4.義務
ノアは月に一度、婚約者との仲を深める為にクリスティーナの侯爵家にやって来る。
今まではその日が待ち遠しかった。
けれど、今ではこんなにも心が重い。
あの日、変わらない未来に気付き、今からでも何とか変えることはできないかと悩んだけれど何回かの人生において見たあの子に向けた優しい笑顔を、そして毎回向けられる嫌悪と侮蔑の顔を思い出して。
今まで叶わなかったことが、今思い出したからといってたかが行動を変えただけで変わるわけがない。
14歳の私に出来ることは、一体何だろうか。
これから、二年間で私がするべきことは何だろうか。
ノアといつか幸せになれるものだと信じていた7年間。これまで繰り返された人生を振り返ってもどのクリスティーナもノアしか見ていなかった。
そのことに自嘲したのは、これから解決するべき事を思い出そうと一つずつ紙にまとめていた時。
自分は確かに恋をしていたのだと十分過ぎるほどに再認識する度に心が痛む。
けれど、初めて、ノア以外のことを考えて対策を練らねばならないという状況になったからなのか。それともノアへの感情が揺らいでしまったせいなのか。
侍女からノアの訪問を告げられた時には思わず、どうして?と聞いてしまった。驚愕した侍女が、殿下の月に一度の、と言ったところでようやく思い出したのだ。
あの日から1週間寝込んだクリスティーナは6日目にはきちんと考えられるようになっていたから、これからのことを考えていた。
クリスティーナは様々な感情がせめぎあう心を落ち着けるべく、なるべくゆっくり深く息をして、ノアを迎えに客間に向かった。
「今日は、読みたい本がございますの。図書室で過ごしませんか?」
侯爵家に義務的にやって来たノアは、少しだけ顰めた眉を一瞬で元の無表情に戻して頷いた。
王妃から体調不良で早めに退出したことを聞いていないのかわざとなのか、ノアからのお見舞いなどの便りは無かった。
それすらも侍女が申し訳なさそうに怯えるように伝えてきて、初めて気が付いた。
クリスティーナは先日のお茶会のことは口にせず、何事もなかったかのように淑女の笑顔でノアを出迎えた。
いつもは何処かに出掛けたり、温室で一方的な会話をしながらお茶をして過ごすのだが、図書室でとの提案はクリスティーナからは初めてだった。
「殿下はまだ我が家の書庫をご覧になったことはないでしょう?」
この人生では、まだノアは書庫に足を踏み入れたことはないはずだ。
外に出掛けたり、侯爵家にいてもクリスティーナが話してばかりが多かった。そしていつもノアが忙しさを理由に早めに帰るのだ。
「・・・ああ、ないな。」
「では、参りましょう。王宮にある書庫には敵いませんけれど、我が家の書庫もそれなりには調っております。きっといくつか気に入る本があるはずですから!」
ノアがクリスティーナを気にするなんてことはないはずだが、第一王子同様にノアも聡い。
変に距離を取ってしまえば、何事かと疑われるだろう。
だから、クリスティーナはよそ行き口調を選び、またたまに我が儘なクリスティーナの口調を取り入れた。
顔を見るときは、いつも笑顔で目を細めてあまり正面から見ることがないようにして。
クリスティーナが図書室にノアを案内すると、その蔵書にノアが驚いたように目を見張った。
「・・・これは、アルデリア侯爵が集めたのか?」
「私以外の家族が集めたものです。私は専ら読む専門なのです。お兄様は様々な国に行くこともあるからその度に幾つか買っていらっしゃって。母も父も色々と買ってくるのです。」
侯爵家の家族はみんな本好きだ。
母と父は本好きという趣味から出会って結婚をしたからか、二人は書庫を大事にしていた。兄のケンジーもそれを受け継いで、仕事で国を出るたびに何冊か買って帰ってくる。騎士という仕事が忙しいからか、その全てを読むことは出来ていないようだが。そして、それを語学の勉強としてクリスティーナが読む。
「私、あちらで読んでおりますのでどうかお好きな本をお探しになってください。気に入ったものがあれば、御貸しいたしますから兄に返していただければ結構ですので。」
そう伝えるやいなや、クリスティーナは目的の本を手にとって図書室の端にある席に着いて本を読み始めた。
そこは小さなテーブルと椅子のみで日差しは差すがそれで本が焼けないように間取りを設計してある。クリスティーナのお気に入りの場所の1つでもあった。
そんなクリスティーナにノアは多少なりとも驚いてはいたが、侯爵家が本好きということは知っていたし、何より触れたことのない本もあったから気にせずに心の赴くままに本に触れ始めた。
それを視界の端で確認したクリスティーナはそっと息を吐き、侍女を呼んだ。
「時間になったら殿下に帰ってもらって。私、今はこれに集中したいの。」
侍女は静かに頷き、元の場所に戻った。
クリスティーナが読んでいる本は、冒険物語だ。
東の国から、冬の厳しい北の大地を通って西の国へ向かう青年の物語。東の国での様々な出会いから西の国への憧れを大きくした主人公は、1人で旅を始める。南の国は、西の国と国交を断絶中で渡ることが出来ない為に北の大地を通るしかないのだ。けれど北の大地を覆うは寒さの厳しい雪。激しい吹雪のあまり雪山で意識を失った青年は、偶然通りかかった商人一行に助けられて東の国に戻る。やはり無理かと一度は諦めるものの、商人一行の中にいた西の国出身の少女と仲良くなり、実際の西の国の様子を聞いて更に憧れを強くして、帰りたいと儚げに笑う少女を国に返したいと思いも生まれ、今度はその商人一行と北の大地を渡る。というお話だ。
あらすじとしては簡単だが、人々の心理描写や風景などが綺麗に伝えられていて、実際に旅をしているかのようにドキドキするから面白い。その本はとても分厚く、1日や2日で読み終えることは出来ない。
隣国に行っていた兄が2年前に買ってきたものだ。これを読む前に、もっと薄い本で隣国の文字に慣れてやっとこの前この物語を読み始めた。
それを邪魔しないでと、クリスティーナは侍女に暗に告げたのだ。彼女が本を読む時に時間を気にしないことは屋敷の中ではよくあることだ。
いかにも、クリスティーナらしい理由だった。
ノアもまた本に夢中で、時折はクリスティーナへと警戒するように視線を向けてはいたが、やがて邪魔するようなことがないとわかったのか気にすることもなくなった。
そして、ノアの従者が侍女に時間を示すと侍女はノアに声をかけた。
「恐れ入ります、殿下。誠に申し訳ございませんが、クリスティーナ様よりお時間になりましたら殿下をお見送りするように言付かっております。」
ノアはふっと息を吐いた。
従者は、不敬とも取れる発言にぴくりと眉を潜めたが何も言わなかった。
侍女はただ、主人の命に従っているのだ。
「・・・お見送りもしないなんて、我が儘な私にぴったりな行動ね。」
気分屋は我が儘に見られがちなのだ。
ひとり図書室に残ったクリスティーナは、ぽつりと呟いた。
いつもは早く読み上げるクリスティーナだが、今読んでいる物語は3分の1も読み上げることが出来ていなかった。
隣国の言葉でも、古語で書かれているその物語はやはり難しかった。