19.新しい未来の選択
領地に帰ったクリスティーナは、何故かエルヴィスと向かい合って紅茶を飲んでいる。
「美味しいね。」
「・・・そうですね。」
何故まだ公爵当主がいるのだろうか?
何度も問いかけても当人は答えてくれず、穏やかに微笑み続けて話をそらし続けていた。
パーティーを途中で退席し、宿に戻って取ってもらっていた部屋で一晩明かしてクリスティーナは領地に戻った。
馬車の前でエルヴィスとは、これでお別れですね、と言ってその時が彼と会う最後だったはずである。少なくともクリスティーナはそのつもりで最後のお別れの言葉を言った。
なのに何故こんな朝早くからこの男はやって来て厚かましくも長時間滞在しているのだろうか。
しかも扉が少し開けてあるとはいえ、客間で2人きり。
「大丈夫だよ。もうすぐ帰るから。」
先程からじっとりと己を観察するように見ているクリスティーナに向けて、エルヴィスは苦笑しながら彼女が考えていただろうことに答えた。
「最後に、挨拶だけでもしておこうと思ってわざわざ寄ったんだ。もう少し歓迎してくれてもいいんじゃないかな?」
「歓迎するほどの仲だったとは初耳ですね。」
「酷いなぁ。久しぶりのパーティーでエスコートするほどの仲じゃないか。」
「貴方が勝手にやって来たんでしょう・・・。」
あれは本当に酷い終わり方だったとクリスティーナは思う。
いや、クリスティーナにとってはいずれ知られることだったことが早まっただけだ。もう一度話題に上がることは面倒だと思うけども、これで確実に縁談の話は一切来ないだろうと確信している。
それでも来るとしたらよほど頭のおかしい馬鹿だけだ。
申し訳ないと思うのは、あのローナ令嬢に対してだ。ローナはノアに憧れ、好きだった。ローナはクリスティーナと同い年の伯爵令嬢で、けれどもクリスティーナよりも後にノアと出会った。その時にはもう、ノアとクリスティーナは婚約していた。
ローナの母親と友人であるシェリーから聞く所によると、ローナはやっと他の縁談に前向きな姿勢を見せたらしい。しかし、相手は自分で見つけるのだと言って、お茶会やパーティーにも必ず参加していたのだとか。
会場に入った瞬間から、ローナの怒りの視線をクリスティーナはきちんと感じ取っていた。
ローナはクリスティーナに一言ぐらい言わなければ気が済まなかったのだろう。なのに、背後の気配に驚いて余計な動作をしてしまった。
クリスティーナは左腕を思わず擦る。
もう痛みはないが、エルヴィスに初めて会った時はまだ痛みがあり、しかし弱気な所を見せている時じゃないと叱咤して平気な振りをしていた。
「もしかしてまだ痛い?」
物思いにふけっていると、心配そうな表情をしたエルヴィスがこちらを見ていた。
クリスティーナは頭を振って、大丈夫だという風に緩く微笑んだ。
「ちょっと斬られた時のことを思い出しただけです。不謹慎ですけど、あんな冒険物語のような緊迫した場面に出会すのって貴重な体験だったなって。」
「1つ間違えていれば死んでいたかもしれない時間を貴重な体験だと言える令嬢は君くらいなものじゃないかな?出来れば僕は2度とそんな貴重な体験をしてほしくないよ。」
「私だってあの痛みをもう一度味わいたくはありません。」
エルヴィスからは疑いの眼差しを向けられるが、貴重な体験だと言っただけでクリスティーナだって2度とあんな場面に出会したくない。
あんな、友達を失うかもしれない場面なんて2度と御免だ。
友達に兄がいたこと、あの場面がその兄が原因だったことは隣国での屋敷で聞いて知っていた。しかし、隣国の公爵家に起こっていたことは、クリスティーナは国に帰ってから初めて知った。
その後、偽の公爵令嬢が処刑されたと聞いた時、クリスティーナはまるで時が止まったかのように目を見開いたまま呆然とした。
エルが死ぬはずがない。でも大衆の前で首は斬られたそうだ。本当に?本当にエルが?兄はどうしてエルを見捨てたのだろう。あの時絶対に助けると言ってくれたのに。エルも、言ってくれたら助けに行くことも出来たかもしれないのに。
クリスティーナがアンジェリカと心配しながら、茫然自失として過ごして1ヶ月後、ある女画家がアルデリア家にやって来た。
男物の服を着た彼女は画家になると宣言して家を飛び出したのだと言う。絵を描きながら領地を回っていて、今はアルデリア伯爵領を回っていたのだと。
『突然申し訳ありません。興味本位でお屋敷の様子を見ていたらそちらのお嬢様が窓から見えまして、己の画家魂がこの方を描かなければ!と叫んだものですから。よろしければ承諾していただきたいのですが。』
屋敷の入り口で女画家は執事のヘンリーにそう言っていた。しかし、当然ヘンリーはその得体も知れぬ女画家を追い出そうとしていた。
それを女画家を窓から見ていたクリスティーナが止めて、是非絵を描いてくれと快諾したのだ。何日も滞在させるわけにはいかないので、スケッチだけよろしくと言って。
クリスティーナの私室に案内して、その部屋で描いてもらった。しばらくは侍女も部屋の隅にいたのだが他人がいるとどうしても気配が気になって、と女画家が言うので渋る侍女を女性同士だから大丈夫だと言って部屋から出して2人きりになった。
伯爵家の使用人は以前と比べると減っていたが、隣国にも連れていったこの侍女は昔からクリスティーナ付きで不祥事の後も伯爵家についてきてくれた者だ。侍女含めて使用人たちは、クリスティーナに対して良い印象は持っていなかっただろうに、1人で隣国に行ったことと傷を負って帰ってきたことからどこか雰囲気が柔らかくなった。
窓際に座って空を見ているクリスティーナを女画家が真剣にスケッチに向かって描いていた。・・・はずだった。
そっと立ち上がった女画家は足音を立てずに扉に向かい、何かを確認するような動作をしてからまた椅子に戻った。
表情を変えることなくそれを見ていたクリスティーナに、女画家は笑いかけた。
『お久しぶりです。お嬢様のご友人。』
それまではきはきとした女性にしてはやや低いくらいの、それでもこの声は女性のものだと認識できていた声がいきなり完全に男の低い声に変わった。
扉の外までは聞こえない、けれどもクリスティーナにはぎりぎり聞こえるくらいの声量だ。
『ウィリアム・・・よね?』
『当たりです。やっぱり窓から合図して良かったですね。執事の方に追い出されたらどうしようかと冷や冷やしましたよ。』
クリスティーナはまじまじとウィリアムを見つめる。
ふと外を見ると小汚ない身なりの女性が屋敷を見上げているものだから誰だろうと思わず見返していた。すると帽子を目深に被っていたその人間はクリスティーナに気が付くと、軽く帽子を上げてにっこり微笑んだ。
どこかで見たことのある人物だと、クリスティーナは気付いたのだ。
ウィリアムが帽子と茶色のかつらを取って、本当の髪の長さと色を晒して、また元に戻した。
『お嬢様のことについて、ご説明に伺いました。』
『そうだ!エルっ!』
『静かにお願いできますか?機密事項なのですが、貴女には特別に事情を全て話しに来ました。他人に聞かれるわけにはいかない。』
思わず叫んだクリスティーナをウィリアムは咎め、扉をちらちらと確認しながらクリスティーナに程好い距離感まで近付き、ひざまづいた。
『簡単に言います。身代わりを立てたのでお嬢様は処刑されていません。生きています。今は隠れて、毒と常識の療養中です。』
『毒と常識・・・?』
『・・・公爵当主の計らいです。2度と、毒を飲んで自分で自分の身を始末しないように、と。』
なるほど、とクリスティーナは感心した。
それならば手を挙げて賛同する。エルには是非とも自分の命も大切にしてもらいたい。
しかし、それよりもエルが無事で、生きていてくれて良かったと心の底から安堵した。
突然襲われた時は驚いて、けれどその場にいても邪魔になるだけだったクリスティーナはエルに指示されるがままに逃げてしまった。何人か付いてきたが、突然現れたウィリアムによって全員気絶させられた。
そして、遠くから剣を交える音が聞こえてきたのでウィリアムと慌てて戻ったのだ。
物陰からこっそり補助できないかと機会を窺っていた。しかし、エルの背後を取った男が剣を振り上げたのを見て、ウィリアムの制止も聞くことなく飛び出していた。
その男、隣国の第一王子と目が合った瞬間は鮮明に覚えている。
嫌味たらしくていつもすましてる心底いけ好かない男なのよ、とエルの言葉も本当なのだろう。
だが剣が腕を裂いてその衝撃にクリスティーナが後ろに倒れる瞬間に合った王子の目は、驚愕に満ちていてしまったと言わんばかりだった。クリスティーナは、明らかに場慣れしていない人間の動きだったのだろう。
後ろからエルの叫び声が聞こえたと思った時には辺りに煙幕が張られていて、クリスティーナはエルに右腕を引っ張られるままにその場から移動していた。
応急処置をされなが怒られて泣かれて謝られて。
なのに、クリスティーナの命は大切にしてくれるのに、エル自身の命は大切にはしてくれない。
せっかく出来た友人をみすみす死なせてなるものかと、クリスティーナは隣国に行ったのだ。
その時、クリスティーナは決意を新たにした。
『・・・・・本当に良かった。』
『・・・本当に、本当にありがとうございました。お嬢様の命を助けていただいたこと、お嬢様を庇って傷を受けたこと、感謝してもしきれません。』
ひざまづいたウィリアムが床に着くほど頭を下げたところで、ヘンリーが扉をノックして入室の許可を求めてきたので、さっと身を翻したウィリアムが席に座るのを見届けて返事をした。
ウィリアムもとい女画家にもらった、スケッチは今も大事に取ってある。
彼の本職は何なのだろうと心底不思議に思うくらい、ウィリアムのスケッチは上手だった。
「私だって好き好んで傷を受けたわけじゃないんですよ。」
「わかってるよ。」
「ところで、あの、エルの従者だった方はどうなりました?」
「ウィリアムなら、僕の下で働いてくれているよ。彼は使えるから助かってる。まあ、真の主人はエルヴィラだって決めてはいるみたいだけど。」
「・・・そうですか。」
安堵しながらもクリスティーナはやっぱりウィリアムは・・・、と確信する。
本人に言ってもはぐらかされるだけだろうが、ここ数年は毎日ずっと一緒に行動していたと聞いていたクリスティーナの中で予感はあった。
クリスティーナはふと視線を感じてティーカップに向けていた視線を上げると、思っていた以上に真剣な目をしたエルヴィスと目が合ってドキリとする。
琥珀色の瞳がクリスティーナを捉えている。
「クリスティーナ・アルデリア伯爵令嬢に申し込みたいことがある。」
エルヴィスは座り方を少し崩しているというのに声音は至って真剣で、クリスティーナは思わず姿勢を正した。
「はい。」
「僕と結婚してほしい。君が好きだ。」
シンプルな言葉だった。
そして、嘘偽りのない言葉だった。
クリスティーナは1度目を逸らしてから、もう一度エルヴィスを真正面から見る。
一緒にいると楽しい人だ。腹黒くはあるし、時折自分勝手に動くような人ではあるけれど、気負わずに話すことが出来て、クリスティーナはエルヴィラといる時と同じように自然体で接することができる。
エルヴィスとの未来は、きっと好かれるだとか嫌われるだとか考えないで思ったことを口にしても楽しくて明るくて心地好いものなのかもしれない。
「返事がわかってても、求婚してくれるんですね。」
エルヴィスは少しの間押し黙り、天を仰いで大きくて長いため息を吐き、恨みがましい目でクリスティーナをちらと見た。
クリスティーナは思わず笑いながら更に言葉を続ける。
「やりたいことがあるんです。ずっと自分の思いを優先してきました。誰にどんな迷惑がかかろうとも。だから、今回も最後まで押し通そうと思います。」
「研究所で働きたいと?」
「そうです。本当に楽しかったんですよ。」
所長の助手として働くことも実験を覚えて色々な植物の変化を見ることも。温室で様々な植物を見て、王都とアルデリア領しか知らなかったクリスティーナは小説で読んで想像するだけではなくて、実際に見てみたいと思うようになった。
だからいつか、リアムのように世界を飛び回ってみたい。
古語を話せるようになったと伝えた時のリアムの表情はとてもわかりやすかったから、クリスティーナの思いを伝えたら喜んで受け入れてくれるだろう。
「研究所は学園の敷地内にあるのに?」
「知ってます。」
「学園は王族に連なる者が学園長を務めるのだろう?そうすると次期学園長は、誰かわかっていないわけじゃないだろう?」
「ちゃんとわかってます。・・・そんな怖い声出さないでください。まるで怒られているみたい。」
「そりゃ、怒りたくもなる。」
エルヴィスは不機嫌さを隠そうともしないで苛々しながら腕を組み、困惑している目の前の少女を見据える。
「ごめんなさい。ありがとうございます。」
完全に振られてしまった。
エルヴィスの初恋は、今この瞬間、呆気なく散ってしまったのだ。
わかっていた答えではあるのに、こうも胸が痛くて未練を残してしまうものなのだろうか。
「君は・・・、駆け引きが上手くなったね。」
「ふふっ。そうですか?」
「何だろうな。負けた気分だ。」
認めるのは癪だけれどもと、エルヴィスは自嘲する。
妹のエルヴィラと共に負けず嫌いな人間であるとは自負している。だから、エルヴィラは喧嘩腰に嫌味を言ってくる自国の王太子にいつも応戦してしまうのだ。それが王太子を喜ばせるとは知らずに。
「今回はもうお暇しよう。」
エルヴィスは残っていた紅茶を一息に飲んで立ち上がる。
「お見送りします。」
クリスティーナも立ち上がりかけたのをエルヴィスが手で制し、ニヤリと笑った。
「殿下のご到着だよ。」
言葉を理解しきれなかったのか、クリスティーナは瞬きをしただけで何の反応もしなかった。
すると客間の扉がノックされ、執事のヘンリーがこれまた戸惑いの表情を浮かべて入ってきて、エルヴィスを見てから更に焦りを募らせている。
「あの、申し訳ありません。第二王子殿下がいらっしゃっておりまして、お嬢様にお話がしたいと仰っております。」
若干声が震えているのは、エルヴィスがいる場で知らせてよかったのか悩んでいるからなのだろう。
エルヴィスは気にはしないし、クリスティーナに至っては未だ状況が理解出来ていないのか何の反応も示していない。
エルヴィスは仕方ないなと内心ため息をついて、クリスティーナの代わりにヘンリーに返事をした。
「私はこれで失礼します。玄関まで一緒に行きましょう。見送りはそこまでで結構ですので、殿下をクリスティーナ様の元に案内してあげてください。」
「・・・はい、かしこまりました。」
ヘンリーは心配そうにクリスティーナの反応を窺うが、先程から変わらない様子を見て取り、エルヴィスの言葉に頭を下げた。
ヘンリーの後を追うようにエルヴィスは伯爵家の玄関へと向かって階段を下りていく。
「っ!!」
玄関で待たされていたノアは、階段から下りてくる公爵当主の姿を認めて思わず睨み付けた。
しかし、ノアが視界に入っていないのか入れようとしていないのか。後者であるとノア自身気付いているが、公爵は余裕そうな笑みを浮かべたまま、睨み付けるノアの横を会釈もしないで通り過ぎようとした。
しかし、唐突にノアの真横でエルヴィスは立ち止まった。
「せいぜい盛大に振られてください。」
目だけで隣を見たエルヴィスは、とても親密な仲でいずれ結婚するのだと勘違いしているであろうノアを鼻で笑ってやった。
好きな人が好きになった好きな人のタイプは理解できないものだなあと思いながら、今度こそ隣国へと帰っていった。
一方のクリスティーナはその場に立ち尽くしたまま、客間に慌てた様子でやって来た第二王子を迎えていた。
どうして伯爵家に来るのだろう?
先程からクリスティーナの頭の中を駆け巡っている疑問はそれだ。
その疑問に対する答えがどうしても見つけられずに、エルヴィスを見送る行為や王族を出迎える作法をしなければなどの次の行動へと移せないでいた。本人が目の前に現れても尚。
「どうして?」
心の底から不思議に思う。
心の呟きが思わず口から零れたことにもクリスティーナは気付かなかった。
「クリスティーナ。」
ノアの視線はしっかりとクリスティーナを捉えているのに、その瞳はゆらゆらと震えているように見える。
どうして泣きそうな声なんだろう。
これまで怒りに震えた声は聞いたことがあっても、ノアのこんなにも弱い声をクリスティーナは聞いたことがなかった。
「どうか、私から離れないでくれ。」
ノアから紡がれる言葉を聞いても、クリスティーナはノアが訪問してくる疑問を解決出来ずにいた。
そんな微動だにしないクリスティーナに、ノアは一歩ずつ近付いていく。
「だから、お願いだからっ・・・あの公爵当主と結婚しないでくれないか・・・・・。」
ノアはクリスティーナの両肩を掴んで、縋りつくように懇願した。
情けない顔をしながら、情けないことを言っていることを自覚している。
それでも言わずにはいられなかった。
クリスティーナからの反応が怖くて、ノアは自然と肩を掴む手に力が入りながらも次第に俯いてしまった。
静寂が2人の間に満ちる。
クリスティーナは震えているノアを真剣に見つめ、ノアはクリスティーナの無言が怖くてそれでも早く返事を聞きたかった。
「ノア様、私を見てください。」
やけに冷静な声がノアの心を更に震わせる。
怖いと、心臓が嫌な鼓動を立てていることには既に知っている。
それでもこのままでは何も始まらないと意を決して、不安をその瞳に映したまま、ノアは顔を上げた。
クリスティーナは至って普通で、どんな感情をも揺れていないことは明らかだった。
「まず、先程の公爵当主の件についてですが、私と公爵様は皆様が考えているような仲では無いということを断言しておきます。この傷についても、公爵様が付けたものではないので責任を取って私を貰い受けるなんてことはありません。」
「・・・では、その傷は?」
「私の不注意で受けたものです。ですので、公爵様についてはこれで終わりです。次に1番始めに仰ったことですが、」
そこで一旦言葉を止めたクリスティーナは、肩を掴んでいるノアの両手を丁寧に外して一纏めにしてゆっくりと手を離した。
「嘘を言わないでください。ノア様は私を好きなのですか?違いますよね?絶対に私を好きになることはあり得ません。それなのに引き止められる理由が私にはわかりません。」
クリスティーナの声音は自信に満ちている。
それに呼応しているように、浮かべる表情もその考えを一切疑っていないのか柔らかく微笑んでいる。
「好きだから側にいてくれと言われたらまだわかりますが、けれどノア様は私を好きになることは無い。これは、絶対に変わることのないこの世界の常識だと、私は知っています。」
「そんなことは、」
そんなことはないと言おうとして、クリスティーナが人差し指を立てて口元に持っていき、しっという仕草をしてから口を閉じる。
その様子を無表情に見ていたクリスティーナは、ノアに優しく微笑んだ。
「私はいつも変わらなかったし、貴方も変わらなかった。たかだか考えや行動1つ変えただけて、その常識が覆されるなんてことはあり得ません。変えることの出来ない、この世界の事実です。」
きっぱりと言い切るクリスティーナを呆然としながらノアは見ていた。
「ノア様がどうしてそんな考えに至ったのかわかりませんが、私に離れてほしくないなんて、それはきっと錯覚でしょう。一時の感情です。これから出会うべく人と出会えば、それがきっと馬鹿馬鹿しい勘違いだったと気付きます。早く良い人と出会えるといいですね。」
クリスティーナは考え込む。
子爵令嬢以外とは誰と仲が良かっただろうか。ああ、前はなんとなくでも覚えていたはずなのに忘れてしまった。必要ないと思ったことはすぐに忘れるのよね、とエルが言っていたがそれが自分にも移ったのかもしれない。
とにかく、とクリスティーナは続ける。
「私はもうノア様のことは好きではないのです。・・・夏頃に、来られた時にも言いましたけど。私は確かにノア様が好きでした。好きだったんです。わかりますか?好きだったんです。もう過去の出来事です。」
はっきりと、ゆっくりと、その耳にしっかり聞こえるように伝える。
「けれどね、それまではずっと好きでした。ノア様だけなのだと信じ込んでいました。だから、もう好きではなくなったからと気付いてもこれまで積み重ねた想いが綺麗に無くなるわけではないんです。」
いつか兄に伝えた言葉を思い出しながら、クリスティーナはきちんと相手に伝わるように言葉を選びながら口にする。
「好きではありません。私はもう恋をしていない。でも、大切に想っています。ノア様は幸せになってほしい、私の大切な存在です。アンやエルと同じ、幸せを願っている大切な存在の1人です。」
クリスティーナが心から笑ってくれていると、ノアは気付いた。
あの時とは違って、その瞳が澄んでいることにも。
ノアは身体の横で拳を握り締め、俯いて瞳をぎゅっと瞑った。
「俺は、貴女から幸せを願われるほどに想われているなんて思わなかったんだ。・・・クリスティーナを幸せに出来るのは、俺だけなのだと思っていた。」
「いつかの私と同じですね。私たち、似た者同士だったのかもしれないですね。」
クリスティーナはふふっと、青の瞳を和ませて笑う。
「ずっとノア様に一目惚れしてきました。でも、次は、自信を持って言えます。次は絶対に、ノア様と会っても一目惚れなんてしない。今度は、私を幸せにしてくれる人を好きになって私が幸せになれる人生を送ります。」
心に刻まれたその人の笑みを、ノアは脳裏に焼き付けるように見つめた。
ノアがリアムから学園長の座を譲り受けた年にはもう、クリスティーナは植物研究所での地位を確立していた。
クリスティーナはリアムから異国でのまだ見知らぬ植物を採取してくる仕事を引き継いでいた。そして、リアムとは違って植物の名前と現地でどんな風に使われているのか、どんな効能があるのか、どんな環境で育つのかなど出来る限りの情報も聞いてきてくれるので研究員たちからは絶大な支持を得ていた。
しかし、数年後。
クリスティーナは突然、研究所を辞めて隣国へ行ってしまった。
『友達に会いに行くんです。』
ウキウキしながら嬉しそうに笑っていたクリスティーナが、まさか隣国で昔噂になっていた公爵と結婚するなんて誰もが予想していなかった。
その1年後には、公爵家の別荘の近くにあるリズルリランの湖近くで幸せそうに赤子を抱えて侍女らしき女性と楽しそうに話している姿が見られた。
そうしてクリスティーナは公爵家の跡継ぎたる男の子が5歳の時に里帰りして以降、国に戻ることはなかった。




