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第一章



 

 鈍色の空の下に、緩やかな丘陵が広がる。

 遮るもののない大地の上を、海からの風が撫でるように通り過ぎていった。

 撫でる、というには厳しすぎる風かもしれない。夏と冬の前には嵐となって、海と大地を激しく荒らす。呼び込んだ霧や雨は、緑土を育てるものの、常に晒される地表に根づくものは限られた。

 あるのは大地を覆う苔から育った背の低い草地と、丘の窪みに守られ、ようやく這い出した木々。

 その木々が長い年月をかけて成した森の中で、ひとは生きてきた。

 風から身を守るものも、果実や獣肉といった糧も、森にしかなかったから。

 しかし長い冬を迎え、森が枯色に変わるたび、ひとびとは夢を見るようになった。遥かな丘のどこかに、望む常緑の世界があるのではないかと。

 そして時知らぬ緑を求め、ひとびとは森を出た。

 それが賢者の一族から繰り返し聞かされた世界――ヴァイルント・ドネルの最初の物語である。


***



「懐かしいこと思い出しちゃった……」

 枝に座ったまま金髪をふわりとなびかせ、スウェンは木の実を指先でつまんだ。

 つやつやとした表面は薄い緑色で、まだ食べるには向いていない。幼い頃、女達が熟した木の実を採る横で、こういったこぼれた青い実を拾い、賢者の話に聞き飽きた従兄達と、投げ合って遊んだものである。

 森の一族の幼き者達には、ヴァイルント・ドネルという世界を知ることより、目の前の木の実の方が全てだった。

 川から溢れた小さな湖の数々や、灰色の岩の続く台地は、そばにあったけれど、輝く海を臨む浅い草地など夢のようなもの。

 まして古い戦いで滅んだ一族や、海の果てからやってくる不穏な者達のことは、幻にさえ感じられなかった。

 だが、世界を知らなくてはならないと賢者達は言い、いくつもの教えを語った。

 それはようやく、十六になったばかりのスウェンに重く、のしかかってきた。

 木の実を二つも握ればいっぱいになってしまった小さな手は、山盛りにしても、こぼさず運べる器用さを得、楽しい日々が遠くなったことを思い知らせる。

 そうして――いつの間にか時は移ろい、最も(ちか)しい従兄ヒューナードが、一族の森の掟に従い、大人として扱われる日がやってきたのだ。

 二つ年上の従兄が、スウェンより先に大人と認められるのは当然なのに、どうしようもなく寂しい。

 ヒューナードは森の一族の騎士として生きて行く。いずれ花嫁を迎え、ずっと幸せにここで暮らすのだろう。

 しかしそれは、スウェンには許されていないのだ。

 秋の彩りに満ちた森に目をやり、ため息をつく。木々の間を通り抜ける風に煽られ、金色の糸のような長い巻き毛が広がった。

「スウェン! 探したよ」

  黄葉した木の下から、はちみつ色の髪の少年、もう大人の騎士と認められた従兄が手を振っているのが見えた。

「ヒュー、どうしてここに……」

「木の上に金色の鳥の雛がいたら、遠くからでも一目で分かるよ」

 ぱっと頬を赤らめ、スウェンは金の巻き毛を手で押さえた。

 柔らかな鳥の羽を思わせる金髪は、うっかりするとすぐに鳥の巣のように絡み、ふわふわの羽毛玉となる。光を浴びればさらに目立ち、隠れたつもりでも、どこにいようが簡単に見つかってしまう。

 森の勇猛なる猪と名高いアーヴィング一族――その長の娘は、上は森の気高さを顕したような美姫、下は巣に収まった金色の雛、と言われる所以である。

「探さなくったって良いのに。ヒューは大人で、もうわたしみたいな子どもの面倒をみる必要はないでしょう」

「そうだよ。一族の騎士として認められたからね? でも、森で誰かが迷子になっていないか気にかけるのは、ぼく達アーヴィングの騎士の役目だよ」

「迷子じゃないから!」

 スウェンが持っていた青い木の実を投げつけると、ヒューナードは逃げながら快活に笑った。

()ねるなよ、スウェン。森の表の番に決まったのは本当だけど、君を放っておいたりしないよ。ずっと守ってあげる」

「嘘つき……」

「どうして? 嘘なんか言わないよ」

 不満げな顔をするヒューナードに、スウェンは本当の言葉をぶつけることはできなかった。

 スウェンは春以外に生まれた者、つまり時期外れ生まれである。その生まれの娘は、結婚相手を一族から選べず、「外」に出される決まりになっている。

 それはアーヴィング一族の長の娘であっても避けられない掟なのだ。

 だからヒューナードの言うずっとは――有り得ない。

 掟を知らされた時、嫌だと頬をふくらませて抗議する幼いスウェンに対し、賢者達は物憂い顔で教え諭した。生きる場所を己の意志で決められるのは、ある意味、選ばれた者だけなのですよ、と。

 意味が分からないと怒れば、いつも変わった話を聞かせてくれる賢者アルフレイだけが、笑いかけたのを覚えている。

「世界で一番良い男を……結婚相手を探してみてはいかがですか? 森で現れるのを待っているだけでは、他の娘に奪られてしまうかもしれません。決められた掟より早く選べるのは有利ですよ。姫はいつでも森から出て、愛する者を捕まえに行っても良いんですからね?」

「出ないもん!」

 そう言って大声で泣きだしたスウェンを賢者は抱き上げ、村まで連れ帰ってくれたのだ。

 あの日を思い返せば恥ずかしさに頬が熱くなる。賢者達が伝えようとしたのは、閉じた世界を全てと思ってはならないということ。外にも世界があると教えたかっただけ。幼すぎる怒りを向けられ、賢者達もさぞかし困ったことだろう。

 もっとも、森から出なくて済む理由づけを求めていた子どもに、いきなり世界一の男を捕まえろと言い始める賢者もどうかしている。

「下りておいでよ、スウェン。シンリスが見つからないのに、長が出かけてしまって、君までいないと、みんな心配で堪らないんだ」

「ごめんなさい……」

 置いて行かれる寂しさに拗ねていたスウェンだが、いなくなった姉姫に話が及ぶと、急に子どもっぽさが身に染みてきた。

 姉姫シンリスが家出したのは、つい先頃のこと。

 一族の長である父ランスリスと激しく言い争い、姿を消したのだ。皆、上へ下へと大騒ぎしながら探し回っているが、(いま)だ見つからない。

 混乱の中、ランスリスはヴァイルント・ドネルの運命を左右する話し合いのために、平原へと向かわねばならなくなった。

 不安を残したままロルドリス――彼にとっては義理の息子で、姉妹にとっては実の兄――とともに村をあとにしている。

 もちろん村を守る血族はほかにもいる。だが姉妹の母は亡くなって久しく、長と跡継ぎ候補の兄妹がいない村は、ひどく緊張していた。

 いずれ森を出る身とはいえ、こんな時に村の者に心配をかけるのは長の血族として相応しくない。

 しょんぼりしたスウェンに、ほら、と言いながらヒューナードは両手を差し出した。

「シンリスなら平気だよ。アルフレイも探してるしね。すぐに帰ってくるさ」

「ヒューは、姉さまの家出の訳を知らないから……」

「何か言った?」

「いいの。なんでもない。帰ってくるって言ったのは確かだし」

 スウェンは聞こえるか聞こえないかの声で呟き、首を傾げるヒューナードの腕の中に、ぽんと飛び込んだ。

「だけど……ほんの少し、シンリスの家出に感謝するかな。代わりに君が、ぼくの祝宴に出ることになるよ」

「え……本当? 夜の宴なのに出て良いの? 叔母さまが許して下さるって?」

 まだ大人扱いを受けていないスウェンは、昼はともかく夜の宴には出られない。ただ、長も後継者も不在の村では、直系の代わりを務められる者はスウェン唯一人である。願ってもない機会に浮かれる気持ちは隠せなかった。

「本当に? 本当? もしも宴の前に姉さまが帰ってきたら……?」

「姉妹で出たって構わないと思うけど、その時は……そうだな。シンリスには、宴が始まるまでどこかに隠れていて貰おうか。始まったら、もうスウェンに戻れなんて誰も言わないよ」

「でもどこに隠れるの。今は沼の方に行くなって言われてるし、川沿いも……釣りにも行けないんだから。どうしていけないのかな。アルフレイも急に変なこと言うわよね?」

「それは……」

 ヒューナードの消える言葉に被せ、森の奥から不意に鳥達の飛び去る音が聞こえた。

 (たい)して珍しくもない音であるのに妙に耳についたのは、不穏な会話からの繋がりか、あるいはアーヴィングの住む森の途切れる際、冬になると凍ってしまう小さな湖の方角で聞こえたものだったからか。

「ヒュー、あれは狩り……? でも」

 森の一族の掟で、そこでの猟は禁じられている。

(姉さま……? それとも、姉さまを探してるアルフレイ達……)

 見知らぬ者がいるかもしれない。

 僅かな不安を顔に乗せ、スウェンとヒューナードは耳を澄ませた。

 だが鳥達の不審な羽ばたきは、二度は起こらなかった。


***


 祝宴の日がやって来て、長の不在のアーヴィングの村は、にわかに華やいだ空気に包まれた。

 今年大人と認められるのは、春に十七になった娘と十八になった男子である。

 スウェンの身近な例で言えば、姉シンリスと従兄ヒューナードがそれに当たる。

 娘達は一足早く、春先に女だけの宴を開き、大人としての扱いを受けている。男子の方は、その間にそれぞれに役を与えられるが、晩秋に改めて宴を開くまでは、見習いである。秋の祝宴を迎えて初めて、大人として認められるのだ。

 わざわざ宴を遅らせて行うのは、それまでに結婚相手を見定めておけという娘達への配慮である。

「ねえ叔母さま……もうヒューは花嫁を選んでたりする? 誰? まだ秘密?」

「ああら、スウェン。気になる?」

「気になる」

 スウェンは癖のある髪と苦闘している叔母のじゃまにならないよう、静かに頷いた。

「だってヒューはね、前にイオナが好きって言ってたのよ? でも、イオナは……ヒューロルドと結婚しちゃったじゃない。それっきり他の子の名を聞いたことがないから、すごく心配。ヒューは、わたしの世話でそばにいる時以外は男の子といるし、話しかける女の子もいないみたいだし、もてない訳じゃないと思うけど、叔母さまは誰か選んでくれそうな子を知ってる?」

「え……気にするのはそっち?」

 息子を話題にして喜んでいたはずのナディールの声が、一段低くなった。

「姉さま以外の美人っていうとイディスよね……選んでもらえないかなあ? そうだ。イオナのお姉さんは? 今、独りよね? ヒューには世話好きなひとの方が良いと思うの。うっかりだから」

「うっかり……そうね……愚息にはぴったりの言葉ね……」

 叔母の手がのろのろとするのに気づかず、スウェンは目を瞑った。

「わたしは、ちゃんとヒューが結婚して、幸せになるのを見てから……森を出て行きたい」

「スウェン……必ずしも森の外に結婚相手を選ぶことはないのよ?」

「だって決まりでしょう。わたしは、ちゃんと分かってる……でも姉さまは……森を出るなんて考えてなかったと思う」

 スウェンの絞り出すような小さな声は、ナディールを瞬間黙らせた。

 姉姫シンリスの家出。それは、父長から平原の一族ロイシンの長との結婚を決められたことに端を発している。

 アーヴィングの掟では、長の「娘」が跡を継ぐつもりならば、必ず一族から夫を選ばなければならない。家出前の宴の範囲でみる限り、まだシンリスが夫を決める様子はなかったが、彼女が長になる気でいたのは誰もが知っている。

 だから平原の王に嫁げというランスリスの言葉は、シンリスの継承をいきなり拒絶したにも等しい。怒るのも――傷つくのも当然だった。

「叔母さま……そんなにヴァイルント・ドネルを一つにする約束は……大事?」

「大事というより必要なのよ。世界を一つにまとめることが」

「そう……」

平和に見えるヴァイルント・ドネルにも脅威はある。とくに海からの侵入者であるシアーズ一族については、年々大きな問題になっていた。

 先頃あった南の平原での彼らとの戦いは、勝ちはしたが犠牲もひどかったと伝えられている。

 父長が平原に出かけたのは、彼らから世界を守るため何をすべきか話し合おう、というロイシン一族の呼びかけに応じたものである。

「ヴァイルント・ドネルに王を戴き、強さを信じる支えにする。シアーズと戦うために、それを拒む一族はいないでしょう……その方法が、まずは平原と森の二つの力を一つにするというのもよく分かるわ。まさかシンリスにとは……思わなかったけれど」

 ナディールは大きく首を横に振った。

「なんにせよあの子は自分の意志を通すでしょう。そういうところは心配してないのよ。問題はあなた」

 何がと問い返そうとして、スウェンは頭をがっちりと固定されているのに気づいた。押さえる叔母の手には、整え終えた髪に少しの乱れも許すまいという気迫が感じられた。

「本当にうっかりよね、我が息子ながら……のんびりしてもらっちゃ困るわ。外の男は、もうあなたを花嫁にできるんだから」

「ナディール様」

 部屋の外で呼ぶ男の声音から、何か面倒なことが起こったと知り、ナディールはため息をつきながら立ち上がった。

「嫌だわ。小言の多い兄弟が出かけていないと楽だけど、わたくしが忙しくなるだけなのよね。様子を見てくるから、待ってて頂戴。髪にはぜったい触らないでね、スウェン」

「じゃあ、イディス達のところに行ってみる」

 ナディールに続き、スウェンも慌てて立ち上がった。正直、部屋で待つだけでは飽きてしまう。

 衣装を持って入って来た乳母を避けるように扉へとにじり寄り、脱出路を確保した。

「みんなに、こっそりヒュー押ししてくる」

「押し?」

「のんびりなのが困るんでしょう? だったら、みんなの方で競ってもらえば良いじゃない。ヒューの良いところなら、わたしはいっぱい知ってるもの。少しくらい盛って言えば、人気上昇間違いなし。叔母さまが驚くくらい、花嫁候補が群がるわよ!」

 気炎を吐くスウェンをよそに、乳母もナデイールもいやに複雑な顔をしていた。

「これは……脈なしなの?」

「どうでしょう。本来なら、時期合わせの上でも諦めて頂かねばなりませんし……もし掟破りの決闘になれば、相手は……あれでございますよ?」

「それくらい構わないでしょう……!」

「上手くやってみせるわ! 叔母さま、期待していて!」

 大人達の思惑を知らぬ金色の雛が、軽やかに飛び出して行った。


***



 流れる雲と木に遮られ、光と陰が縞模様を為すほど目まぐるしく変化する。

 黒い馬に乗った一人の男が、日暮れ近くの斜めから差し込む光の眩しさに目を細めた。

 がっしりとした躯つきに暗褐色の髪、歳を経て陰を落した彫りの深い顔は、巌しさを見せながらも穏やかである。

 どこかの一族の名のある騎士だろう。所属する一族の印はないが、灰色のマントの下から革の鞘に収められた大剣が覗いていた。

 彼はまだ、木々の隙間から見つめる青い瞳には、気づいていないようだった。

(どうしよう……)

 スウェンは足元を見つめながら、考えをまとめようとした。

 どういうわけか、スウェンは乙女達の部屋に入れてもらえなかった。まだ子どもでしょ、というのが理由だが、鬱憤晴らしに森に出て、どんぐりの他に、別のものを見つけることになるとは思わなかった。

「さてどうしようか……」

 馬上の男が隠れるスウェンと同じ呟きを洩らす。

 もちろん本当の意味で男が困っているようには聞こえない。

 困っているのはスウェンの方だけで、騎士は真っ直ぐアーヴィングの村に向かっている。優雅な馬の足取りに後ろめたさはなく、道に迷った訳でも、悪事のために忍び込んできた訳でもないらしい。

 ただ、村は長不在の時に見知らぬ者を入れたりしない。だから余程の事情がない限り、騎士は追い返されるはずである。

 騎士がそれを知らないのであれば、ここでスウェンが教えたら、いろいろ手間が省けるのではないか――と思うのだ。

 もっともそれは口実で、

(話しかけてみたい……)

 男の持つ賢者に似た落ち着いた雰囲気が、スウェンの警戒心を好奇心に変えていた。

(でもこのままだと……こっそり付け回してるだけよね……)

 現に今その通りの、他に言いようのないことをしている。しかもどこかで騎士を追い越して行かねば、村までずっと背中を見て歩くことになる。

 ふっと揺れた騎士の肩を見て、慌てて身を低くした。

(見つかった? でも見つかったからって何も……うん、ヒューに知らせよう)

 窮するスウェンが頼るは従兄。今更ながら、訪れる者を見定めるのは森の表番の仕事ということを思い出した。

 意が決まれば、後は実行のみ。窪地の崖にそっと足音を忍ばせて登り、腰に着け

た小袋の中に手を入れる。

 選び抜かれた薄い黄緑の木の実は、スウェンの細い指の間に丁度良く収まった。

 狙いは一つ。

 大きな背中を向けた騎士へと、勢いをつけて投げつけた。

(あっ!)

 黄緑色の鋭い軌跡を、ふさふさとした黒い馬のしっぽが跳ね飛ばした。

 失敗を悔しがるより先、指先は木の実弾を、さっと二つ取り出していた。得意の二段攻撃。いつまでもそんなだから子どもだ雛だと叱られるのだが、ここには騎士とスウェンのみ。怒る乳母はいないし、後で騎士に言いつけられたら同じことになると気づいてもいない。

 華奢な腕をぐっと後ろに引き、一呼吸後、

(えいっ)

 音もなく一弾が騎士の背を目指す。

 軽く放り上げられた二弾は、騎士の頭上へ。

 一弾目は僅かに逸れ、馬の尻に当たった。

 だが次は。と乗り出したスウェンの前で騎士が素早く振り向く。

 綺麗なはしばみ色の瞳が、ひどく困惑したままスウェンを捉え――その頭上に、どんぐりは落ち、跳ね、地面に向かい、ひょいと大きな手の中に包み込まれた。

 スウェンは声も上げず、それを見つめた。

 騎士が驚いて辺りを見回す隙を作るはずだった。死角を狙って走り込み、さっと追い越して行くつもりだった。全て無駄になってしまったけれど。

(もう……知らないっ)

 スウェンは枯葉を散らかし、騎士の横を駆け抜けた。

 跳躍する小さな気配に驚き、黒い馬が空足を踏む。騎乗者の抑える声を背後に流し、金色の軌跡がひた走る。

 窪地を過ぎ大きく道の曲るところまで来て、騎士の姿が見えない場所に到達しても、スウェンは走り続けた。

 そうしないと言葉にならない何かが頭の中からあふれてきそうだった。熱を帯びた頬が恥ずかしさのせいだとは、認めたくなかった。

 息切れを起こした躯が悲鳴を上げ、落葉の窪みに足を取られるに至り、止まる動作の代わりに秋色のふかふかした地面に転がる。

 森の土と葉の匂いが、スウェンを少しだけ冷ます。

「スウェン!」

 枯葉に埋もれた顔を上げると、従兄を含め森の表番が四騎、駆けてくるのが見えた。

「ヒュー、あのね今そこに」

 知らない騎士がと言いかけ、ヒューナードの険悪な視線に口を噤む。

「スウェン。どこに行ってた?」

「いつもの……どんぐりを拾う場所……」

「今、見張りから、ひとが入って来たっていう知らせを受けたばかりなんだけど」

「そうなの。どこかの騎士」

「へえ? 表番より先に、会ったんだ?」

 ヒューナードのはちみつ色の瞳が怒りのあまり赤みを帯びる。スウェンがしまった、と思った時にはすでに遅く、怒声が降り注いできた。

「危ないだろ! 森に一人で行くなんて! まだぼくは君のお守りを止」

「まあまあ……叱るのは後にしましょう。いくら何でも、姫君だってそう不用心なことはしないでしょうからね。きっと叔父上も、そうおっしゃるでしょう」

 従兄を宥め、言葉だけならスウェンの味方をする年上の騎士は、直に叱らなくとも叱るひとを手配することにかけては一番の巧者である。

 しおらしく項垂れ反省の意をみせるが、もう手遅れに違いない。

「いつもそうして欲しいものですよ、スウェン様。ここからは我が馬にてお戻り下さい。村に着いたら、みなと同じように部屋で大人しくしているように」

「えっ……部屋? みんなって、お祝いの宴は?」

「行いますよ。来訪者に何事もなくお引き取り願った後で」

 にこりともしない騎士が、さっと馬を下りる。その乗れと促す仕草に、らしくない焦れを感じ、ふと従兄を見れば、彼もまた緊張を見せていた。

 森を訪れる者に対して、ここまで神経を尖らせた騎士達を見るのは、スウェンも初めてだった。

「スウェン、寄り道するなよ」

「分かってる」

 何かが起こっている。だからじゃましてはいけない。

 と思うものの、最後まで笑わず、見送るだけのヒューナードがスウェンには少し遠く感じられた。これまでなら、従兄は一緒に帰ってくれたはずなのだ。

 表番の役をこなすために、厳しく当たることが長の血族としての気負いと分かっていても、スウェンは願う気持ちで胸がいっぱいになった。

(ヒュー、急に態度を変えないで……でもそれが大人になるっていうことなら)

 悠然と構えていて。

 あの見知らぬ騎士のように。

 何を思って比べたのか気づかないまま、スウェンは村へと馬を走らせた。




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