黒い景色の中で
帰宅後、風呂と夕食を済ませた洋史は、少し一人で散歩に出たいと母に伝えた。母は心配したが、携帯電話をちゃんと持ったのを見せると外出を許してくれた。
陽はもう沈んでおり、日中の暑さは収まって首筋を抜けるそよ風には清涼感がある。
洋史は自転車に乗り、ゆっくりと海岸線の方へ向けて漕ぎ出した。
下り坂では少し顔を上げると星空が視界に入る。思いの外、風が心地よい。
これまで洋史は夜に一人で出歩くことがほとんど無かった。携帯電話を持っていなかった中学生の頃は親が外出させてくれなかったし、自分でも出掛けたいなどとは思わなかったからだ。
何年か前のことだが、家族三人で外食をした後に夜の砂丘を訪れたことがあった。駐車場に車を停めて『馬の背』と呼ばれている小高い砂山に登ったのだが、そこから一望できる日本海は黒い海と黒い空の境目がはっきりしなかったように記憶している。
( あれには吸い込まれそうな怖さがあったな…… )
国道を海側へ横断し、砂丘へと自転車を走らせる。頭の中には汐里先輩の言葉が浮かんでいた。
『奇跡の交差点だよね』
『良い運気も悪い運気も、人が運んでくる』
運気、という表現はどことなく抽象的で、洋史にとっては掴み所のない靄のようなものだ。だからこそ感じたのは、初めて逢う人、それまで自分を知らなかった人は、出逢った時点では害なのか益なのか決まっていないのではないか、ということだった。
それならどうして自分は盲目的に『他人は自分を攻撃するもの』と思い込んでいるのだろう。
人と接する恐怖感。怒りを露わにした水根の言葉。自分に向けられた刃はただただ自分を迫害するもの……そう思っていた。だが、汐里先輩の言葉の中に何かが見えた気がした。理由もなく突然湧き上がってくる恐怖感という闇に、何か、見落としていたような、何かが……。
駐車場に着いた洋史は隅に自転車を停め、砂丘の中へ入って行く。街灯が届かなくなると足元は暗かったが、歩ける程度には見える。『馬の背』に近付くにつれて、波の音に混ざり聴き慣れた騒音が聞こえてきた。エアクッション艇のホバーの音だ。
こんな時間になんだろう、と思った洋史は、足場の取られやすい砂の上をよろけながら走る。『馬の背』に辿り着いた洋史が見たものは、二台のレッグホバーだった。
三脚の投光器に煌々と照らされ、二台のレッグホバーは旋回しながらの砲撃演習をしているようだ。浅瀬で水しぶきを上げながらお互いを狙い合っている。二機とも側面の弾除け部分に『大羽尾学園』と描かれていた。
昼間は観光客も来る海岸であるため、レッグホバーの走行間射撃は禁止されている。遊泳禁止区域で海側へ向けて停止させたホバーであれば砲撃は認められているが、停止の砲撃だけであれば学校の校庭でも出来るし、弾の回収も結構厄介だ。夜間に走行間射撃の演習をするレッグホバーはそう珍しくはない。
洋史は『馬の背』の砂の上に座り、しばらくぼーっと演習を眺めていた。すると一台が推進プロペラを止め、操縦手と砲手が何やら言い合いをしている。そして操縦手がメットを脱ぎ捨て、砲手に掴みかかった。
( 何をあんなに怒ってるんだろう…… )
相当揉めているようだ。
苛立つことは洋史にもある。怒りを誰かに向ける時もある。だからと言って僕から誰かを責めることはしない……と思った時、はっと気付いた。
『また勝手なことばかり、勝手に……』
怒りに任せて小鴨を叱咤した時のことが頭を過る。あの時は砲身を外した状態で弾がまともに飛ぶわけ無い、と思い込んでおり、無駄に弾を使った小鴨に腹が立ったのだった。
あの時彼女はどう思っただろう。よく思い出してみる。水根が卓球のカーブドライブのことを言い出し、それを小鴨が試したのだと……彼女は平然とまた映像を再生し……
( ……いや、本当に平然としていたのだろうか )
その時の小鴨の表情までは思い出せない。と言うか、洋史は相手の表情までは見ていなかった。思い出せるのはその後、小鴨と水根を凄いと褒めた時の、彼女の満面の笑みだった。
( 僕もつられて、なんだか嬉しい気持ちになったな )
そして片付けの時に小鴨の試し撃ちで薬室が歪んで変形してしまったと判った時、彼女は泣きそうな顔で謝ってきた。その時洋史は薬室の強度や形状も改良する必要があるな、と思っただけで、小鴨を責めたりせずただ黙っていた。
『良い運気も悪い運気も、人が運んでくる』
その後しばらく小鴨に元気が無かったのは、謝ってきた彼女に対し自分が黙っていたからなのではないだろうか。
壊れたものは直せばいい、大丈夫だ……そういう言葉をあの時かけられたら、彼女は安心したのではないか……悪い気を発散しているのはもしかして自分なのでは、という気持ちが浮かんでくる。
だが、自分は思ったことを上手く喋ることが出来ない。
洋史が診断された自閉スペクトラム症という障害は、原因が解明されていないと医師は言う。洋史は比較的軽度であるとされているが、肉体的な障害が見当たらないのに言葉を発せられないことと、対人的な恐怖、その恐怖感の理由が『他人とは常に攻撃的な存在だと思い込んでいる』こと、ここに問題があると心療内科医は言う。
海岸線ではレッグホバーが演習を再開していた。掴みかかった操縦手は言いたいことが伝わったのだろうか。掴まれた砲手は納得したのだろうか。どちらにしても自分のように萎縮して逃げてしまっては、演習再開とはいかないだろうな、と洋史は思った。
汐里先輩の言葉で見え掛けたものは何だろう。恐怖感という闇の、気付かなかった側面。見落としている何か。それが自分の中にあるであろう事は薄々ながら気付いているのだが……。
洋史は携帯電話を取り出した。
メールなど打ったことは無かったが、本文作成ページを開く。
『同好会を休んでごめん 腔線のエッジはメンテするけど、弾が引っかかる原因はいくつかあって』
文章を打ち始める。水根への文章。メールアドレスは知らないが、明日学校で見せるためだ。
洋史は慣れない手つきで何度も書き直しながら文章を打った。小一時間は打っていただろうか、気がつくと辺りは静まり返っている。大羽尾学園のレッグホバーは引き上げたようだ。
波の音が静かに耳を打つ。
目の前に開けている日本海は黒く、波打ち際が時折鈍い光をちらりちらりと反射させていた。
夜空を見上げると、遠くに行くに従って星が増えていくように見える。だが、目を凝らしても黒に溶ける水平線は見えなかった。
生温い風が洋史の髪を乱しては、どこかへ去っていく。
父の手を握りながらいつか見たこの景色は、自分が飲み込まれてしまうかのような怖さがあった。だが、今、その恐怖感は感じない。
洋史は携帯電話をポケットにしまうと、駐車場の方へ歩き出した。
翌日、レッグホバー同好会は造船工学科の実験室に集まった。
先に来ていた洋史は水根が入って来るのを見ると、自分の携帯電話を差し出した。まだ目を合わせることが出来ず、手も震えている。水根は不機嫌そうな顔で、黙ってそれを受け取った。
時折何か言いたそうに洋史の顔にちらっ、ちらっと視線を向けていたが、読み終わると水根は携帯電話を洋史に返した。
「……わかった。砲身見てくれ。昨日は十発中破裂したのは三個。腔線加工の無い方は問題なく発射出来た」
洋史は斜め下を向いたまま携帯電話を受け取ると、保冷シートを水根に手渡した。
「弾倉溝に被せればいいのか?」
「……う、うん……」
まだ手足が震えている。だが、怖くて逃げ出したい、といった今までの殻に閉じ籠るような感情とは少し違っていた。覚悟というか開き直りみたいなものが今の洋史にはある。何か言い返されたらまた文章を打って返そう、そういう気概があった。それは洋史にしてみれば決死の勇気だ。障害のない健常な者には想像もつかない気迫で、自分を奮い立たせているのだった。
青谷先生が来て今日の事前整備と練習予定が一通り説明されると、校内におけるこの同好会の扱いについて話があった。
同好会から部への昇格は、活動期間と校外での実績が必要になる。しかし活動期間は特例となり制約は付かなかった。これは、同好会であっても全日本エアクッション艇協会から補助金が出ることが理由だった。
「協会の補助金は3番機の製作費に全部消えたけどな。実際、実機の整備と関連消耗品の購入以外には使わないこと、との条件もある」
但し、校外実績においては学校から条件が出ている。高校生大会で二勝すること。一般部門と違いトーナメント方式が適用されているため、最低三回戦まで勝ち上がらないといけないことになる。
「部になれば回される部費が変わってくる。是非とも二勝、上げて欲しい」
青谷先生はニッと笑みを作って握り拳を見せたが、部員の空気は重かった。操縦にも砲撃にも不安要素が多過ぎる。
特に操縦は砂丘部分でのレッグホバーの扱いが素人の域を出ていない。比較的技量が高いのは汐里だが、青谷先生と比べれば足元にも及ばない。その青谷先生が所属する社会人チームも大会成績は振るわなかった。皆が不安になるのも無理は無い。
「それとな、部長なんだが、汐里、お前やってくれ」
「え? マコッチでしょ?」
「仮でリーダーやってもらってただけだ。よろしく」
「よろしくって……遠慮するよ。入部届けも出してないよ、私」
「今更何言ってんだ。内申書も有利になるぞ」
「な、内申書……ずるい……」
汐里は渋々部長を引き受けた。顧問である青谷は栗尾でも部をまとめる力はあると見ているが、大会参加が彼のプライベート都合に関係している以上、生真面目な彼は重荷を全て背負いこんでしまうのではないかと思った。プレッシャーは少しでも軽くしてやりたいという配慮だった。
「それから……九月に練習試合を組んだ」
その言葉はさすがに部員をざわめかせた。栗尾は表情が硬くなり、膝の上で両手の拳を握り、緩める。
( 未だに出来ねぇ、砂丘の勾配に沿った斜めの走行…… )
“脚”の使い方は毎日のように青谷先生に教わっている。砂に刺す深度はどのくらいか、ショックアブソーバーがどう働くか、砂の起伏が脚をどっちへ引きずるか……実機を使った脚の挙動の変化も散々見てきている。だが、操縦席からは脚は見えない。船体を伝わってくる振動を頼りに、まさに自分の“脚”のように制御する、これはそんな簡単なものではなかった。
海水に濡れた砂、乾いた砂、浅瀬の泥のような砂、これらも全て感触が違う。海上での海水のみの抵抗感覚ももちろん違う。
( 俺には才能が無いのか、それとももっと経験を積まなければ見えてこないのか…… )
実機を使った演習はまだ二週間程度だが、上達している感じがしない。とにかく夏休み中に猛特訓しないと……と栗尾は焦りを感じていた。
「対戦相手は私立大羽尾学園だ」
大羽尾学園?……栗尾はネットでレッグホバー部がある高校を全て調べてあったが、見覚えが無い。
洋史は、昨日砂丘で見た高校か、と気付いた。砲身をよく見ておけばよかった、と思う。
「今年部が出来たばかりの学校で、調べたところレッグホバー所有台数は三台らしい。丁度いいかと思ってな」
三機と聞いて、部員の緊張感が若干緩んだ。
「フィールド規格は先方と相談中だが、こちらからは一般部門で使われた千メートルでいいのではないかと打診してある」
試合経験の無い部員は皆、感覚が判らない、といった顔つきをしたが、汐里だけは目を細め、口元に右手を当てる仕草をした。このチームで取れる戦略はどれか? その場合どの船体に誰が乗るべきか?……基本戦略は父が組むだろうが、自分なりの考えもまとめておこう、と汐里は思った。
先生の話が終わり、部員はレッグホバーが格納されている造船工学科倉庫へと移動した。船体模型などもしまわれている倉庫だが、スペースがありレッグホバー同好会は間借りしていた。
ブルーシートが外され、部員全員で整備や調整に当たる。
『自分の設計に責任を持て』
鳴滝が言った言葉が洋史の頭を過る。
彼は2番機の砲身の射角を上げ、クレーンのホイストに砲身の先端を引っ掛けると、スパナを取り砲身のボルトに当てた。