マコッチ
「気分でも悪いのか?」
洋史の右隣に座っている少年が、訝しげな表情で言った。だが洋史にその言葉の意味は入ってこない。気分だとか体調を伺われている、と理解する前に、敵意を向けられたという意識だけが膨らんで行く。
洋史にとって、他人とは反発してくる存在だった。ある時は冷ややかに自分を突き離し、ある時は攻撃的に自分を邪魔してくる。言葉で謝る、という手段だけが状況を緩和し、自分を解放してくれるのだが……頭に思い浮かんでいる謝罪の言葉が口から出てくれないのだった。
客席からひとしきり大きい歓声が上がった。巨大モニターを見ると得点を示す『浜坂ドルフィンズ 1』という表示が現れ、敵陣の的を射止めたレッグホバーが得点の直後、後部に敵弾の直撃を喰らった瞬間だった。『浜坂ドルフィンズ2番機 後部被弾』という表示が次いで現れた。
「見たら返して」
そう言うと隣の少年は洋史の膝の上にパンフレットをパサっと起き、身を乗り出して双眼鏡を覗いた。
モニターの中に次々と映し出されるレッグホバーは、どれも船体を激しく波打たせ、その周囲には小さな水柱や砂が舞っている。砲撃戦は激しさを増し、くるくるとスピンしているレッグホバーもある。
洋史は震える手でパンフレットを返そうとしたが、隣の少年は双眼鏡を覗いており気が付かない。
相手の言葉がまともに耳に入ってこない精神状態にあった洋史は、もしかして見ても良いってことなのか、とやっと気付いた。
見たら怒り出さないだろうか……とも思ったが、目の前で展開されていくレッグホバーの激しい攻防に意識が、好奇心が徐々に奪われていく。
浜坂ドルフィンズの得点、後部に被弾した2番機……青谷先生の搭乗機が気になり、パンフレットを開いた。
先生の搭乗機は被弾した2番機だった。左側を陣地としているチームが浜坂ドルフィンズで、開幕早々海側へ進行したレッグホバーがその2番機だった。
操縦手が青谷耕太郎、砲撃手が青谷汐里と紹介されている。青谷耕太郎が先生の名前だ。
遠目では判らなかったが、モニターに大写しにされた浜坂ドルフィンズ2番機を見ると、後ろにいる砲手がフルフェイスのヘルメットから長髪をはみ出させている。
( 女性? 奥さんと乗ってるのかな…… )
浜坂ドルフィンズ2番機は後部被弾した後も数回の旋回をしながら果敢に敵陣の的へ砲撃を繰り返していた。敵の一台は外側から距離を詰めつつ、青谷先生のレッグホバーに砲撃を浴びせる。
バシュウゥ……ビシャァッ!
側面から弾を受けた青谷先生のレッグホバーが、弾かれて船体ごとクルクルとスピンした。スピンしながら右側が大きく持ち上がり転覆しそうになる。
( 危ない! )
その時、レッグホバーが後部の“脚”を二本同時に伸ばしたのが洋史の目にも見えた。位置的には浅瀬だと思うが、水上だ。脚によって抵抗を受けた船体は転覆せずに姿勢を取り戻したが、後ろの砲手が海へ投げ出された。
こういう場合どうなるのか……モニターや審判の動きを注視していたが、これといった特別な動きは無く、海へ落ちた砲手は再びレッグホバーに乗り込んだ。
そのスポーツとしての激しさに洋史は改めて驚く。海へ投げ出されて、すぐさま船体に戻る……どれだけハードなことか。洋史は、小学生の時に学校のプールでクラスメイトに水の中へ投げ込まれた時のことを思い出していた。一瞬上下が判らなくなり、水面に身体が叩きつけられる衝撃が来て、息が出来なくなり鼻から水が入る……水面はどこなのか、どこで呼吸が出来るのかもがく恐怖感。
自分にはとてもじゃないが出来ないスポーツだな、と洋史は思った。
レッグホバーの挙動は、水上よりも砂丘で独特な動きを見せることが多かった。洋史もエアクッション艇を知り尽くしているわけではないが、特に起伏の激しい砂丘部分で彼の想像を超える動きを見せる。
空気圧力で浮いているレッグホバーは地面にグリップ力が働かないため、勾配のきつい斜面は転覆する可能性があるのだが、上手い操縦手はまるで壁に張り付くように船体を操る。
( 脚、どう使ってるんだろう…… )
どう砂に接触させているのか。どの位の時間、どういう角度で、どの脚を……砂丘でのレッグホバーの挙動に目を奪われていると、いつの間にか第一試合終了のサイレンが鳴り響いていた。試合は5対3で浜坂ドルフィンズが負けたようだ。
不意に、洋史の手からパンフレットがスッと引き抜かれた。
「それじゃあ」
右隣に座っていた少年はそう言うと、席を立ってどこかへ行ってしまった。
チラシを見ると、次の浜坂ドルフィンズの試合は七試合目、予定では明後日の火曜日となっている。今は三時十五分。母には五時に帰ると伝えてある。時間の許す限り試合を観ていこう、と洋史は思った。
第二試合は四時四十分に終了したのだが、洋史はうっかりして、それを最後まで観てしまった。到底五時までには帰れない時刻であったため、青谷先生へお礼の挨拶もしないまま慌てて帰宅した。
翌日、月曜。洋史は昼休みに職員室を訪れた。青谷先生に改めて入場券のお礼を言うためだ。
職員室に入ると青谷先生のところに男子生徒が一人いた。洋史は出入口のところでその生徒の用が済むまで待っているつもりだったが、気付いた青谷先生が手招きをしている。仕方なく洋史も先生のデスクへ行った。
「あ、あ、あ、ありがとう、ご、ございました、チケット……」
どもりながらも挨拶を済ませると、青谷先生は満足そうに笑いながら言った。
「ははは、どうだ洋史、迫力あったろう!」
青谷先生は熱血漢タイプだ。『為せば成る』が口癖で、豪快に笑い喋る声も大きい人で、生徒の面倒見はいいが少しお節介なところもある。洋史の自閉的なところをよく理解してくれている、洋史にとっては数少ない“会話の出来る人”だった。
青谷先生の言葉に洋史が頷いて見せると、先生は先にいた男子生徒の腕をガッと掴んだ。
「そうだ、紹介するよ。こいつは二年の栗尾誠。ホバークラフトのレースをやっている」
先生に腕を掴まれたまま、彼は洋史に顎で会釈した。その顔を見て洋史は驚く。昨日、隣の観客席にいた少年だったからだ。だが、栗尾誠と紹介された彼はそれほど驚いた様子も無い。青谷先生が嬉しそうに話を続けた。
「さっきな、洋史のこと話してたんだよ、マコッチと。ホバーのエンジンに詳しいからいろいろと聴くといいぞ、てな」
( マコッチ? )
今も昨日と同様に不機嫌そうな顔をしている。仏頂面に似合わない呼び名だな、と洋史は思った。
「エンジンいじれるのか」
栗尾がボソッと言った。洋史は視線を背けたまま頷いて見せる。
「じゃあ、今度見てくれよ、レース用ホバーのエンジン」
その言葉に、洋史は、え? と内心思った。エンジンくらい先生に見てもらえばいいのに、なぜわざわざ自分のような後輩に頼むのか。
「な、な……」
なんで僕が、と言おうとするが、上手く言葉が出ない。青谷先生は他人事のように笑って見ている。
( 断らないと、ここでちゃんと断らないと…… )
洋史は単純に嫌だった。こんな怖そうな先輩のエンジンチューンなど手伝いたくもない。きっといきなり怒り出して自分を批難してくるだけだ。
「頼んだぞ」
そう言うと栗尾は職員室を出て行った。
洋史は、やってしまった、と思った。こういう事は後になればなるほど厄介になり、引き受けたのはそっちだろう、と責め立てられるのだ。断ろうとしたのに、いざとなると声が出なくて……
「パンフレットを見せてもらったんだってな」
青谷先生が何か言ったが、洋史の耳には真っ直ぐに入ってこない。そもそも青谷先生のせいではないのか? 見ず知らずの先輩に僕の話なんかして……と、洋史の被害者意識は内側に籠り始めている。
パンッ! と青谷先生が唐突に手を叩いた。
「洋史、パンフレット、礼は言ったのか?」
「え……あ、ああ、い、いえ……」
青谷先生はペン立てから油性ペンを取ると、洋史の左手を掴んで引き寄せた。そして手の平に文字を書き込む。
パンフレットの礼 マコッチ
「よし、これで忘れないだろ。些細なことでもな、大事なことだぞ」
パンフレットは見せてくれただけ、買ってもらったりしたわけではない。大袈裟だな、と最初洋史は思った。
だが、この高校に入学してから二ヶ月少々、今のように青谷先生から手に何かを書き込まれたことが何回かあることを思い出した。
『必ず、外江君の方から言うべき一言だぞ』
他人は自分を攻撃するもの。しかし青谷先生の言う通りに、手に書かれた言葉を実行した時、恐れていた事態は起きなかった。きっとまた相手は怒り、攻撃的になって自分を苦しめる……そう恐れていたことが、起きなかったのだった。
( お礼は言おう、次に会った時 )
洋史は小学校高学年から中学生にかけて、コミュニケーションの重要性を心療内科で教わってきている。その中でも大事とされていたのは『相手がどう思うか、どう受け取るか』なのだという。理屈では解っているつもりでも、洋史の想像は『他人は攻撃的』という強いイメージに歪んでしまうのだった。
「それとな、洋史、せっかくホバーのエンジンに触れるなら、実機にも乗ってみないか?」
その青谷先生の言葉は、少なからず洋史を高揚させた。もちろん乗ってみたい。エアクッション艇は免許証も必要ないらしい。もっとも水上で走行する場合は船舶免許五級が必要らしいが、それは特定の場所を走行する場合だ。
「の、のの、乗る……」
「そう言うと思ったよ。競技レッグホバー大会開催中は競技フィールドに併設して練習用のフィールドがあるんだ。大会にエントリーしているチームは誰でも利用出来る。今度の土曜日あたり、行くか」
洋史は頷こうとしたが、まてよ、と思った。
ノーマルのエアクッション艇なら問題無いが、レッグホバーを操縦する、と言うことだろうか。昨日の激しい競技シーンが思い浮かぶ。
「れ、れ、レッグホバー……で、です、ですか……」
「うん。俺のマシンを貸してやるぞ」
「あ、あ、脚、とか、扱えない……」
「ああ、大丈夫だよ。走行するだけなら脚はいらない。ただ、砂丘に深入りしないよう注意は必要だな。起伏で簡単に船体がひっくり返るからな」
洋史は先生とレッグホバーを試走させてもらう約束をすると、職員室を出て行った。
青谷は思った。乗り物の話をしている時の洋史は、結構ちらちらと相手の顔を見ているのだな、と。
その翌日、栗尾が自分のホバークラフトのエンジン規格図を持って洋史の教室に来た。人とまともに話しているところを見たことがないクラスメイト達は、上級生が洋史を訪ねて来たことに驚いていた。
「金も無いし、古いエンジンだからクラブの整備士さんに任せっきりだった。どう弄ればいいのか分かる範囲で教えてくれ」
栗尾は一方的に話して規格図を洋史に渡すと、土曜に実機を見せると言って教室を出て行こうとした。そこを、どもりながら洋史が呼び止める。
「あ、あ、あの、パンフ、パンフレット……あ、あり、ありがとう……」
栗尾の不機嫌そうな顔が若干緩む。
「なんだ、そういうの、言えるのか」
そう言って栗尾は教室を出て行った。
彼は自分を攻撃しない人なのだろうか、という微かな期待のようなものが洋史の気持ちを過った。
でもまだ油断は出来ない。あの不機嫌そうな目は虐める側の目だ……洋史のような子供時代を送っている生徒には、染み付いてしまった恐怖感は自分の意思では拭えない。でも、栗尾誠には、どこか他の生徒とは違う匂いのようなものを、洋史は感じた。
土曜日。洋史は朝から栗尾の家を訪ねた。木造の平屋だが敷地は広く、個人所有の農地もかなりの広さらしい。
とりあえずエンジンのばらし方とパーツ毎の手入れの仕方を説明した洋史は、出力調整に必要になってくる新規パーツの候補をピックアップして栗尾にそのリストを渡した。
高校生にとってエンジンパーツは高い。栗尾は苦い表情をしたが、今はどうにもならない。二人は昼前に切り上げ、浜坂砂丘に出掛けた。
競技フィールドでは一般部門のリーグ戦が今日も進められている。本日試合の無い浜坂ドルフィンズは青谷先生のレッグホバー一台のみ、練習用フィールドに出されていた。
まずは栗尾が青谷先生のレッグホバーを試走することになり、ノーマルのエアクッション艇との違いになる“脚”関係の操縦について説明を受ける。レッグホバーはノーマルと比べて操縦桿が特殊で、握り込む形式の“脚”の伸縮スイッチが左右二個づつ付いている。要するにそれに触らなければ脚は勝手に動かないということだ。もちろん、脚と操舵のラダーは連動していないので問題無い。
スピードが出ない割に左右にやたら暴れるな、というのが栗尾の感想だった。脚部機構や砲弾機構で重量はノーマルのエアクッション艇よりそれなりに重い。更に気になるのは砲身だ。青谷先生のレッグホバーは操縦席を挟んで左右に一門づつ、計二門の砲身が付けられているが、その射角によって船体自体の左右バランスが変わってくるのではないかと思われる。
「まぁ子供でも乗れる乗り物だ、気楽にやってみるといい」
青谷先生の一言は気休めかも知れないが、少なからず不安を薄めてくれる。
栗尾の次に洋史の番になり、イグニッションでセル始動。
エアクッション艇は騒音が凄い。船体に乗って操縦桿を握っていると、その振動を体感するからか余計に騒音が激しいような錯覚を覚える。
ゆっくりと推進用の後部プロペラを回転させていくと、更に機械音が大きくなった。
( 凄い、ホバークラフトに乗っているっていう実感が凄い…… )
まだこれで十五ノット、原チャリより遅いのか……と、洋史は徐々にスピードを上げていった。
振動は大きいが揺れに慣れてくると、そう簡単には転覆しない乗り物だと分かってくる。
ただし、それは起伏の無い平坦な場所だからなのだが……
二十ノットを超えた。時速に直すと四十キロ弱か。まだいける。なるほど、やってみると簡単だ。免許証が要らない理由も頷ける。
洋史は更に速度を上げた。海岸線すれすれの平坦な砂浜を洋史のレッグホバーが滑って行く。
( 三十ノットが競技の規制速度…… )
時速約五十五キロに向けて更に加速した直後、洋史は触ってはいけないスイッチを握り込んでしまった。
「あ」
「お」
青谷先生と栗尾が同時に気の抜けたような声を出した。
洋史の駆るレッグホバーは、前部の“脚”を左右伸ばしてしまい、前につんのめる様に後部がグワッと持ち上がった。
「うぁ、あぅわあああっ!!」
間の抜けた叫び声とともに、斜め前方へ投げ出される洋史。
ヒヤッ……と瞬時に全身が冷や汗をかく。だが、背筋を駆け抜けたのは不思議と恐怖感では無かった。
プールに投げ込まれた時の記憶とはまるで違う感覚……なぜだろう……そうか、今、誰かに投げ込まれているんじゃない……自分で操縦していたレッグホバーから、自分で投げ出されたんだ……
スローモーションで洋史の視界を流れていく水平線は、逆さまだった。