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第三章


 思わぬ客が帰って数日、祝宴の余韻に浸っていたアーヴィングの村も、冬ごもりの用意で慌ただしくなっていた。

 水源である近くの湖が凍る前に、もう少し北にある泉の側に移動するのだ。

 そこでは年中温かい水が湧いており、森の奥深さのわりに凍てつく冬でも快適に過ごせる。

 村に備えつけた井戸で賄えるだけの騎士を残し、一族の大部分は、その冬ごもりの砦と呼ばれている場所へ向かうのである。

 いつもなら子ども扱いであるスウェンも、姉姫シンリスがいない分、乳母の手伝いに駆り出されることが増えていた。

 忙しさは大人と認められたようで嬉しいは嬉しい。森を気軽に歩けないのはつまらないが、シンリスの捜索を一旦諦め帰ってきた叔父の監視の下、熱心に手伝っていた。ある意味、手伝わざるを得ないというか。

 帰還した叔父が、指名した騎士以外の外出を禁じたのである。

 スウェンが指名されるはずはないのでヒューナードのように抗議もせず、大人しく乳母を手伝っていた。そんな従順さが効を奏したのかもしれない。スウェンは待望のどんぐり拾いを、叔父から命じられた。

 僅かな間に、森は冬枯れへと近づいていた。

「急ぐなよ、スウェン! 離れるなって、叔父上に言われてるだろ」

「じゃあヒューが早くきて。もうすぐ冬の砦に行くのに、まだ全然どんぐりが拾えてないんだから!」

 お気に入りの靴で、久しぶりの解放感を味わう。

 降り積もった枯葉が、小さな足に跳ね散らかされる。監視役のヒューナードの先で金色の巻き毛が翻った。

 スウェンの喜びとは対照的に、ヒューナードは淡いはちみつ色の瞳を憂鬱そうに瞬かせた。出かける前になって初めて、村を閉じた訳を叔父から知らされたのだ。

 シンリスを探す叔父達が森で見つけた痕跡は、シアーズとはぐれ者の結び付きを予感させるものだった。

 それは賢者の警告とも、契約の騎士の見立てとも一致しており、冬の砦への移動を急かす理由ともなっている。

「なあ、スウェン……本当に……シンリスには好きな奴がいるのか?」

「教えない。どうせヒューは、姉さまが平原に行けば良いって思ってるんでしょ」

 スウェンが従兄にくるりと背を向けて、わざと乱暴に歩き始める。

「そうじゃなくてさ、平原と森の結束は、急がないとまずい気がして……敵よりも先に一つにならないと……」

「姉さまだって、約束が大事なのは分かってるの!」

 必ず戻ってくるけれど、少しだけ時が欲しい。

 それが村を出る直前、シンリスがスウェンにだけささやいた言葉である。

 森を出て、平原に生きろと言われてすぐに気持ちを決められはしない。スウェンには幼い時から課されていた思いだが、森で生きて行くことを疑わない者には、伝わらない不安だろう。

 この気持ちを分かるひとが同じアーヴィングにいないことが、時期外れ生まれの最大の寂しさかもしれない。

(でも……)

 スウェンは木々の隙間に切り取られた空を見上げた。

 このヴァイルント・ドネルのどこかには、スウェンと同じ思いを持つ者がいるはずだ。あるいは、今のシンリスになら、分かってもらえるかもしれない。

 置いていかれる寂しさを知るひとと、一緒にいたい……と思うことを。

 そう考えたスウェンの脳裏に、契約の騎士の姿がよぎる。

「スウェン、どうしたんだ。熱でもあるのか? 顔が赤いよ」

「えっ?」

 乾いた音がして、振り向こうとした深緑色の靴が、小振りな木の実を踏んだ。

 いつの間にか、丸いどんぐりが派手に撒き散らかされた木の根元、目的の場所に着いていた。

「そういえば最近大人しかったね。風邪?」

 真面目な顔をしてヒューナードがスウェンの額に手を当てる。変わりないなと呟くのが恥ずかしく、本当に熱が上がってしまう前に、ぱっと離れた。

 素早く木に登り、わざとらしいまでに大きく手を振ってみせる。

「違うから、ヒュー。いいの。どんぐり落すね?」

「待て、用意してないって、スウェン!」

 ヒューナードの叫びの上から、木の実が次々と落ちて行く。

 食事中のリスが枝から慌てて駈け下り、離れたところで不満そうに振り返る。両の頬袋がふくらんでいるくせに、なかなか動こうとしないのは、如何にひとが来ていなかったかの証拠である。

 熟した木の実の落下弾から逃げ回るヒューナードへ、スウェンは小袋の中の枯れた木の実を密かに投げつけた。

 落ちて来るものの中に、違う勢いが混じっていると気づいたヒューナードも応戦し始める。

「狡いぞ、上からって」

「ヒューの方がどんぐり一杯あるし」

 弾数はあっても位置の圧倒的不利は覆せず、従兄対従妹は従妹の勝利に終った。

「古いのと混じったじゃないか……」

 ぶつぶつ文句を言うヒューナードを得意げに見下ろし、スウェンは態度とは逆の感傷的な思いを抱いた。

 きっとこれが最後になる。どんぐりを拾う、はちみつ色の緩やかな巻き毛を木の上から眺めるのは。

 ふっとため息をついた顔を木々の奥へと向け、スウェンの目は、あってはならないものを捉えた。

「ヒュー!」

「スウェン……早く下りてこい」

 騎士の耳もスウェンと同じくらい素早くそれを聞き取っていた。

 擦れる剣と荒っぽく下草を掻き分けるひとの足音。隠そうともしない、はぐれ者の気配だった。

 ヒューナードは持っていたどんぐりの袋を投げ捨て、腰の剣を確認した。

「合図は分かっているよな?

 スウェンは頷き、従兄の後ろについた。

「ヒュー、五人かそれくらい……いたと思う」

「二組ってことか。シアーズじゃないね?」

「ん……いつもの、はぐれ者みたいだった……けど」

 オズウァンの末裔と名乗る者は、実のところ名乗っているだけで髪や目に固有の特徴がある訳ではない。だからシアーズの特徴を知らないスウェンは、今までに見たはぐれ者と似ているかどうかでしか判断できない。

 汚れた長髪、灰色にがさついた肌に入れた大きな刺青。

 定住していない者の癖で、何もかも身に着けて持ち歩く。その武器は様々な一族から奪い取ってきたせいか、一人として同じ揃いにはならない。

 ただ何故か服だけは、ほぼ同じものを好んだ。大きさの違うマントを二枚重ねにし、上着は黒褐色の無地チュニック、脚衣は鹿革製のブラカエ、同じく鹿革の短靴を履く。

 遠目にはそんな特徴のままに見えた。だからこそ有り得ない数の多さが気になった。

「隠れろ」

 従兄の押し殺した声に先んじて、スウェンは倒木の後ろに身を潜めた。

 直後、二人の目線の先で木々が揺れ、荒い息を吐く男達が薄笑いを浮かべて現れた。

「おやおや……迷子か。剣なんか持ってるようだが」

「近くの獣の仔だろうなあ」

 剣を構えるヒューナード越しに、薄汚れた二重のマントのはぐれ者達が三人見える。それはアーヴィングの森であっても珍しくない光景である。

 そのはぐれ者達から一歩引いて、革鎧を着、奇妙な黒い色の細長い剣を持つ二人の男が居るのは、異様であった。

 まさか、シアーズ。同じことを考えた従兄の声が響いた。

「アーヴィングの森にようこそ、招かざる者。平原の死から逃げ、長い旅路だったでしょう」

「別に平原になぞいなかったさ」

「何?」

「こちらの方々は、ここでおれ達と狩りを楽しんでいただけさ。ずっとね」

「ずっと……?」

「ここらに良い狩り場があるのに、わざわざ南の方まで行くことはないだろうよ。

今日は猪狩りを楽しもうと思ってな……なかなかの収獲だったぞ」

「嘘を言うな!」

 男達の嗤う声とヒューナードの怒りが、不快な刃を摺る音に乗せられてスウェンの元に届いた。

(ヒュー! どうしよう……こんなところにいるなんて)

 背後にいるのはシアーズで間違いない。はぐれ者達と手を結び、アーヴィングの森を襲おうとしている。いや、もう襲った後なのだと男達は言っている。

 そんなことを信じる訳にはいかないけれど。

「あそこだ!見つけたぞ!」

(えっ? わたし……?)

 勇猛と讃えられるアーヴィングの力は確かなもの。とはいえ二人にとって実戦は初めてで、戦い馴れた男達との差を知らなかった。

 森の一族でも上位と分かる少年が一人でいるはずがない。少年を守る者がいないなら、少年が守るべきもっと上の誰かがいる。それを誘い出すための偽りの声に、二人とも応じてしまったのだ。

 流れる視線と揺れる巻き毛。

 倒木の隙間からこぼれる金色の眩しさが、ずっと「何か」を探していた男の目に止まる。

「あれだ!」

「逃げろ、スウェン!」

 従兄の叫ぶ声に背を打たれ、スウェンは走り出した。


***



「無事な者はいるか! ……誰か! ヒューナード殿!」

 ギルロイはくすぶる臭いに鼻と口を押さえ、微かな救いを辺りに求めた。

 燃え落ちた家屋を見るまでもなく、駆け込んだアーヴィングの村が「終った」後なのは明らかだった。

 跡形もない母屋や叩き壊された桶や瓶、引き千切られた敷物。壊れた戸の下敷になったひとの手に息がないのは、触れずとも知れる。

 先頃訪れた村の面影はどこにもない。ただ破壊があり、戦闘の跡がある。焦る足が落ちていた黒い剣を踏み、虚しい音を空に響かせた。

「シアーズどもが!」

 もう少し早く確かな証拠を見つけていれば。

 シアーズとオズウァンの末裔がともにいると知っていれば。

 決してアーヴィングの村を襲わせたりはしなかった――これを幾度も繰り返してきた後悔の一つとするには、あまりにも苦い。

 あふれ出る怒りのまま、ギルロイは近くにあった壊れた戸を跳ね退けた。

「ああ、これは……」

 若い灰色の死者の腕にあるものを見て、ギルロイはようやく心を静めて辺りを見回す気になった。

 斃れていたのは、腕に刺青――オズウァンのはぐれ者の証を持つ男だった。

 勇猛なる猪の一族が、そう易々と敵に遅れをとるはずがない。村が戦場になったことは疑いようがなくとも、よく見れば、決して虐殺の場になっていないのが分かる。

 どこにもアーヴィングの一族がいないのを確かめ、静かに死者を見つめた。

 間違いなく、オズウァンの男だ。僅かな違和感は、刻まれた文様がギルロイの知る「神の暗き一族」の印と似ていないところか。

「もうオズウァンの本当の姿を知る者はいないのか……」

 ひとを越える神を自称した誇り高きオズウァンが、獣をその身に刻むなど有り得ない。末裔としての意味など、時が経ちすぎて見失なわれてしまっていたのだ。

 哀れと思いはするが、今は敬意を払う余裕はない。死者となった男の傷を調べ、急所を狙った見事な一撃に安堵と感嘆の声を洩らす。

 彼らに対して、アーヴィングは充分な反撃を喰らわせたようである。

 殺戮の気配がないのは弱い者を逃した後で、村にいたのは、待ち構える騎士だけだったのだろう。

「冬の砦がどうとか言っていたか……それなら、ん?」

 大剣に手をかけたギルロイの元に、少女の名を呼ぶ声が響いた。

「……ェン! ……スウェン!」

「ヒューナード殿か!」

 ギルロイが聞き間違いそうになるほど、ヒューナードの声は悲壮さにあふれていた。

「ヒューナード殿、怪我はないか?」

「スウェンっ……! どこだっ」

 半壊の建屋の影から出てきたその姿は、服どころかはちみつ色の髪にまで血を浴びて、生々しい戦いの痕を残していた。

 行きすぎた興奮に支配された赤みを帯びた瞳は、若い騎士が初めてひとを斬ったことを教える。ただ紫色の唇を震わせ、少女の名を呼び続けていた。

 ギルロイは騎士の手に握り締められたものに目を留め、息を呑んだ。

 大きなどんぐりが一粒ついた、小さな腕環。それは金色の妖精が身に着けていたものである。

「まさか、姫君がいないのか? しっかりしろ、ヒューナード! 答えろ!」

「スウェンが……ぼくのせいだ。守れなかっ……」

「ヒューナード!」

 血を浴びているだけで怪我はないとみて、ギルロイはヒューナードの顔を激しく叩いた。

 強い一打はヒューナードが持っていた腕環を落すほどの衝撃を与えたが、初陣に惑う騎士に手加減は必要ない。

 思うより早く、ヒューナードの焦点は合った。それを褒めてやる暇がないのは、悲惨な現場で唯一、惜しいと思ったことかもしれない。

「ヒューナード、探しているのはどんぐりの姫君だな? お前達はどこにいた? 村の者は逃げたようだぞ」

「ぼくとスウェンは外に……もう少し西の森に居て、そこで……オズウァンの末裔とシアーズに遭ったんです。あいつらが本当に一緒にいるなんて」

 沈黙を返したギルロイも彼らの関係を知っているのだと気づき、ヒューナードは背筋を伸ばした。

「はぐれ者は三人。それはどうにかできました。だけどシアーズが……スウェンを追って行くのは、止められなかった! 三人目がかなりの遣い手で、遅くなってしまって。村の手前でこれを見つけたけれど、スウェン……」

 落ち着いていたはずのはちみつ色の瞳が濁った怒りを乗せるのを見て、ギルロイは震える若い騎士の肩を掴んだ。

「呪われた末裔は片づけたのだな? シアーズは何人いた? 先の戦で生き残ったことを何と言っていた?」

「二人です。生き残り……じゃない、と。ずっとここで狩りをしていたって……」

「なるほどな。隠れていたか。ならばこの辺りで奴らは好みの場所に籠る……俺が必ず姫君を助け出してくる。お前は一族の元に行き、このことを知らせろ」

「嫌です! ぼくも行く! 叔父上にスウェンを守ると言ったのに!」

「いいや、戻れ。戻って、村から王の砦に使いを出すように伝えろ。長殿に村が襲われたことを知らせなければならぬ。俺は……姫君を連れて王の砦に向かう。いいな?」

「そんな遠いところ……! 村には……砦に連れて来てはくれないんですか」

 まだ怒りに囚われているが、ヒューナードの思考は働いた。

 村に誰もいないところを見ると、おそらく一族は冬ごもりの砦に逃げている。だが、契約の騎士には遠い森の砦より平原の方が近しく、使いよい。

 引くことを受け入れた目を見て、ギルロイはヒューナードの汚れたはちみつ色の巻き毛を掻き混ぜた。子どもじゃないのにと言いたげな顔は、少しどんぐり妖精に似ていた。

「王の砦には、長殿がいる。遠い平原で拐われた姫君が、無事と言葉で伝えるだけでは心配で堪らないはずだ」

 姫の無事を何よりも確かめたいのは親である長の方である。ヒューナードとて、スウェンの無事を言葉だけで伝えられたら、気がすまないだろう。

「スウェンを……」

 ヒューナードに頷きを返し、ギルロイは主を待っていた黒い馬に乗った。

 シアーズ達は、まず水辺に行く。

 森を通る川沿いを南に進めば、小さな湖がある。ギルロイは真っ直ぐにそこへと向かった。


***



 激しい背中の痛みにスウェンは目を開けた。

 ぎゅっと握った手に湿った泥が触れる。水の匂いを含ませた冴えた風が、頬と片方の足裏に当たり、躯を冷やした。

 必死に目を凝らし、スウェンの今いる場所を見て取った。

 ここは、かつて鳥達の不審な羽ばたきを聞いた、南の湖のそばである。

「お目覚めかな、猪のお姫様」

「誰が姫よ。あなた達は……シアーズね?」

「恐れもしないか。気の強いことだ」

 男達が薄く笑い、スウェンの顎下に黒い剣を当てる。

 ひやりとした冷たさに悲鳴を上げそうになるが、初めて会う敵というものに、怯えを見せないよう睨み返した。

(でも、このひと達……)

 恐怖の下、スウェンは少なからずシアーズと言葉が通じることに驚いた。

 少し聞き取りにくい舌先を巻いたような音は、元は異なる言葉を使っていたからだろうが、言葉を教えるようなはぐれ者がいるとは思えず、つまりシアーズは、自ら学び取ったことになる。

(それは……わたし達と話す気持ちが、ある……?)

 爪を立てる隙もない男達を見ていると、あまりそうは思えないのだが。

「猪狩りは思ったより疲れるものよ。お前を使えば楽にできそうだ。あの愚か者どもは、力にならん」

「しかし遅いな。あんな子ども一人に何をしているやら」

「ヒューは負けたりしないわ!」

 と、スウェンが言い終わる前に、黒い剣の柄で突き倒された。

 痛みに息が止まる。胸を押さえて身を縮める。

 だがそれは、剣がスウェンの躯から離れた証でもある。

 決して見逃してはいけない隙を得て、金色の閃きが男達の間から飛び出して行った。

 一瞬、虚をつかれた男達も、華奢な躯が汚れた裾を翻し、逃げを試みていると気づき、笑い始めた。

「わざわざ楽しませてくれるとはな!」

 唇を噛んだスウェンの耳許を刃先からの風が掠める。

 剣をすり抜けられたのは、スウェンが上手く逃げたからではない。楽しみ、弄つもりでシアーズは追う手を緩めているのだ。

「ケダモノっ……!」

「猪に獣と呼ばれたよ! ほら、捕まえるぞ!」

 はっと躱わすが、ひらめく裾に剣が絡んで全身が投げ出された。直後に鉄の擦過音が足許をなぐ。

 触れたものが冷たいのか、熱いのかも分からない。もうスウェンには痛みすら感じる余裕はなかった。

 汚れた手が怯えた金髪を掴み上げ、涙を滲ませた青い瞳がシアーズの男達を捉える。同時に死という世界も捉えた気がした。

「愚か者ども。俺に背を向けるとは」

「誰だっ」

 先ほどのスウェンの仕返しでもないだろうが、男が短い誰何を言い終える前に、その痩躯は後ろへ跳ね飛ばされた。大剣で斬られた、というより重さで叩かれたのだ。

「お前……! 平原の者には見えんな、森か? あれを助けにきたか」

「なるほど俺を知らないのだから、平原の戦場にいなかった訳だな」

 暗褐色の髪の騎士が静かな怒りと大剣を残る男に向ける。その底光りする目は、一切の容赦をしないと告げていた。

 シアーズは自分一人の黒い剣では分が悪いと考え、ちらとスウェンに目を走らせた。しかしすぐに舌打ちをする。

 人質にしようと思った少女が、拾った黒い剣を重そうに構え、震えている。

 刃先の向きは男の方。彼にとって弱者の叛意ほど苛立つものはない。その怒りが騎士への注意を一瞬途切れさせた。

 走る影が少女の姿を遮る。

 あっと思った時には、男は二度と浮かび上がることのない、濁る意識の奥へ落ちて行った。

「姫!」

 大剣を収め、騎士――ギルロイはスウェンを振り返った。

 スウェンのために血を厭い、斬らずに胴を叩き折ったものの、死の臭いは避けられるものではない。白い頬の少女は、まだ恐怖の中で剣の構えを解けずにいた。

「姫、助けに来た。俺と会ったことは覚えているな? もう奴らは姫に何もできない。だから剣を下ろせ」

「こないでっ……!」

 少女の強さは却って痛ましさを感じさせる。だが剣の重さに耐え、ふらふらと揺れる腕に斬る力はないと見て、ギルロイはスウェンを剣ごと抱きしめた。

「やあっ! いやっ!」

 あっさりと剣を放棄して少女がギルロイの胸内で暴れる。弱々しいかと思った力は意外に強く、罠にかかった仔猪のようである。

「悪戯妖精に変わりなくて何よりだ、姫よ。少々泥だらけだがな」

「きゃあっ?」

 いきなり秋の湖の中に落され、スウェンは文字通りの冷水を浴びた。

「冷た、痛っ? 痛い……待っ」

 跳ねた水が目に入り、慌てて首を振る。その間もひどい乱雑さで、硬い手がごしごしと額、頬と擦る。

(待っ……馬を洗う時でも、もう少し優しくすると思うの! 痛っ)

 水を含んだ鼻奥が、つんと痛む。スウェンが怪しげな唸り声を出し始めると、不満が伝わったのか、指先がやっと優しく撫でるものになった。

「そういえば、姫君の名は聞いていなかったな。なんというのだ……?」

「スウェン……」

「それはまた……高貴な名だ」

 言いながら、跪いた騎士の顔こそ高貴と呼ぶに相応しい微笑みが浮かんでいる。

「まずは近くの砦に行こう。それから、王の砦にいる父君のところに送って行く。アーヴィングのひとびとは無事だから心配するな。あの赤毛の馬は……奴らのものか?」

「多分……」

 馬は湖岸の惨状もどこへやら、木の傍らでのんびりと草を喰んでいる。

「どこかの村で奪ったんだろうな。飼い主に返すまでは使わせてもらおう」

 ギルロイはスウェンにマントを被せ、手を差し出した。

「見えるか、砦が。あそこで泥を綺麗に洗い落せ。髪が……鳥の巣箱が、水浸しになったみたいだぞ?」

「鳥の……!」

「怒るな。運んでやるから」

 ギルロイは笑いながら、むくれたスウェンを担ぎ上げた。







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