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プロローグ

プロローグ



 春の夜風が、泣き腫らした顔にピリピリと染み渡る。今年最大にして、恐らく最後であろう春一番。台風もかくやという暴風の中、俺は深夜の並木道を激走していた。

「うがああああぁっ!」

 理性を失った獣のような叫び声が、風音に紛れて消えていく。それが何故だか悔しくて、俺はまたぞろ雄叫びをあげた。

「メアリィィィィッ!」

 メアリー。俺の愛した女。まるで川の清流のように美しい調べの名。その名の如く、彼女の美しさはこの荒んだ現し世に降臨した美の女神……。

 そんな彼女が、逝ってしまった。

 まるでヤケクソのように唸る猛風は、コンビニのビニール袋と一緒に、俺の中の悲しみを吹き飛ばしてくれ――なかった。

「うわあああっ!」

 だから、叫ぶのだ。無情なる世界に、俺は抗議の声を上げるのだ。肩に背負った“相棒”が共鳴するようにガシャリと音を立てた。食い込んだ紐を背負い直し、俺は無人の街道をひた走る。時刻は深夜三時過ぎ。遠くで救急車のサイレンが鳴っていた。飛来してくる木の葉だとか花粉だとかを一身に受け、俺のボルテージは高まっていく。そして気がつけば、目の前に高層マンションが佇んでいた。まだ建って間もない筈のこのマンションに明かりが無いのは、何も深夜だからというだけではない。

 ここは、付近の住民に『幽霊マンション』と噂されているのだ。

 何でも、建造当初から作業員が転落死したりだとか。いざ完成したら入居者が連続で自殺したりだとか。そんな犠牲者達の魂が夜な夜な屋上に集まるだとか。

 此処は“ガチ”な心霊スポットなのだと、我が級友の『スピーカー』こと佐々木真奈美は声高に語っていた。正直情報の出どころは全くもって信用できない。借金大国日本の行く末ぐらいに信用できない。

 ……だからなんだって話だ。

 俺には、今はなきメアリーを悼むという使命があるのだ。湧き上がる悲しみを胸に抱え、慣れた手つきで柵を上り居住者用の階段を一気に一四階まで登りきった。乱れた呼吸を整える。ゴーゴーと風の音がやかましかった。

「よしっ……!」

 ここから先は、気合を入れなければならない。俺は廊下の端まで歩き、申し訳程度に付いている手すりを握り締め上を見上げた。一メートル程の高さの位置に、突き出るようにして屋上の縁が見える。この手すりを踏み台にすれば、屋上へ行くことが可能なのだ。

 これは、俺と姉さんだけが知っている、秘密の抜け道だった。

「よっ……と」

 壁に手を付きながら手すりの上に立つ。途端、強風に煽られ体勢が崩れるが何とか持ち直した。危ない、死ぬ所だった。下はなるべく見ないように、屋上の縁へと手を掛け、そのまま身体を浮き上がらせる。一瞬の浮遊感の後、屋上へと飛び込むように身を投げ出した。ゴィン、と背中に背負った相棒が悲鳴を上げる。痛くしてごめんよキャシー。

 俺は相棒の身体に付着した埃を払い落とし、その服を脱ぎとった。途端、神々しいばかりの輝きが俺を襲い、思わず目を閉じてしまう。眩しい、眩しすぎるよキャシー!

 ……目を開けば、サンバーストに輝くレスポール・ギターが俺を見つめていた。約一年に及ぶ労働の末、先月ようやく手に入れた俺のとっておきのカワイ子ちゃんだ。艶めくその身体を丁寧に持ち上げ、上質な木材で仕上がっているネックを撫で上げる。この優しく肌に吸い付くような手触りだけで、俺はエレクト寸前。十分撫で上げ満足した後に、ソフトケースに入れておいたストラップタイプのミニアンプとシールドを取り出した。

「入れるよ……キャシー……」

 俺は紳士として彼女にそう断りを入れてから、その魅力的な穴へとプラグを差し込んだ。次いでアンプの電源を入れボリュームツマミを回した途端、何とも言えない喘ぎ声が俺の耳に心地よく響く。程よく指に馴染む六弦から一弦までをそっと指で撫でていくと、独特の深みを持ったエロティックな声が風に攫われて消えて……その声は心無しか、悲しみを帯びている気がした。

 彼女も、メアリーの死を悲しんでくれているのだろうか。

 彼女の声の調整を終えると、ストラップを肩に掛け、キャシーを握り締めた。彼女の身体が、強風を受けて微かに震えている。ありがとう。メアリーの為に、泣いてくれているんだね……。

 立ち上がる。道路を挟んだ向かいにある駅のネオンを受け、俺とキャシーの涙は極彩色に輝いた。息を大きく吸い込み、ピックを振り下ろす。

 行くぜ。これが俺の、俺達の、メアリーに捧ぐレクイエムだ。

「ダッチワァァイフッ! フォウ! ダッチワァァイフッ!」

 メアリー(ビニール製)。享年三ヶ月と一六日。思い起こすは共に過ごした、彼女との濃密な夜の出来事。その全てが、儚い泡沫の夢のような、至福の時間だった。それが昨夜のアグレッシブな営みにより永遠に失われてしまうとは……。嗚呼、メアリー(オリ○ント工業製)……。君との日々は、忘れないよ……!

 俺達のレクイエムは、風音に紛れて消えていく。

「はぁ……はぁ……」

 力の限り歌い上げ、荒い息をついた。これで俺は、また前を向いて歩いて行く事ができる。

 溢れ出てくる汗と心の涙をぐいと拭い、空を見上げた。


 その時、視界の隅に人影がある事に、気づいてしまったんだ。


「え……」

 ドクン、と、心臓が一つ脈を打つ。俺は顔を上げたまま考える。あれは、一体、何なんだ? まさか、幽霊、とか? そんな馬鹿な。俺は真っ先に浮かんだオカルトチックな考えを否定する。そんなものは存在しない。ならば何故視界を元に戻さないのだ。本当にそこに人が居るのかどうか、確かめて見ればいいではないか。いや全く持ってその通りだ。その通りなのだが、俺の中の直感とでも呼べる何かが、身体を硬直させるのだ。全身に嫌な汗が吹き出てくる。何処からか鎖の擦れる音がする。

 そのまま十数秒硬着した後、意を決して、顔を、下ろした。

 果たしてそこには、ネオンの光を受け佇むシルエットがあった。屋上の縁、その取っ掛かりに危なげなく立っているその人型は、子供のように小さかった。風を受け、長い髪がたなびく。女性のようだ。だが、こちらに背を向けているので顔を確認する事はできない。いつの間に此処に来たのだろうか。……いや、もしかしたら、始めから居たのかもしれない。それ程に、彼女の存在感は希薄で、今にも消えてしまいそうだったから。

 ごくりと生唾を飲み込む。

「えぇと、あのー! 此処で、何してるんですかー!?」

 風の音に紛れてしまわないように、大声を上げた。予想どおり返事は無い。だが、幽霊という訳でも無いようだ。

 彼女は俺の声を受け、ゆっくりと、振り向いたのだから。

 瞬間、車のヘッドライトを受け、彼女の輪郭が顕になる。

「…………っ!」

 俺は思わず、息を呑んだ。

 まるで人形のように整った、けれど、生気の無い真っ白な顔をしていた。風を受け、髪が靡いている。……いや、違う。

 それは、髪ではなかった。

 彼女の髪は精々が肩に付くほどの長さしかない。俺はソレに、目を奪われる。金属の擦れる音。

 ――俺が今まで髪だと思っていたものは、彼女の白く細い首にはまるで不釣り合いな、無骨な首輪から幾束も伸びる、銀色の鎖だったのだ。

「お前は……」

 その時、強い風が吹いた。俺は風に背中を押され、蹌踉めくように彼女の元へと近づいていた。……近くで見て、初めて解る。この女はとても小さい。中学生か、下手をしたら小学生ぐらいか。だが、鎖を付けられるのに年齢は関係ない。

 “奴隷”である事に、理由は要らないのだから。

 彼女は眠たげな目で俺を見つめていた。何を語りかける訳でもなく、ただ俺を見つめている。それはモノを見るのと同じ目だ。トロンとしたその瞳に、俺は吸い込まれそうになる。一歩、近づく。本当に綺麗な顔をしていた。“観賞用”の奴隷だったのだろうか。胸の奥がムカムカして胃液がこみ上げてくる。ビクビクと痙攣する二の腕を押さえつけ、俺は彼女の首輪に印字されている文字を見た。

『KANON』

 かのん。それが彼女の名前なのだろう。

 強く風が吹いている。その度に、彼女の身体は大きく左右に揺れ動いていた。思わず手を伸ばそうとして、止める。それは意味の無いことだから。

 彼女は、恐らく、全てを終わらせる為に此処に居るのだ。

 ……その時、俺の胸に去来した感情を、何と呼べばいいのだろうか。


 後で思い起こせば、その感情は、嫉妬だったのだと思う。


 アンプの音量を最大まで上げ、キャシーを強く握り締める。その弦を、かき鳴らした。ギョワーン、と大音量の爆音がエネルギーとなり辺りに響く。

 そこで彼女は初めて、興味深気な眼差しで俺を見た。それに僅かな愉悦を覚え、さらに音を響かせる。俺の知る限りで、最も美しい音楽を。その、調べを。

 和音を響かせ、曲が終わる。全身に汗を掻いていた。彼女は微動だにせず、けれど、大きく目を見開いていて……。

 その瞬間、不気味な風鳴と共に、猛烈な突風が彼女を襲った。小さな身体はそれに抗えず、否、抗う事すらせずに、屋上から消えていく。抵抗しないのは当然だ。それが彼女の望んだものなのだろうから。“飼い主”から逃げられる筈は無いのだ。もし捕らえられたとすれば、待っているのは激しい拷問の末の死。そうなる前に、自分で命を絶ってしまった方が利口だろう。オーケー、解決だ。何も問題はないじゃないか。

 ……そこまで考えて、けれど。

 俺の身体は、勝手に動いてしまっていた。

「うおおぉぉっ!」

 駆け寄り遮二無二手を延ばす。冷たくて硬い何かに触れた。鎖だ。彼女の身体は既にその全てが屋上から投げ出されていた。長く伸びた鎖だけが、今、俺の手の中にあり、彼女の命を支えている。小さく見えた身体は、けれど、あまりにも重かった。かはっ、と咳き込む音が聞こえる。当たり前だ。今、彼女の全体重は首に付けられた首輪に掛かっているのだから。そんな彼女の遥か下には、硬いコンクリートが広がっている。落ちれば万が一にも命はないだろう。時間が無い。俺は屋上の縁に足を掛け踏ん張りを効かせると、一本背負いの要領で一気に彼女を引き上げた。

「どっせええぇいっ!」

 スポーン、と、景気の良い音が聞こえた気がする。彼女は弧を描いて宙を舞い、勢いもそのままに二転、三転と屋上を転げまわった。そして、俺は――。

 反動で、そのまま屋上から投げ出されていた。

 ――マジかよ……。

 心底、自分の間抜けさを呪いたくなる。俺が最後に見た光景は、倒れこんだ彼女のめくれ上がったスカートから覗く、白い下着だったとさ。いや待て、ちょっと待て。こんな時までエロスに走るな俺のバカァ!

「ああああああぁぁぁっ!」

 恐怖からか、口からは意味も無く叫び声が漏れる。重力を感じた。落ちる、落ちている。景色が光のように流れていく。死ぬのか、俺は。落下の衝撃から、身体に受けるダメージを予想する。……ああ、コレは死ぬわ。そうか、俺は死ぬのか。意外と怖いもんだな。

 あ、けど……。

 俺、死ねるのか?



 真夜中の幽霊マンションに少年の絶叫が木霊し、次いで、ドンッと何かが破裂したような爆音が響いた。それを身動きすらせずにただ聞いていた少女は、幽鬼のようにゆらりと立ち上がると、フラつきながら重そうに鎖を引き摺り、少年が消えた屋上の縁へと歩いて行く。彼女はブツブツと何かを呟いていた。囁くようなその声は、まるで機械のように冷たい音色で。

 屋上の縁に屈み、下を覗きこむ。吸い込まれそうな高低差。しかし、微塵も恐怖を覚えていないのか、彼女は平然とそれを見下ろしていた。

 果たしてその視線の先には、溶け、すり減り、原型を留めないほどに破壊され尽くしたギターと、ボンネットが大きく拉げた、煙を上げる乗用車があるだけだった。それを見て、彼女は首を傾げる。

 少年の姿が、何処にも見当たらなかったのだ。

「……計測不能。何故……?」

 彼女はその顔に分り易いほどの疑問を浮かべ、一人、首を傾げたのだった。

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