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第四章


 秋の夕暮れは早く、空は砦に着いた時には濃色の青紫に変わっていた。

 星明かりもまだ充分でない薄暗がりの中、砦は奇妙なほど静まりかえり、門も扉もきっちりと閉ざされている。

 入ることは、適わないのではないか。

 小さなくぐり戸を青白い顔で見つめるスウェンに、騎士は安心しろとささやき鍵を取り出した。

「ここは夏の間だけ使う砦で、ロイシン一族や湖沼の一族が剣や戦い方を学ぶ場所だ。今は誰もいない。だから俺が少しばかり借りたとしても、王は文句を言うまいよ」

 答えようのない少女に同意を求めるつもりはないらしく、中に入ったギルロイは手早く事をこなした。

 洗い場の大きな桶に水を入れ、替えの水桶も横に置く。スウェンにとって桶の縁が高すぎるのを見て、足台としての石を用意する。そして窓の戸板を開けない代わりに、灯り差しに火を点けた。

「姫を脅やかすものはないから、ゆっくり洗うが良い」

 促すように頭を撫で、ギルロイは出て行った。

 何か言う暇もなく一人で残されてしまっては、洗うよりほかにすることはない。スウェンは桶を覗き込んで、小さな灯りがゆらめく水面に指先だけを浸した。

 湖の水よりは温かい。これなら躯を浸しても冷えることはない。もっとも、森では深い桶の水に浸かることなどないから、中に入るのもおそるおそるになる。

(うん……結構、いいかも)

 泥が足で掻き立てられることがないので、澄んだ水を使えるのが良い。髪に絡んだ泥を手で濯ぎ、隅々まで汚れを落した。

 全て洗い終えたあと、しばらくスウェンはぼんやりと潜ったり浮いたりを繰り返した。

(ヒューは……無事よね。みんなと無事に会えたわよね)

 がぼがぼがぼ。

(無事なはずよ。だって無事って言ったもの! 契約の騎士は嘘をつかないわ)

 ざばー。

(だけどどうして父さまのところに行くの。村はどうなってるの。まさか……)

 がぼがぼがぼ。

「……」

 少々考え込むのも、遊ぶのも飽きてきた。

 スウェンは泥で薄汚れた深い桶から、水の綺麗な替えの浅い桶の方に移動した。足台は誂えたかのように使いやすく、裸身を長く冷気に晒さずにすんだ。

「姫?」

「はっ、はいっ?」

「これも洗っておけ」

 唐突なギルロイの声に驚く間もなく、跳ねる水音とともに薄い緑色の小さな実が投げ込まれる。

 白い胸の下と両膝近くで浮き沈みしているのは、いくつもの野生リンゴだった。

(一緒に……洗うの? それって……)

 手に包み込んだ野生リンゴを見ながら、解せないものが心の底から盛り上がってくる。

 スウェンの水浴はリンゴを洗うのと同じ。スウェンの泥を取るのとリンゴのヘタを取るのも一緒。スウェンの存在はリンゴ程度。

 きっとそれは間違っていない。

「べつに……構わないけどっ」

 ざばっと酸味のある甘い香りの水滴を撒き散らかし、眉をしかめた少女は浅桶を出た。

「あ……そういえば」

 泥だらけの衣は軽く洗っておいたが、しっとりと濡れたそれを再び着るわけにはいかない。代わりをと探して、ギルロイが置いていったらしい肌着を見つけた。

 よく気の回る騎士である。

 さらに細やかな気遣いとして、回廊に置かれた小さな灯りを頼りに、スウェンはギルロイの元へと急いだ。

「戻ってきたか。さあ、リンゴを出せ」

 スウェンは言われるまま熟した実を渡し、ギルロイが靴に留めてあった小刀で器用に剥き始めるのを眺めた。

 冬の居住を無視した詰所に暖炉はないが、小さな窯はある。晩秋の冷え程度ならば、ほどよく部屋を暖めるのに役立ち、朝までに濡れた衣を乾かすことができそうだった。

 だからギルロイは上半身裸でいる。脚衣である薄灰色のブラカエを、房飾りのついたベルトで締めただけの姿だった。革の長靴の方は、まだ金色の巻き紐を緩めたばかりで、膝下の当て布も外していない。

 よその一族の男性の裸など見てはいけない、とは思うものの、目はギルロイから離せなくなっていた。

 珍しく刺青もなければ、護符の腕環も首飾りも着けていない。彼にとっては鍛えられた躯に残る傷跡だけが、歴戦を生き抜いてきたことを誇る飾りなのだ。

 けれど兄でさえ、スウェンの前で躯を晒したことはない。普通は異性に肌を見せたりしないものだ。

(平原では違うの? それとも……やっぱりわたしはリンゴっ)

 勢い良くぐるんと顔を背けた瞬間、スウェンはギルロイから微かな土と浴びた湖水の匂いを感じとった。

 その組み合わせは、森に生きる者ならよく分かる。

「外に出かけてたのね……」

「ああ……」

 ギルロイはスウェンが水浴をしている間に湖へ戻り、ほとりに残したシアーズを埋めに行っていたのだ。

 森の掟では、大地に死者を放置してはならない。屍肉であってもひとの味を獣に覚えさせてはいけないからである。

「ほら、剥いたぞ」

 黙って受け取りつつも、スウェンは首を傾げた。

 そもそもリンゴは皮剥きしなくても食べられる。ギルロイの方は当然の如く、丸ごとかじっているのだ。

「その種も取った方が良いか……? 他に何もなくて悪いが、それで今夜は我慢してくれ」

「えっ? い、いいのっ。リンゴは好き……頂きます」

「それを食べたら、もう寝ろ。明日の川沿いの道は、できるだけ早く通ってしまいたい」

 しゃくしゃくとリンゴを咀嚼する音で何故かと問う。

「シアーズがまだいるかもしれない。奴らは大概、四人で組む。倒したのが二人なら……残りがいてもおかしくない。弱い者を狙って、水辺をうろつきながらな」

 短く吐き捨てたギルロイは、言葉以上に憤っているのだろう。大剣を引き寄せ、わさわさと寝藁に大きな躯を沈み込ませた。

 スウェンもまた、足許の灯火を消してから反対側の藁を敷いた寝台にもぐり込んだむ。

 よく乾いた寝藁は気持ち良く、ただ、起きたら髪が凄いことになっているだろうなと思いながら、金色の長い睫毛を伏せた。

 早く眠ってしまえば良い。スウェンの不安を和らげてくれるものは、今は眠りにしかないはずだから。

 願いはしかし、叶わなかった。


***



 息苦しさと火の燃える気配に飛び起きた。

 何もない岩壁の部屋の中、あふれる煙と炎に背筋が凍る。ギルロイは――いない。スウェンはたった一人でいる。

 ギルロイ、と叫ぶ喉からは、苦しげな咳だけが出た。

 藁くずをつけたまま部屋を飛び出し、見えないひとを探す。暗い砦の中で炎だけが明るく、恐ろしげな揺らめきを見せている。

(ああ……夢を見て、いるのね)

 でなければ、一人にしないと言ったひとは、そばにいるはずだ。立ちはだかる二つの影は偽物で、恐れることはないのだ。

 掴まれた髪が痛くても、血の臭いが不快でも、全部、嘘。

 あんなにも砦は激しく燃えているけれど、頬にも背にも、当たる熱風がないではないか。だからこれは――夢でなくてはならない。

 悲鳴とともに、闇が開いた。

 心臓の音が耳にまで響いている。悪夢から逃げても見えるのはただの闇。でも今は、見ている暗闇にひとはいない。温かく静かな空気を感じ、伸ばした指先に湿ったマントが触れるだけ。

(どこ……にも行ってない。ちゃんとここにいる……夢よ、怖くない……)

「スウェン?」

 低いささやきが初めてスウェンの名を呼んだ。

 驚く間に、寝藁ごと持ち上げられて躯が宙に浮く。ぱらぱらと藁を落しながら、マントや上着に顔を撫でられ、隣の寝台の上にふわりと横たえられた。

 熱い躯がスウェンを押さえ、硬く大きな胸板と腕の間に抱え込んだ。

「こう何度も飛び起きられては、寝ていられない」

「知ら、ないっ」

 頭の上から注がれるため息に、スウェンは小さな抗議を返した。文句があるなら最初の悪夢の時に、こうやって起こして一緒にいてくれれば良かったのだ。

「目が、覚めたら、いないからっ」

「俺はずっとここにいたが」

「さっき夢で起きたらいなかった! シアーズだって、来ないって言ったくせに、来たっ」

「夢の中のことまで責任をとれと言うのか……」

 理不尽な言いようである。スウェンも心の中で同意する。けれど迸る感情は引っ込みがつかず、怒れる仔猪の頭突きをギルロイの胸に喰らわせた。

「一人にしないって言ったのに! 燃えてるのに黙って置いて行くなんてっ」

「そう言われても……」

「契約の名を持っていて嘘つくの?」

 震えるスウェンを抱き締めて、ギルロイは絡んだ金髪に軽く頬擦りをした。それは猪達が躯を擦り合わせ、互いを確かめ合うような、優しくスウェンを宥める動作だった。

「それを持ち出されると仕方ないな。夢の中でもそばにいよう、スウェン」

「絶対? 嘘つかない?」

「つかない。信じろ……ほら」

 あやすように髪を撫でる大きな手は、時折もつれた部分に引っかかり、小さな痛みを走らせた。幾度か失敗を繰り返しながらも、肩にかかる髪を払い、顎先をくすぐる。

 赤子のように甘やかされている。そう思うとリンゴから赤子への扱いは、格下げなのか格上げなのか、判断に迷うところである。

「ギルっ……」

 耳許に苦笑の気配がある。

(これも……もう夢、かも)

 スウェンの眦から涙が二つ、三つと続いて落ちた。

 これが夢であれば、もう一度目を開いたら、ギルロイはいないかもしれない。まだスウェンは闇の中で、逃げ出せずにいるのではと思うから、触れていた熱い腕を握り締めた。

 何が可笑しかったのか騎士がくすりと笑う。ついでに震えるスウェンのもつれた羽毛玉を片腕の上に乗せ、包み込む。そうして悪夢を畏れる柔らかい頬を細心の注意をもって優しく撫で、ささやいた。

「怖くなったらいつでも俺を呼べ。眠るまでは撫でていてやる」

「ずっと」

「分かった、ずっとだ」

「呼んだらすぐ来るのね? ギル、って」

「ああ、すぐに」

「ギル……?」

 ここにいる、と示すためにギルロイは力を込めて抱き締めた。少女の躯は壊れそうなほど柔らかく、絡んだ金髪からはリンゴの香りがした。

「ギル……嘘つき」

「ん?」

「撫でてない……」

 男は森で出会った金色の妖精が、かなりの悪戯者であったことを思い出した。

「悪かった」

 思わぬ罠に落ちて嘘つきになった騎士は、まだ不満そうな細い肩を撫で、謝罪のため息をついた。


***



 柔らかな光が満ちたところで、スウェンはふっと頬を撫でるものに目を開けた。

 窓が開いているらしく、部屋の中には冷たい空気が流れ込んでいた。

 ここは――

 幕のように吊られた衣の刺繍を見つめ、スウェンは、背中にひとの体温を感じて息を止めた。

「よし……もう少しで征服できる」

 いきなり真上に低い声。しかも変に得意気。同時に金色の巻き毛の小さな束も、ふわりと目の前に舞い下りる。

「さあ、これでお前は終りだ。無駄な抵抗だったな」

 硬い腕がスウェンの上で微かに動く。勝ち誇るのは良いが、重くて動けないのは少し困る。

 ギルロイは半身をのしかからせながら、何かと戦っているらしい。

「我が勝利は間近……いかに難攻不落とて智に優るもの、なし」

 またも金髪が落ちてくる。スウェンの長い巻き毛が。

(もしかして……ギルは)

「解けぬものなど……? いや……これで」

 絡んでいたであろう巻き毛が、ひらひらとスウェンの顔にかかる。予想通り綺麗にほどかれている。

「ギル……ロイ、さま?」

 動きがぴたりと止まる。

 ややあって、喉のごくりと鳴る音がした。

「……聞いていたか?」

 少し。と答えると、全部聞いていたように思われかねないので、黙って首を横に振る。ほどかれた巻き毛がふわふわと揺れ、ここまでするのもずいぶんと時間がかかるのに、かなり熱心に攻めたようである。

 うむとああの混じる返事らしき呻きをした後、ギルロイはころんとスウェンを転がし、寝台から立ち上がった。

「さて朝の分のリンゴを食べたら、ここを出ようか」

「はい……ギルロイさま」

「さま、は要らぬ。昨夜、姫は散々我儘を言いながら俺をギルと呼んだのだ。だからそう呼べ」

「はい……」

 スウェンは上に放られたマントに顔を押し当て、赤くなった顔を隠した。

(ごめんなさい……夢だと思ったの。夢なら何を言っても良いかなって……)

 届かない言い訳をどれほど繰り返そうと、我儘であることに違いはないのだが。

「姫の衣はあまり乾きが良くないな。どうする、まだそのままでいるか」

 マントをぺらりと持ち上げ、ギルロイのはしばみ色の瞳がスウェンを見つめる。

 そうやって覗き込む視線を受け止めて初めて、スウェンは間近に騎士の貌を見たことに気づいた。

 貌の造りに柔和なところは一つもない。しっかりした顎、高い鼻、深い眼窩が歪みなく並ぶ。影の奥で煌く鮮やかなはしばみ色の瞳は、年を経た騎士の老獪さだけでなく、従兄の少年に似た朗らかさも持っていた。

 躯と同じく貌にもいくつもの薄い傷跡があり、左目の下が僅かにひきつっているのは、越えてきた戦の激しさを物語っていた。

「昨夜言い忘れていたが、ヒューナード殿に会ったぞ」

「えっ?」

「アーヴィングの……村で姫を探していた。軽い怪我はしていたが、あれは二日もすれば治るようなものだ。心配ない」

「良かった……! ヒューなら絶対無事だと信じてた……」

「ああ。彼は良い騎士だ。はぐれ者三人を相手にして勝った。だが姫を一人で守るにはまだ若い。無理をしては為せることまで為せなくなる……引き時を学ばねばならん」

 いずれ会えるだろう、とささやく騎士に、スウェンは抱きついた。

 焼け落ちた村を一人で見たヒューナードの苦しさを思うと胸が痛い。直に無事だと伝えられないのも、もどかしい。それでも暗褐色の髪の騎士が居合わせてくれたことだけは、最上の幸運だと思った。

「ギルはどうして村にいたの?」

「警告をしに行ったのだ。シアーズどもが、オズウァンといると確信した故にな」

「じゃあ、父さまに……それと平原の王さまにも、そのことを言わないといけないわね」

「そうだな。何より姫の無事を長殿は見たいだろう……一つ訊き忘れていたが、姫は馬で平原を走ったことはあるか?」

 スウェンは問いの意図が掴めず、首を傾げた。走った場所の経験とは、どういうことか。

「わたしは川を越えて外に出たことがないけど……それは湖と森を行くのと、平原は違うっていうこと?」

「少しな」

 騎士の柔らかな微笑みからすると、相当に違うようである。

「まあ、急ぐ道だ。俺とともに馬に乗れ。平原に慣れていないならその方が良い。姫君一人、大した重さではないからな。平原に慣れてきたら、あの赤毛の馬に乗るといい」

 まだどんぐりの悪戯を忘れていない黒馬が聞けば、激しく抗議しそうなことを早口で言い、ギルロイはスウェンの頬を撫でた。

 口を結んでいたスウェンは少し考え、頷いた。馬に乗るのは得意でもあるし、すぐに慣れると考えていたのである。


***



 ヴァイルント・ドネルは、緑を命として全ての重きを置く。その緑を支えるものには、ハーサ川という大きな流れがあった。

 それは北の果ての森に水源を持ち、中央の湖沼地帯で二つ分かれる。

 南下して海に向かうハーサと、平原を真西に貫くハーサ。

 どちらも同じ大地の女神ハーサの名で呼ばれ、森と湖沼と平原を潤すものとして等しく役目を担っている。

 同時に争いの元ともなった。ハーサ川の恩沢を巡って、東の丘にいた神の暗き一族と呼ばれるオズウァンと平原のロイシン一族が戦ったことは、緑願う世界の悲惨な歴史の一つとなった。

 語るも壮絶なその戦いはロイシンの勝利、オズウァンの滅亡で終わる。

主戦場となった東の丘は数多のオズウァンの血を吸い、草木も生えない呪われた土地になり、誰も立ち入らなくなったと伝えられた。

 しかし、それすらも覚えている者は少なくなり、今はただ、オズウァンの名だけが、はぐれ者達の冠として残された。

 そういった話を、ギルロイは初めて森の外を見るスウェンに語った。

「戦いのお話なら知っているわ。でも東の丘が呪われた土地だなんて、賢者さま達から聞いていないわ? 一人で行ったらいけないのは確かだけれど……とても静かで綺麗なところよ」

「あの争いはあまりに激しく、にもかかわらず得るものはなかった。賢者達も覚えている者が多いだけに、話し辛かったのだろう」

 金色の髪を揺らす躯を馬上で抱き、まるで見て来たかのように低い声が答えた。

「オズウァンが古き一族から奪った王の称号は、結局、彼らが滅びて途絶えた……勝ったロイシンが、継ぐことを選ばなかったからだ。シアーズの脅威の前でというのは惜しいが、それが……新しき王が復活するのは喜ばしいことだ」

「そうね……」

 はしばみ色の瞳が遠くを見つめているのを感じ、スウェンも黙って同じものを見ようとした。いくら目を凝らしても、光の差し込む森しか見えなかったが。

(わたしには見えない……そうよね、何も知らないんだもの)

 伝説にも謳われる騎士は、幸も不幸も数え切れないほど経て、知ったのだろう。

「ねえ……ギル。どれくらい長く生きたら……近づけるの?」

「ほう、姫は賢者になりたいのか。だとしたら歴史始まって以来初の女賢者だな」

「えっ? そういう意味じゃ……あれっ? 女のひとは賢者になれない?」

 騎士が微かに躯を揺らした。

「賢者とは長く生きすぎて一族を亡くし、孤独になった者のことだ。そういう意味では、俺もそうだといえる……だが俺とは違い、彼らは血に因われることを止め、名も捨てて、ただアルフレイと呼ばれながら賢者の一族として真理と智を追い求める。だから……女は賢者になれない、ではなく、ならないが正しいな。森に逃げずとも真理を見失わぬ女達は、賢者の呼び名など無用のものよ」

 ではギルロイは、何故賢者になることを選ばないのか。

 それを尋ねる言葉は、スウェンの口から出なかった。

「ギル……?」

「どうも気になってな……」

 先ほどからずっと、スウェンの巻き毛の一房が騎士の手に軽く握られている。手綱じゃないけどと言いたくもなるが、ギルロイの動作の意味は明らかだった。

 何度か風に煽られた金色の巻き毛は、すでに絡んだ鳥の巣になっていた。朝、あれほど綺麗にしてもらって、日が高くなった時にはもうこれである。

 泉の脇で、髭剃り用の小刀を一心に見つめていた叔父の姿を思い出す。スウェンとそっくりな髪を持つ叔父は、あの時絡んだ金髪を丸っと剃ってしまいたかったに違いない。

 塞ぐ気持ちが羞恥に変わって、スウェンは髪を急いでまとめた。

「後で……後で直すのっ。すぐ絡むから、アルフレイも驚くの。村を出た時は子どもだったのに、湖に着いたらガチョウの雛になってるって……」

「なるほどね」

「そうやって、みんな笑うんだから……」

 笑いを噛み殺す騎士の腕の中で、金色の羽毛玉が項垂れる。王の砦に着く頃には雛鳥の世話が身に染みることになるのだが、まだ知らぬギルロイは呑気であった。

「王の花嫁の髪のために、世話係が必要だな」

「はな、よめ?」

 どきりとするスウェンの上で、騎士が頷く。髪は、スウェンの巻き毛のこと表しているように聞こえるのだが、花嫁は違っている。違うはずである。

(それともわたしが……花嫁? 誰の。ギル……の? だけど王さまっていうのは)

「花嫁って、ギル……姉さまを知ってるの?」

「姉?」

 スウェンは騎士の鋭い問い返しに瞬きを繰り返した。意味が少し通じていないような。

「だってわたし……花嫁って……ギル……言ってもらってない……と思う。姉さまは王さまの……で」

「姫には……姉姫がいるのか? ロイシン王の花嫁となる」

「そうよ。いきなり父さまに結婚を決められて、怒って出てあ」

 慌てて口を押さえ、スウェンは否定の身振りをした。姉の家出はアーヴィングだけの秘密である。

 時すでに遅く、ギルロイのはしばみ色の瞳は全てを察知していた。

「ち、違うから! 姉さまが怒ったのは王さまにじゃないから! 姉さまは、女長のことで悩んでいただけで……すぐ帰ってくるし。賢者さまも探して下さるって、あっ。これも違う、違うの! 今言ったことは忘れて! 姉さまは村にいるんだから、嘘じゃないから! わたしは嘘つかないから!」

 とりあえず、スウェンが秘密保持に向かない少女であることは間違いない。

 なんだと小さく呟く顎を真上に、スウェンはいっそ姉が七人くらいいることにすれば良かったかもと考えた。

 白鳥に変えられた姉を助けに、姉は旅に出ています、と言えば、嘘ではなく壮大な物語に聞こえるではないか。

 懊悩する少女をよそに、進む先に川岸を見たギルロイは、絡んだ金色の羽毛玉をほどくのを諦め、緩んでいた口許を引き締めた。

 川を渡るには、最も浅いところを選ぶ。ひとの行き交う跡が轍を作り、使うべき道筋が簡単に見つかっても、流れは常に見ていなければならない。

 まして川岸はシアーズの狙い所である。気を抜いては命取りになろう。

「川を渡ったら、少し走らせるぞ。西の森の外れで今夜は野営する」

 スウェンの腰に大きな手が回って、少しだけ位置を修正した。リンゴの置き場所をひょいと変えるような気軽さなのが気になった。

「ギル……」

「また独りで馬に乗るのか? どうも姫は平原を進むのが上手くないからな……俺が乗せたままの方が良いと思うぞ」

 反論はできず、スウェンは黙って口を曲げた。

 馬と相性が悪いのだとは言いたくなかった。スウェンの想像以上に、平原が違っていただけなのだ。

 しかしとりあえず乗ったままを了承するほかはなく、ギルロイの示す方に目を向けた。

「王の砦は真っ直ぐ行けばそう遠くない。あと二晩か……その前に着くだろう。さて今夜くらいは、撫で続けろという我儘は言わないでくれよ」

「ギル!」

 怒るスウェンの声と騎士の笑い声が、風の中に流れて行った。






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