雲居春人と幽霊少女 2
その後の授業は、全く耳に入らなかった。俺は新しく出た数学の公式を覚える事なく窓から見える木々の緑を眺め、休み時間は仲の良いクラスメイトと玉戦争(無差別に睾丸を握り潰し最後に立っていた者が勝者の死のゲーム)をして遊び、昼休みの教師の呼び出しをブッチして要に怒られた。
そんな感じで、とうとう放課後がやってきたのだ。
「行くぞ要! グズグズするな!」
「分かってる!」
俺たちは放課のチャイムと同時に鞄を引っ掴むと、全速力で階段を駆け上がった。目指すは教室棟の五階にある部室。『華履羅部』と記載されているプレートの教室に着くと、恐る恐るドアを開いた。
「よし、まだ鍵は閉まってるな」
「早く開けろ春人。叶さんが来る前にお茶の準備をしなければ」
忙しなく辺りを見回す要に苦笑しつつ、俺は三重になっている鍵を外し、部室のドアを開けた。
電気のスイッチを入れる。
果たしてそこには、学校には不釣り合いな不思議空間が広がっていた。それを一言でいうのなら、まるで総理大臣が使うような豪華な執務室。悪く言えば悪役共の作戦会議室だった。周囲の壁を覆い隠すように書棚が配置され、そこには何に使うのかも解らない本がズラリと並んでいる。そして何よりも目を引くのが、壁に埋め込まれている巨大なモニターだ。それの電源を入れると、校庭、教室、講義室、体育館、プール、果ては職員室まで、学校中に配置された監視カメラとリンクした映像を映しだした。
「先週上物の茶葉が届いたんだ。これを出せば、叶さんの機嫌もきっと……」
ブツブツと呟きながら上機嫌で戸棚を開け、王室御用達のカップを取り出し、電気ケトルでお湯を沸かし始めた要。俺はそれを見ながら慣れ親しんだ自分の席(六十万相当)に腰を下ろした。二十畳程のこの部室と家具、それにモニターと監視カメラの配置から全て、夕霧叶が自分の私財を投入して学園側に作らせた、言わば秘密基地なのだ。そんな事が平然と罷り通ってしまうのが夕霧の権力であり、あの人が持つ力。その分この教室の存在を知る者は少なく、高価な物も多いためセキュリティ対策も万全に敷かれている。
そんな特別なこの場所だが、現在は非合法学内クラブ、『華履羅部』の活動拠点兼溜まり場となっている。
『華履羅部』
読んで字のごとく、ゲリラ的な活動をする部活だ。その活動は多岐に渡り――。
「むっ、来たようだぞ春人!」
要の声に顔を上げ、モニターに目をやる。教室棟二階廊下に配置された三番カメラが映し出す映像に、あの人の後ろ姿が写っていた。最新式のそのカラー映像は、その人物が肩を怒らせている事まで見て取れた。
「うわ、これはヤバい……!」
「春人、お茶の準備がまだだ! 少しだけでいい、時間を稼いでくれ!」
「無茶言うな! 俺に死ねって言うのか?」
「大げさだ、殺される訳ないだろう。とにかく頼んだぞ、春人!」
そう言うなりこちらには目もくれず、予てより“とっておき”だと宣言されていた虎の子のケーキを切り分ける要。屁理屈を並べ立てている時間も無いようだった。くそっ、やるしかないのか!
カツーン、カツーン、と、高らかな靴音が廊下に響いた。気がした。そんな筈はない。あの人は上履きを履いている筈だ。足音はドンドンと近づいていくる。今度はダースベーダーのテーマソングが聞こえた気がした。
うん、それは正しい。あの人と悪役は良く似合うから。
部室のドアが開く。
俺はその場にひれ伏した。
「ようこそ居らっしゃいましたベーダ……いやさ姉さん!」
床に頭を擦りつけながら俺は反応を伺う。返事は返ってこない。俺は尋常じゃない気配を察知した。どうやら怒っているようだ。仕方ない。俺は四肢の力を抜き、埃一つ無い床に身体を投げ出した。俗にいう土下座の亜種、寝土下座というやつだ。そう、俺の心はこの磨き上げられた埃一つない床のように練磨されており、同様に誇りひとつないのだ!
「プッ……」
やばい自分のギャグに笑っちまった!
「……顔をあげなさい、私の可愛い春人……」
「は、はい……」
失態を犯した俺を包み込むような慈悲深い声。俺は満面の笑みを浮かべながら顔を上げた。
「お前私を舐めているのかぁ!」
そして即座に顔を踏まれた。
「い、いや聞いてください姉さん、これは俺の新しい芸でして――」
「黙れ。ただでさえ私は機嫌が悪いんだ。お前の寒いギャグに付き合うつもりは毛頭無い」
寒いって言った! 今寒いって言ったよこの人!
「そんな! 俺は疲れているであろう姉さんの心を少しでも温めようと頑張ったのに!」
平然と踏みつけられながら尚床に倒れない俺。不屈の闘志で、大地に倒れこむ事を拒否する。
視界を覆う姉さんの上履きの奥、ムッチリとした肉感的な太ももの先にある下着が見えそうだったのだ。ひゃっほう!
「そうか。その気遣いは嬉しいな。けど残念ながら、私は疲れているのではない。ボランティアに等しい生徒会の仕事では、私はハンコを押すだけだからな。溜まっているのは疲れではなく、鬱憤だ」
姉さんはそう言うと、俺の顔を一層強く踏みしめた。視界の端でスカートが揺れる。
「何故私が自分を偽り、生徒達が望むキャラクターを演じているか解るか? それは私が夕霧叶だからだ。夕霧の名を冠する私は常に人の上に立つよう宿命付けられている。成績も、容姿も、一番でなければならない。それは良い認めよう。何故なら私は今までもこれからも完璧で、一番である事は必然であり当然だからだ。だが!」
姉さんは俺の顔から足を上げた。それが俺の顔をより強く踏み抜くための予備動作だと知りつつも、俺は顔を逸らさない。何故なら――
「なんでこの私が、有象無象共に愛想を振りまかなければならないんだ!」
「いやっほぅーい!」
天高く上げられた姉さんの足が振り下ろされる。俺は奇声を上げながら、今度こそ床に倒れ伏した。
「叶さん、お茶が入りましたよ。どうぞ席についてください」
そこでようやく要のティータイムの準備が整ったようだ。姉さんはうん、と頷き、俺を放ったらかしにして椅子に座った。
「大丈夫か? 春人」
心配そうに駆け寄ってきた要に、俺は親指を立てる。
「聞け、要。今日の姉さんの下着は、大人っぽい黒色だったぞ……!」
「……とても満足そうだな、お前は。心配して損をした。早く席に着け」
心底呆れた顔をして、助け起こしもせずに離れていく要。どうやら奴とはこの喜びを共有する事が出来なかったようだ。
席につき、淹れたての紅茶を啜った。要が言うとおり上質な茶葉を使っているらしく、とても上品な味がしました。
「…………」
姉さんは黙ってケーキを口に運んでいた。
「おい、姉さん、まだ不機嫌だよな……」
「ああ……。お前が余計に怒らせるからだ。この最強のケーキを食べて尚不機嫌でいられる筈が無いからな……」
要は蕩けそうな瞳で、とても幸せそうにケーキを食べていた。いやそれはお前だけだろう。と、心の中でツッコミを入れて、誰にともなく呟いた。
「まぁ、大丈夫だ。そろそろ鬱憤のはけ口が到着する筈だから」
「はけ口? もしかして……」
俺はそれには応えず、モニターを見た。そこには、廊下を全力で走る男の姿があった。要の半開きの口
から、心底同情した音色が漏れる。
「…………可哀想に」
「いや、俺から言わせれば自業自得だ。今日がこういう日だって事は知ってる筈なのに」
「むぅ……それもそうだな……」
ムスッとしている要をよそに、俺は姉さんを横目で見る。目が合った。
「フフ……」
ニッコリと笑った姉さんを見て、俺は思わず身震いを起こしていた。
「春人! 先輩は――!」
その時、ドアが勢い良く開かれた。
やってきたのだ、狼の縄張りに。
子羊が、ネギとガスコンロを背負って。
このペースだといつまで掛かることやら……。
ドバッと投稿するのも視野にいれつつ、ひとまずのんびりやってきます。