噂で持ちきりなのに」

「そうか、王妃といえばそうだな……キンガ。姫君の様子はどうだった?」

「うちの一番面倒見の良い女騎士に任せてきたわ」

 つまらなさそうに杯をあおり、キンガが肩を竦める。

「森の一族の娘は初めて見たけれど、あれで同じ女なのかしらね。柔らかくて華奢で、そのくせ触るとしなやかで引き締まった躯! ただの仔猪かと思ったら、とんでもないわ」

「……触ったのか」

「ええ、着替えを渡すついでに確かめさせて頂きました。それが何か?」

「いいや……まあシアーズに拐われて、少しばかり若い男が怖いようだから、気をつけてやってくれ」

「分かっているわ」

 ふと顔を曇らせたキンガにギルロイは笑みをこぼす。口では嫉妬めいたことを言いながら、少女の無事に安堵する女長は優しい。

 大地の女神の強さを讃える平原の女長が、森の娘の繊細な作りを羨むのは、多分狙う男が森の一族なのだろう。先ほどからちらちらと誰かを探しているようだが、ハーシングの女に目を付けられた男は、どうも隠れてしまったらしい。

「それにしても……シアーズがオズウァンと一緒だったんですって? 本当に手を結んだの? それはシアーズの元からの計略?」

「どうだろうな。先の戦をシアーズとして加わらなかった者達らしいな。シアーズにしても、卑怯者ではないかと思うが……それでも奴らはオズウァンの末裔と話をつけた。ともに森の村を襲うくらいには」

「いずれにしてもこんな時よ、つまらない諍いは止めて欲しいものだわ」

 軽く鼻を鳴らすキンガの苛立ちが、ギルロイ不在の間の話し合いがどんなものであったかを想像させた。

「ねえ、ギルロイ様。嫌な女だと思わないで頂戴ね、アーヴィングの禍が良い刻に起こったと言うことを。あれで森の一族は目覚めたはず……彼らは海から遠く、どうしても平原の者と感じ方が違うのよ」

「心配するな。森の勇猛なる猪は、はぐれ者も残るシアーズも逃さぬ。その上で驕ることなく、ロイシンの王を戴くことを受け入れるだろう」

 そして若き王の隣には、金色の妖精が微笑む。違う道もあったと心のどこかで考えなくもないが、ギルロイはロイシンの契約の騎士として祝うつもりでいた。

 ふわふわとした雛のような少女に、ギルロイでは安らぎを与えてやれない。敵を滅ぼすことを選び、復讐に全てを捧げた男は、オズウァンの流れた血と同じようにヴァイルント・ドネルの時から失われるのが良いのだ。

 ただ時折、その考えが揺らいでいると感じる。

 もし紫の瞳の娘が生きていたら、彼らを呪うこともなく、どこかの丘に住み着いて安らぎを得ただろうか、と。

 それは抱き上げたスウェンから野生リンゴの香りがした時、羞じらう仕草を見せた時、腕の中に温かさを感じて、とくに強く思うのだった。

「いつもと違う目をしてるわよ」

「疲れているんだ」

「そういうことにしておきましょう」

「そうしてくれ。で、キンガよ。誰かを探していなかったか?」

「だっていないんですもの。真っ直ぐ行くのが猪でしょうに、どこをうろついてるのよ? まさかヘアルド様の気を殺いだりは……」

「ヘアルドの……気?」

 くいっと自分の杯を空にして、キンガは黒い瞳をきらりと光らせた。

「広間にお姫様がいらっしゃらないんじゃあ、お部屋で告白するしかないんじゃないの?」

「なる、ほど……」

「さあ、わたくしも休むことにするわ。お姫様はご心配なく。ヘアルド様では、あまり夢のあるささやきはできなさそうだけど、勇猛で知られた一族なら丁度良いでしょう」

「ああ……ロイシン王は姫君を大事にするだろう」

 去って行くキンガはギルロイの呟きを聞いていなかった。あえて聞かない振りをしてくれたのかもしれない。

 呟いた声がひどく硬く響いて聞こえたことは、ギルロイにも隠しきれなかったからである。


***



「王族の間なんて本当なら、あたし達みたいな騎士は入れないから、見てみたかったのよね」

 ローセンと名乗った若い女騎士は、スウェンの髪を櫛けずりながら嬉しそうに微笑んだ。

 スウェンより少し年上らしい娘は、大柄で鼻筋の通った凛々しい容貌をしており、ハーサ川の岸近くに住むハーシングの一族であるという。

 その女長キンガも背の高い黒髪の美人であったが、いきなり抱き締められ揉みくちゃにされ、なんという乱暴な一族かと思ったものの、あれは例外らしい。

 ローセンは細やかな気遣いを見せ、広間に行きたがらないスウェンの意を汲み、居座る理由のできた部屋を楽しそうに見回していた。

「ここは砦だけど、昔は城として使われていたの。隣のヘアルド様の部屋だとか、この王族の間は後で加えたところね。さっき通ってきた回廊の手前に、本当の王族の使う部屋があるわ。だからギルロイ様のお部屋は、そっちになのよね。どっちにしても、あたしは入ったことはないけど」

「本当の王族?」

「森のひとは知らないかしら? ギルロイ様は古い伝説の一族の王よ。ロイシンの一族が、まだそれほど強力でなかった頃、ヴァイルント・ドネルで最大の力を誇っていたわ」

「戦いに明け暮れる一族……?」

「あ、それは聞いているのね」

 ゆるゆると頷き、スウェンは部屋を見つめた。ギルロイは何も言っていない。ただ、東の方にいたというだけである。

(ギルは……ハーヴィグの一族なのね。オズウァンより前の……支配者)

 その伝えられる好戦的な性質とは逆に、賢者達が敬愛を込めて語る一族である。

 しかし、かつて戦場を巡り世界を支配し、争いに生きた一族は同じ寝所に戻ることを嫌い、徐々に数を減らしていったという。

 滅びたとは言わない。血を分けた子孫は、あちこちの一族の中に残されている。その子らが父と同じ一族を名乗ることはなかっただけ。

 いつ死ぬか分からぬ男、帰ることを誓わぬ男の跡を継がせる母はおらず、一族の女達も戻らぬ男より、ともに生きる者を夫に選んだからだ。

 そして気づけばひっそりと、ハーヴィグの一族は消えていたのだ。

「じゃあギ……ルロイさまは一人きりなの……?」

「そうね。一族はもういないと……あっ、でも賢者の一族の中にはまだいるかも」

 スウェンが余程悲しそうな顔に見えたのか、ローセンは慌てて言い繕った。

「それに一人っていっても、ロイシン一族が……あら、どなた?」

「すまない……アーヴィングのロルドリスだ。妹に会いたくて」

 扉を小さく叩く音に返すには女騎士の声がきつく、アーヴィングの長子は弱々しい返事を投げかけた。

「失礼しました! ロルドリス様、いつも我が長が迷惑をかけて、申し訳なく思います」

「いや迷惑だなんて……」

 開け放たれた扉の向こうで、人影が困ったように頭を掻く。それが兄ロルドリスであるのに、スウェンの躯はこわばった。

「ロルドリス様、ここは王族の間ですから、よその一族の方は……」

「いや、いいんだ。私はここでも。スウェンと少しだけ話ができればそれで」

 いつものローセンならロルドリスの申し出通りにするのだが、しょんぼりと肩を落す兄の姿は己の内気な妹を思い起こさせ、慰めなければという気持ちになった。

「それなら……そうですね、袋を被せて入って頂くのはどうでしょう? 姫様の生きた荷物ということで。お兄様ならどんな我儘でも聞いて下さいますよね」

 女騎士の微笑みを見ながら、兄妹は同じものを想像した。その結果、ロルドリスは袋詰めにされることもなく無事、部屋に入ることになった。

 はちみつ酒を置いてローセンが辞去し、静かになった部屋の中、スウェンは兄の隣に座り、頭をもたせかけた。ロルドリスからは、幼い頃と変わらない、懐かしい匂いがした。

「兄さま、何のお話をしにきたの。姉さまのこと? それとも」

「察しが良いね、スウェン……ロイシン王との結婚のことだ」

 落胆より先に諦めが心を覆う。分かりきっていたことである。王の花嫁として顔を合わせた後では、否定しようもない。

「スウェン、最初にロイシンから申し入れがあった時、義父上は……お前を選ぼうとしたんだ。どうせ外に嫁がせるなら、王くらい高貴な方が良いと。そうしなかったのはやっぱり、まだ手許に置いておきたかったからで」

「でもこのまま姉さまが見つからなかったら……」

 ロイシン一族との婚姻の話が壊れるだけでなく、世界を一つにする約束にひびが入ることは間違いない。

「分かってくれるね?」

「はい……って、言わなくちゃいけない?」

「おや、姫君には承諾頂けていなかったのかな」

 不意打ちの声に兄妹が振り向けば、控えの間で見たような豪奢な上着は脱ぎ、寛いだ薄い青のチュニック姿のヘアルドが部屋の中にいた。

 一体どこから入ってきたと呆然とする兄妹の目を見、ヘアルドが口の端に笑いを乗せる。

「ここは王族の間故にな、いくつか細工がある。すまないが、我が義理の兄よ。もう戻ってもらえないか」

「は……承知しました」

 ロルドリスはスウェンを抱え、扉に向かった。

「待て、連れて行くな。姫君と話がしたいと言っているんだ、私は!」

「そうでしたか。では私は……これでよろしいでしょうか」

 全くよろしくはない。スウェンと背中合わせに立った男を見つめ、ヘアルドの顔が歪む。

 兄にあくまでも王と妹を二人きりにする気がないとみて、ヘアルドは追い出すのを諦めた。どれほど温和な顔をしていようと、ロルドリスも森の勇猛な猪の一族である。平原の長を相手にしても、あっさりと引いたりはしない。

 ヘアルドは背を向けた男を生きた壁とみなし、持っていた剣を置くと、スウェンを見下ろした。

「私が怖いか?」

 深い彫りの中で、アーモンドの実を型どる目が金色の娘を捉える。その瞳に映り込む顔が決まり悪げなものであり、肯定を返してしまっていることをスウェンは少しだけ羞じた。

 控えの間でのヘアルドは、冷たい冬を現わすような美貌に見えた。しかしこうして間近に見る瞳の灰青色は、明るい春の空を映す湖に似ており、黄金をまぶした褐色の髪は、芽吹きを待つ木々のようだった。

(本当は、怖いひとじゃない。わたしが怖いと思ってるだけで……でも)

 今のスウェンは、若い男というだけでシアーズを思い出してしまう。ヘアルドのどこにも、似ているところはないのだが。

「まず先に訊いておこう。姫を襲ったのは、シアーズとオズウァンの末裔だな?」

「そうです……二人のシアーズが、はぐれ者三人と一緒に行動していました」

「では少なくともあと二人が野放しとなったか。もしアーヴィングが追い切れなければ、狩り出さねばな」

「王よ、我がアーヴィングの誇りに賭けて必ず追い詰めます。ご安心下さい」

 話に割り込まれ、鬱陶しそうにヘアルドが口を引き結ぶ。それでも思い直したように、スウェンの顎を指先でつまんだ。

「我が花嫁となる者よ、返事を。子どもではないのだから、我儘は許されないぞ。私が怖くてもこの結婚は止められない。背後の兄上も言い含めようとしてここに来たようだし、分かっていよう?」

 ヘアルドの告げるそれは結婚の申し込みというより、説明のようなものだった。はい、分かりましたという返事以外はいらないのであって、スウェンは一言だけ応じることを求められている。だが。

(わたしは王さまが怖いから、嫌なんじゃなくて……っ)

 父、そして兄から王の花嫁になれと言われる理由はとても良く分かる。ほとんど同じ理由で、ヘアルドも花嫁になれと言っている。

 ただ、契約の騎士にそんな理由は当てはまらないはずなのだ。

「だってギルっ……はっ……」

 名を言った途端、スウェンの留められていた気持ちが壊れた。

 呼んだら来る。そう言ったひとが来ない。ずっと撫でてくれると言ったのに、そばにいない。嘘をつかないと約束したくせに、嘘をついている。

(どうしてわたしが王さまの花嫁になることに何も言ってくれないのっ)

「ギル? ギルロイのことか? それがどう……」

 涙をあふれさせた青い瞳にたじろぎ、ヘアルドの手が離れた。

「まだ……言え、ない。言いたくないの!」

「今拒絶したところで変わらないぞ!」

「そんなこと分かってる!」

 スウェンは兄をも突きとばす勢いで部屋から飛び出した。待てじゃまだ放せという騒ぎを背に、泣きながら仄かな灯りだけの回廊を駆け抜ける。

 闇を走る金色の亡霊の乙女の噂が砦に出回ったのは、このすぐ後のことだった。


***



 勢い良く扉にぶつかる音がギルロイの耳に届いた。

 しばらくは部屋を間違えた酔っぱらいだと思い、そのままにしておく。王の砦で用もなく動いているのは、もうすっかり出来上がった者達だけである。ギルロイとしても、絡まれる苦労をしてまでいちいち面倒を見ていられない。

 それでも流石にぽんぽんと軽く叩く音が続くのにうんざりして、夜番の衛兵を呼びつけようかと扉に近づいた。

 だが扉を開ければ、兵を呼ぶ前にまず酔っぱらいと目が合うことになる。続く状況を想像するのは容易く、迷った末にギルロイの手が止まる。

「……るっ」

 か細い声が、扉越しに滲んで聞こえた。

「ぎ……るっ!」

 まさかと開けた隙間へ金色の巻き毛の玉が飛び込んできた。

「ギルっ……ばかっ」

「スウェン、どうし……」

「嘘つき! 呼んだのに来ないなんてっ! ギル、一緒にいるのっ」

 騎士は微かに首を傾げ、泣く小さな躯を部屋に招き入れた。

 古い寝台と椅子代りの大きな木製の荷箱、それに立てかけられた大剣が燈火に照らし出されている。

 静かに休むに相応しく、過ごしやすそうな部屋である。壁掛けはないが室内の暖かさは充分で、スウェンの素足に触れる床の敷藁もよく整えられていた。

「そんなに泣くな。ヘアルドが怖がらせたのか? あれも長として厳しく育てられて、優しくするのに慣れていないからな。とにかく今夜は……ここで眠れ。そばにいてやるから」

「今……だけ?」

「俺とてヘアルドのじゃまをする訳にはいかぬよ」

「じゃあ、ギルは……止めてくれないの? ……花嫁にする、の」

 スウェンの大きな瞳が騎士を真っ向から捉える。金色の巻き毛をそっと撫でる手の優しさは、どこか嘘に匂いがしていた。

「やっぱり誰かにあげるリンゴくらいにしか……思ってないの」

 応えはない。まばたきもしない。小さな呟きなど聞いていないかのよう。

 遥か昔に王であったひとには、スウェンはほんの子どもにしか見えないのだ。

「少し眠れ、スウェン」

 スウェンは黙ってギルロイに抱き着いた。

 今だけというなら、ギルロイの熱だけを感じて眠りにつきたかった。


***


 夜明けにはまだ間があり、星の光を飾った黒々しい空へ、見張りが回廊に打ちつける槍の柄の音を微かに響かせていた。

 金色のもつれた髪を撫で、ギルロイは眠るスウェンを起こさないよう、寝台から静かに立ち上がった。

 今から眠る気にはなれない。乙女を腕に置いて、寝ずに夜を明かすというのも久しぶりだとため息をついた。

 別に、スウェンに何かした訳ではないが。

 どんぐり妖精の健やかな寝姿をぼんやりと眺めた後、ギルロイは華奢な躯を抱き上げた。今のうちに部屋に戻しておけば、ロイシン王の花嫁であるアーヴィングの姫が、契約の騎士のところで一晩過ごしたと噂されずにすむ。

 もっとも、王族の間から泣きながら逃げて行ったことが誰彼に目撃されたとなれば、こんな小さな配慮など、意味をなさないかもしれない。

「少しばかり罪作りだぞ、スウェン?」

 腕の中の少女にささやきかけるが、もちろん返事はない。軽く唇の動く寝顔は無垢なばかりで、じきに咲き誇ろうかという色香をまとわせる乙女には少し遠い。

 ギルロイは微笑みを浮かべ、王族の間の中に躯をすべり込ませた。寝台はと視線を巡らせ、灰青色の瞳を見つけた。つまらなさそうな顔のヘアルドが寝台を占拠していた。

「……ヘアルド?」

「やっぱりそっちに行ってたか」

 若き王は緩慢な動きで身を起こし、騎士を手招いた。

「姫を寝かせるんだろう? 別に何もしないから安心しろ。おれ……私も部屋に戻る」

 ヘアルドは大きな欠伸をし、はちみつ酒の瓶を小卓に置いた。充分に量があったはずだが、逆さに振っても、一滴もこぼれなさそうだった。

 ギルロイは軽く首を振り、空いた場所にスウェンを寝かせた。

「出て行った時とは大違いの顔だよな」

「ヘアルド、今の姫は若い男が怖いのだ。大事にしてくれるひとびとばかりではなく、恐ろしい力を振るう者がいると知ったから。優しくしろ」

「優しくしたぞ! 充分に!」

 憤るヘアルドを見、騎士は静かに笑った。ふいと顔を背け、黙った若い王の横顔は、少し見ぬ間に精悍さを加えていた。

 ただその中に苛立ちと諦めを見て、ギルロイは首を傾げた。いつだったか、こんな顔を見たことがある。とてもよく知っている誰かの――と、胸の奥に懐かしさが込み上げた。

 それは今では笑うだけの昔語り。愛する者を手にすることができないと思い込んだ少年の顔だった。

「ヘアルド……誰か想う者がいるのか?」

「私は王として、ヴァイルント・ドネルを導く役目を担っている。アーヴィングの姫との婚姻は、ロイシンにとって欠かさざるもの。その愛らしい姫君に……不満はないんだ」

 黙る灰青色の瞳が示すのは、王としての意志。それ故に、ヘアルドの心に忘れ難い誰かがいることをギルロイは知った。

「王としての役目に囚われすぎるな……リンドバート」

「伯父上が言うと迫力があるな。一族すら捨てたひとの言うことは。おれにはできない、できるものか! だけど……もしも貴方が古き王の名を取り戻すなら」

「それはできぬ」

 硬い否定は古い威厳そのもので、ヘアルドの躯は一瞬震えた。

「分かっている。幼き日のように頼れないことくらい……愚かなことを言った」

 親しい身内の顔からロイシン王の顔へと戻し、ヘアルドは眠るスウェンを見下ろした。

「甘えるのは終りだ……甘えを許すのも。世界のためだと言うなら、どんなに残酷なことでも王は為さねばならない。だろう?」

 言い捨てて出て行くヘアルドの背を黙って見送り、ギルロイは湧き上がる後悔から目を逸した。ただ、何を後悔しているのかは、分からない振りをした。









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