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逆さの水平線  作者: 木漏陽
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クラッシャー小鴨

 自動車工学科を選択している外江洋史とのえひろふみは、実技の無い講義だけの授業では窓際の一番後ろの席に座ることが多い。新学期開始直後は出席番号順に座らされていたが、割り振られた班でのディスカッションなどを何度か経て、今では基本的に班員が固まって席に着く……ようになっているのだが、ほとんど喋らない洋史ひろふみは済し崩し的に班から離れて座るようになっていた。先生は特に何も言わないし、洋史自身もその方が気が楽だからだ。


「……ディーゼルスパークプラグなしでねんしょうとかいみふめいプラグなしでディーゼルとかばくはつするいみわかんないし……」


 だが、今隣の席でぶつぶつと呪文の様なものを呟いているこの人は一体なんだろう。

 違う班の人だし、前回の講義では別の席に座っていたはずだが、今日突然、いる。ぽつんと一人離れて座っている洋史の横に、あからさまにくっ付いて、いる。

 恐る恐る、洋史は隣の人を盗み見た。前髪を切り揃えた黒髪のショートボブに、度数の高そうな分厚いレンズの眼鏡……あ、と洋史は思い出した。


( 前の授業で駆動系モデルのデフを壊した…… )


 名前は……思い出せない。実寸大のリア駆動自動車の模型を力任せに動かしてデファレンシャルのギア歯を欠けさせてしまった女子だ。


「……ばくはつりょくとかインジェクターふんしゃだけであっしゅくくうきだけとかなにでてんかとかいみ」


 不意にその女子が呟きを止め、洋史の方を見た。反射的に洋史は目を逸らす。

 どうやらディーゼルエンジンの基本構造にスパークプラグが無い理由について疑問があるようだが……


( 圧縮空気が六百度近くになるって説明あっただろ…… )


 洋史がチラッと横目で彼女を見ると、まだこっちを見ている。慌てて視線を戻し、机を少し離した。解らなければ先生に質問すればいいのに、と内心思う。


 ズズッ


 すると彼女は机を寄せてきた。洋史は彼女の方を見れずに下を向いた。手や顔が震えだす。まだこちらを睨んでいるのだろうか。きっと急に怒り出すに違いない。困っているのに教えてくれない、とかなんとか言い出すのだろう。もうすぐ授業も終わる。このまま、このまま終わってくれ……と洋史は心の中で祈った。


 授業終了のチャイムが鳴った。洋史は慌ててノートや教科書を抱えると席から立ち上がる。すると、シャツが掴まれた。隣の彼女だ。洋史は震えながら顔を逸らした。


「設計図とか見てたし部品とか調べてたしディーゼルにスパークプラグ無いの意味わからない」


 彼女の言葉は早口だった。その語尾だけが強く残り、やはり怒っている、と洋史は怯えた。

 女子はある意味、男子よりも厄介だ。なぜ怒っているのか理由が判らないのだ。身に覚えのない、有りもしない噂を流すのはいつも女子で、その噂に便乗して男子が暴力を振るってくる。小中学生の頃の恐怖が洋史に蘇る……抵抗するしかなかった。自分の身を守るために、いつも必死に抵抗するしかなかった。


( うまく喋れないのがそんなに悪いのか!…… )


「……は、は、はな、はな、はなせ……」

「あ、聴き方が悪かったか、ボクはいつも、すまん。エンジンの図とか見てたし詳しいのかと。どうしてディーゼルはスパークプラグ無くていいの?」

「は、はなせ、はなし、て……え……」


( 何? 無くていいの? って?…… )


 言葉が少しづつ洋史に入ってくる。


「空気だけ吸い込んで圧縮で、そこに軽油噴射? どう点火するのだ?」


 怒っていないのだろうか。でもまだシャツは掴まれている。震えながら洋史は彼女の顔をチラッと見た。黒い瞳が分厚い眼鏡越しにこちらを見ている。しかし、その瞳に攻撃的な色は感じない。


「……は、は、はなして、手……」

「ああ、すまん」


 彼女はやっと洋史のシャツを放した。


「せ、せ、せん、先生に、き、聴けば……」

「いや、あれだ、サンプル模型壊したばかりだしなボク。聞きづらい」

「……じ、じゃ、女子、女子に……」

女子おなごと話すのは苦手だ」


( おなご? 君も女子だろ…… )


「は、は、はん、班の人に……」

「殿方はもっと苦手だ。もしかしてと思っていたがあれか? 外江とのえ殿は喋るのが苦手なのか?」


 洋史はガクガクと頷いて見せた。


「そうだったか、それはすまん。ちょっと、これなんだがな……」


 彼女は洋史の腕を引っ張り椅子に座らせると、開いていた教科書のエンジンシリンダー図を洋史の方へ寄せた。ガソリンエンジンとディーゼルエンジンの違いが図解されている。洋史はそれぞれの圧縮比の違いや燃焼タイミングの制御をノートに書き、切り取って彼女に渡した。


「おお、そういうことか。それでディーゼルの方が燃費が良いのか」


 やっと解放された洋史だったが、一つ気に掛かることがあった。彼女は男子とも女子とも話しにくい、みたいなことを言っていたが……工業高校の自動車工学科に来ること自体、女の子としては変わっていると思うが、自分の様に虐めを受けていたとかそういう過去があったりするのだろうか。

 工業高校という所は今まで経験してきた公立の小学校、中学校と比べると明らかに異質だ。生徒は就職を見据えた明確な目標を持っている人が多く、無駄なことには時間を費やさない。弱い者を虐げるなどという暇な生徒が極端に少ないこと、それは洋史自身が一番良くわかることだ。

 彼女も辛い中学校生活を送ってきた人だったら……もっと彼女と話す努力をしてみようか……それは洋史にとってこれまで考えもしなかった意識だった。


 次の自動車工学科の授業は実際のエンジンに触れる実技だった。但し、実技と言っても一年生はまだ広く浅く自動車の知識の土台を築く課程にあるため、部分的な分解程度の実技だ。


「外江殿、よろしく頼む」

「あ、れ……」


 前回エンジンの仕組みを聴かれた眼鏡の彼女は、洋史と同じ班に変更になっていた。彼女が担当教員に自分で希望を出したらしい。彼女の名は小鴨朋恵おがもともえという。


「よ、よ、よろ、よろ……」

「無理しなくてよかろう。話すのが苦手ならパソコンのツールとかに入力すればいい。筆談とか」


 洋史は新鮮な驚きを覚えた。女子にこんなことを言われたのは生まれて初めてだ。でも、だからこそ言いたくなった。


「お、お、お、小鴨おがも、さん、よ、よろ、よろしく……」


 相手の名前を呼ぶことの重要性。散々教わってきたコミュニケーションの第一歩。今も尚、理由のはっきりしない恐怖感が洋史の意識にまとわりつく。自分から話そうとすると、周りの人々が全て敵に見えてくる。突然手の平を返したように自分を攻撃してきそうな不安感、圧迫感。それを跳ね除けようと、洋史は今も必死に戦っていた。

 誰にも判らない、理解されない、他人からは見ることの出来ない闇。この闇は何だろう。どうして自分だけこんな病気を抱えているのか……

 普通に話せる人、母や青谷あおや先生は何を持っているのだろう。それを、栗尾くりお先輩や小鴨さんも持っているのだろうか。怖い。今でも恐い。いつ裏切られるか……そんな気持ちが洋史の心を浮き沈みしていた。


 実技では実際にエンジンを稼働させ、別の分解用の個体で幾つかのパーツをバラす。そしてそれを組み直すことを行った。レシプロエンジンを知り尽くしている洋史の手際は良く、クラスメートは感嘆の声を漏らす。

 小鴨がパソコンで筆談を始めた。


『ディーゼルの軽油噴射量 出力に関係するんだな?』

『yes』


 彼女はニッと笑い、両手で重そうに眼鏡を掛け直す仕草をした。

 教員と洋史が他の生徒の分解と組み直しを手伝っている時、デモ稼働用のディーゼルエンジンのところで小鴨が何やら弄っていた。タコメーターとトルクメーターをチラチラと見ているが、他の生徒は誰も気付いていない。そして、不意にエンジンが回り始めたかと思うと……


 ドオンッ!……バキイィン!


 ディーゼルエンジンから凄い音がした。驚いて生徒達や教員が見ると、エンジンから黒煙が立ち登り、その黒煙の向こうに誰よりも驚いた顔の小鴨がいた。彼女は床に尻もちを付いている。

 教員が血相を変えてそのエンジンに走り寄った。


「お前、何を……怪我は無いか!」


 茫然とした表情で教員に頷いて見せる小鴨。

 エンジンから割れたバルブが吹き飛び、カムシャフトは折れていた。

 ゆっくりと近寄ってきた洋史は、状況を理解して呆れてしまった。恐らく軽油のインジェクター噴射量を強引に増やしたのだろう。バランス調整もせずにそんなことをすれば当たり前の結果だ。


「お前は備品をいくつ壊せば気がすむんだ!」


 小鴨に怪我が無いと知った教員は、さすがに彼女を怒鳴りつけた。小鴨はその場に正座すると、泣きそうな顔で頭を下げた。


「すま……みません」


 彼女は顛末書と危険行為への反省文を書かされ、クラスメートの間ではある異名が付けられた。


 放課後、洋史は青谷先生に呼ばれ職員室にいた。


「あははは! クラッシャー小鴨! そいつはいいなぁ! あっははははは!」


 青谷先生は他人事のように爆笑していたが、洋史が彼女は相当落ち込んでいると話すと、何やらしばらく考え込み、もう一度その生徒の名前を教えてくれ、と言ってメモを取った。


「ふん、まぁそれはそれとして……洋史を呼んだのはな、実はマコッチが競技レッグホバーをやってみたいって言ってるんだ」


 洋史は最初、栗尾が浜坂ドルフィンズに入りたいと言っている話なのかと思っていた。しかしよくよく話を聴いてみると、どうやらこの浜坂西工業高校に競技レッグホバー同好会を発足したいという話らしかった。


「マコッチのホバーを脚付に改修する。それとドルフィンズで使っていた俺の機体をこの学校に下ろす。元々あれは俺の私物だからな。まず二機は確保」


 レッグホバーの整備を手伝って欲しい、という話だろうか。まさか部員集めなど洋史には出来ない。


「それでな、高校生大会にエントリーする場合、一機でも参加出来るんだけどな、勝ち負けを考えるなら最低三機は欲しい。そこで、予算は厳しいんだけど、一機新たに制作するのを手伝ってくれないか」

「え……つ、造る?……」

「そうだ。ボディに関しては俺が設計出来る。一番手を貸して欲しい所は砲撃機構の部分だ。既存の機構は数種類の設計図が手元にあるんだが、規格が無い分自由度も高いのが砲撃機構でな、いかに命中率を上げるか、アイディアが欲しい」


 興味はあるのだが、工業高校の生徒程度の知識で対応出来るものだろうか、と洋史には不安だけが過った。ただでさえ走行間射撃の命中率は絶望的に低いレッグホバーだ。アイディアと言ってもどういうアプローチから入ればいいのかさえ見当が付かない。


「十月に開催される高校生大会にエントリーしたい。あと三ヶ月少々、ちょっと頑張ってみないか」


 まだ六月だが、七月、八月、九月と本格的な夏場に入ると浜坂砂丘は常軌を逸した暑さになる。高校生大会が十月なのもそのためだろう。砲撃機構の調整だけでなく機体全体のバランス調整……それを行える期間はどのくらいなのだろうか。


「あ、あの、ぶ、部員、れ、練習、とか……」

「ああ、部員は目処を付けてある。心配するな」


 この前観戦した一般部門の大会は、噂では最もレベルの低いものだと聞いたことがある。レッグホバーの操縦自体そうそう簡単なものとも思えない。部員が集まったとして、試合に通用するレベルに熟練させるにはそれ相当な期間を要すると思うのだが……と洋史は他人事ながら心配になってしまう。そんなに焦らなくても、一年掛かりで来期を見据えて準備していけばいいのではないか。


 洋史にはどこか腑に落ちないところがあった。参加したいだけ、結果は求めない、というのであれば栗尾先輩の単機参戦でも良さそうなものを……


「ま、そういうことだ。考えておいてくれ」


洋史はとりあえず頷くと、職員室を後にした。

この時まだ青谷は大事なことを洋史に話していなかった。栗尾が高校生大会に参加したいと言い出した動機、そして……。

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