競技レッグホバー
エアクッション艇……ホバークラフトという商標のある実在の乗り物。空気浮揚を利用して地面から15cmほど浮いた状態で走行する。陸上でも水上でも走行可能。
レッグホバー……エアクッション艇の構造を利用した架空の乗り物。エアクッション艇に伸縮する四つの脚と、弾を発射する砲撃機構をくっ付けた構造。
舞台は現代の鳥取県。鳥取砂丘のような特定の広さを持つ特定の自然環境で行われる競技を中心に物語は進みます。
鳥取県には独特な方言がありますが、登場人物の台詞は意図的に標準語に寄せてあります。ご了承頂きたくお願い致します。
自閉スペクトラム症を抱える少年の、成長物語です。
母が台所で食器を洗っている音がする。水道水が跳ねる音と、皿などを重ねる音。買ってもらったばかりの携帯電話を見ると、時刻は午後一時を少し回っていた。
日曜日の今日は居間に父もいるのだが、話しかけづらい……と洋史は思った。普段から父とは会話も少ない間柄で、高校に入学してからは更に話さなくなっている。思えばそれは、中学二年の時の虐めの一件から悪化した親子関係のように洋史は記憶していた。
洋史は幼児期にADHDと診断されていた。いわゆる発達障害の一つとされる自閉スペクトラム症の傾向が強く、人とうまく話すことが出来ないのだった。
中学二年の時の虐めとは、虐められていた被害者は洋史である。だが、クラスメイトに怪我を負わせてしまったのは洋史の方で、虐め問題は暴行問題にすり変わり、加害者呼ばわりをされたのは洋史だった。
「どんな理由があろうと暴力を振るってはいけない!」
父は教員の前で息子の洋史を怒鳴りつけ、怪我をしたクラスメイトの家族には土下座までして謝っていた。それまで洋史が学校でどんな酷い虐めを受け続けていたか、詳しく聴きもせずに。
そんな父の行動自体を洋史は根に持っているわけではないのだが、やはり父には話し掛けにくい。ちょっと一人で外出してきたい、と一言で済むことなのだが……やはり母に言って出よう、と洋史は決めた。二時には“あれ”が始まってしまう。
洋史は台所に行くと、斜め下に顔を向けたまま目を泳がせつつ、前髪をいじる仕草をしながら母に言った。
「で、で、でか、出掛けて、く、くる……」
母は、きゅっと水道を止めるとエプロンで手を拭きつつ、洋史の方を向いてにこっと笑った。
「何時に帰る?」
相変わらず目も合わせられないいつもの洋史だったが、母は息子のある癖を見て思った。前髪を触っている時は、何か楽しいことがある時のサインだったかな、と。
「ご、ご、ごじ、五時には……」
「そう、わかった。いってらっしゃい」
洋史は居間に意識を向ける。父が何か言うかも知れないが、ここは母に任せておこうと思った。そろりそろりと玄関に近付き、樹脂製のビーチサンダルを足に引っ掛けると、静かにドアを開けて外に出た。
玄関脇の『外江』と表札が付いている郵便受けをちらっと覗く。夕刊はまだ配達されていないようだ。家の出入りの時に郵便受けを確認することは母から言われている仕事で、洋史はそれを律儀に守っている。そして、ズボンのポケットに押し込んでいたチラシを取り出し、改めて見る。
『全日本エアクッション艇協会主催/競技レッグホバー大会 一般部門』
チラシの一番上にはそう印刷されており、開催場所となる会場の地図が真ん中辺りにある。道順をもう一度確認すると、洋史はチラシをポケットに押し込み、自転車に乗った。三、四十分で着くはずだ、とあたりを付け、坂の多い住宅街の曲がりくねった道へと自転車を走らせる。
六月の穏やかな風が潮風の匂いを乗せ、洋史の頬を撫でていった。
国道に出ると既に渋滞していた。日曜日ということもあり、特定の地形条件がないと競技会場が設定出来ない競技であるため、他県からも観戦客が押しかけているのだろう。
競技レッグホバー……エアクッション艇、いわゆるホバークラフトのレースは一般に知られているが、それを更に発展させた競技としてここ数年のうちに知れ渡るようになった比較的新しい競技の呼称である。三年前から、一部の県だけであるが、学生部門の大会も開催されるようになり、この鳥取県には“レッグホバー部”という部活動を導入している高校もある。
外江洋史の通う鳥取県立浜坂西工業高校にはレッグホバー部は無いのだが、体育教師の青谷先生から一般部門に参加しているとの話を聞き、洋史は是非とも観てみたいと思った。財布の中にしまっている二千五百円もする入場券も、青谷先生がくれたものだった。
洋史は、バイクや自動車といった動力機関を持つ乗り物に小学生の頃から興味があり、エアクッション艇にも同様に興味を持っていた。そして中学生の時にインターネットでその存在を知ったのが“脚付空気浮揚艇”、俗称“レッグホバー”だった。そう、ホバークラフトに脚を付けた乗り物である。
元々の開発経緯は……方向転換の機敏さ向上と停止距離を短縮することをコンセプトにしており、走行時に通常はスカート内に収容されている四本の“脚”が個別に伸縮し地面を突き刺す、という機構を添加したもの。もちろん陸上走行で活用する“脚”になるわけだが、タイヤを持つ自動車のような地面をグリップする乗り物に比べると狙いの能力は落ちる上、地面の状態を選んでしまう……砂や柔らかい土でしか機能せず、硬い地面では跳ね返り本体を転覆させてしまう……というテスト結果になり、初めは正式採用されなかった。
洋史は『浜坂砂丘』の標識を見て、自転車を細い路地へ向けた。
早る気持ちが抑えられなくなり、心臓がドキドキしてくる。
ネット動画やテレビのニュース番組では見たことがあるが、直接見るのは初めてである。自然の風をリアルタイムで体感しながら、同じ場所で、生で見る“レッグホバー”は、どんな挙動を見せてくれるのだろうか。
不採用となった脚付空気浮揚艇に運用方法を見出したのは、日本人だった。
全日本エアクッション艇協会のホバークラフトレースを普及させる運動から始まり、脚付を用いたスピンターン競技など速さを競うレース形式から変化させ、慣性で暴れるホバークラフトから射的を行う競技なども行われるようになった。そして、今日開催される“競技レッグホバー”の形に発展したのである。
競技に使用されるレッグホバーのエンジン出力は50ps以下が適正とされ競技規格となっており、乗員二人の複座型と定められているが、艇体寸法は規格が無く様々で、大抵が全長3から4メートル、全幅2メートル前後、全高1.5メートル前後のものが多い。
会場に到着した洋史は時刻を見た。あと五分で第一試合が始まってしまう。駐輪場に自転車を置くと、慌てて入場門へと走った。競技が行われるフィールドはここ、鳥取砂丘の中にある浜坂砂丘にあり、海岸線を跨ぐ千メートル四方の四角い範囲となる。フィールドの半分は砂丘、半分は海、という地形構造である。
仮設にしては立派なすり鉢状の階段席が砂丘部分に半円を描く形で設置されており、大会が終わると撤去され砂丘に戻されることを考えると、かなりの予算が注ぎ込まれている競技なのだろうということが想像出来る。巨大な映像モニターも百メートルくらいの間隔で設置されている。千メートル四方からなる競技フィールドをフォローするとなれば当然と言えば当然か、と洋史は思った。
洋史の席は前から数えると十一列目になる。少しフィールドから遠いか、ということと、一番見たいと思っていた“脚部の伸縮と伴うレッグホバーの挙動”について、角度的に、スカート部の内側で伸び縮みする脚が見えるのかどうか、が気になった。真横から地面に這いつくばって観れれば……とも思ったりしていたが、それは無茶な話だ、と会場を見て気付く。
競技開始まであと一分くらいある。フィールドには既にレッグホバーが待機していた。一チーム各三台、敵味方で合計六台が第一試合のチーム構成のようだ。ホバーの台数は五台以下との規定があるらしく、一台から参加は可能だが、競技の性質上おそらく一台では瞬殺されるだろう。
ルールは大方覚えてきたが、チラシの下に小さく書かれている簡略説明みたいなものを洋史は改めて読み返した。
【参加人数】選手14名以下、監督者含むピット人員6名以下、合計20名以下が競技参加となります。( 一般部門 )
【参加台数】1チーム1台〜5台のレッグホバーを用いて、2チームがそれぞれ敵味方に分かれ競技を行います。( 一般部門 )
【陣地】1000m四方で仕切られたフィールドの中で行われ、エンドラインから500mの中央にはそれぞれの陣地を区切るセンターラインがあります。自チーム陣地範囲であればサイドラインの外にどこでも燃料補給ピットを設置できます。前半と後半で陣地は入れ替わります。
【得点】エンドラインには地面から高さ3mの位置に着弾判定センサーが付いている直径60cmの的があり、この的に水球弾を命中させると1点ポイントが入ります。( 的はエンドラインの中央、海岸線に設置 )
【撃破】各レッグホバーには左右両側面、前面、後面、計4箇所に着弾判定センサーが付いている直径30cmの的が取り付けられており、この的が4つ全て水球弾によって被弾判定を受けると、そのレッグホバーは撃破された扱いとなり、その場で浮揚機構が停止して着陸、または着水し、行動不能となります。
【制限時間】競技の制限時間は前半30分、後半30分、1試合60分となります。尚、前半と後半の間に10分間のインターバルが入ります。( 一般部門 )
【勝敗】勝敗は試合終了時『ポイントを多く獲得したチーム』が勝ちとなります。同点の場合は『行動可能レッグホバーが多く残存したチーム』が勝ちとなります。( 今回は大将レッグホバー撃破方式は行いません )
【フィールドアウト】競技フィールドのラインから無断でレッグホバーが完全に外に出てしまった場合はフィールドアウトとなり、その場で失格となります。( 再びフィールドに戻り参戦することはできません )
【ピットイン】燃料補給、水球弾補充、あるいはメンテナンス等、必ず審判へ宣言してからピットインすることとし、宣言が無いレッグホバーはフィールドアウト扱いになり、その場で失格となります。
【ピットイン台数制限】競技中の制限時間内であれば燃料補給は何度でも行えます。伴い、何台のレッグホバーが同時にピットインしても構いません。
【中断・中止】選手は規定に準じた仕様の安全服装、安全装備を徹底しておりますが、万が一不慮の事故が発生した場合は競技を中断、または中止する場合があります。ご了承ください。
ネットで調べたルールはこの十倍くらいの文章量だった気がするな、と洋史は思った。選手の装備規定やレッグホバー自体のチューニング規定も細かく設定されているようだ。一つ確かなことは、この競技の本質は砲撃戦であるということ。“水球弾”と呼ばれている特殊な弾を使い、それを撃ち合って勝敗を決める競技なのである。着弾するとすぐに割れるカプセルのようなものに水が入っている丸い弾だ、と青谷先生は言っていた。射程距離は約三百メートルだとネットにはあったが、規定は弾の規格だけにあるらしく、それを撃ち出す発砲の機構には明確な規格規定が無いらしいのだ。フィールドに目をやると確かにぱっと見の砲身の長さはチームによって違うようだが……
と、その時、第一試合開始のサイレンが会場に鳴り響いた。
双方とも的が設置されているエンドライン中央から各三台づつのレッグホバーを発進させた。
客席のある砂丘から向かって左側のチームは左右の二台が外に向かって開くように進んでいる。向かって右側のチームは三台が固まって真っ直ぐ敵陣へ向かっていた。
バシュウゥ……ビシャアッ!
砲撃が始まった。客席から、おお! という歓声が上がる。
先制攻撃は向かって左側のチームで、左右から、固まって走行する敵の三台に砲撃を浴びせている。だが、直撃はまだ無い。それはそうだろう、と洋史は見ていて思った。エアクッション艇は簡単には停まれないのだ。動きながらの砲撃がそうそう当たるわけがない。右側のチームが、中央を進んでくる左側チームの一台に向けて砲撃を開始した。
左側チームの砂丘を進んでいた一台が不自然な回転をした直後、二発目を発砲。どうやら左前部分の“脚”を使ったようだ。客席から見ると奥になる水上を進んでいる一台は、そのまま敵陣の“的”に向かっている。
( これ、混戦になった時、どっちのチームなのか見分けるの、難しいな…… )
そう言えば入場門のところにパンフレットなどの販売があったが、何も入手せずに来てしまったことを洋史は思い出した。チラシの裏を見るとリーグ戦の表があり、参加チームの略称が書かれている。青谷先生が所属する社会人チーム、浜坂ドルフィンズの名前を第一試合のところに見つけると、洋史はフィールドに目を戻した。レッグホバーの側面に付けられている弾避けのような部分に船体番号とチーム名が描かれていることに気付く。
( 先生、何番のホバーだろう…… )
聴いておけば良かったな……などと考えていると、右隣の客席にいる人がパンフレットを開いているのが目に入った。横目でこっそり覗くと、参加選手や使用レッグホバーの情報が細かく載っているようだ。
「何見てる」
パンフレットを見ていた人が、突然言った。洋史は思わずその人の顔見る。自分と同じ歳くらいか、少し歳上か、高校生くらいに見える。男子だ。目付きが鋭く、不機嫌そうな表情をしている。
洋史は反射的に逃げるように、左の方へ顔を背けた。自然と手が震え出し、顎がガクガクと揺れ出す。謝ろうにも声が出ない。
( すみません、ちょっと目に入って気になっただけで…… )
頭には話すべき言葉が浮かぶ。だが、出来ない。こういう時、大抵相手は怒り出す。
洋史はどうすることも出来ず、ただガタガタと震えていた。