MAYその1 宇野零次、鶴翼学園に行く
転校初日、携帯電話で朝の定時連絡を入れると、俺は鶴翼学園の正門前に立った。
手荷物は前もって寮に送ってある。
何度か敷地内にも潜入し、必要になりそうな銃器類、ツールは隠しておいた。
準備された制服も俺の体格に適切なサイズだ。
事前の下調べで知ってはいたが、改めて目の前にすると、学園の内部と外部を分ける石造りの壁は、建物でいえばニ階分の高さだ。
『こりゃ塀って範疇を越えてんな。どっかから攻め込まれる予定でもあんのか?』
『蛇』が呆れたような声を出す。
『象』も壁のてっぺんを見上げながら、しきりに大きな耳をはためかせているところだ。
これを乗り越えるには、空でも飛ばなければ無理だろう。
『象』が飛んで行くことがないように、おさえておくべきかもしれないが、『象』に実体はない。
そして、俺は無駄なことはしない。
この鶴翼学園は、その敷地の外周を堀で囲まれている。
公道から門までは跳ね橋がかけられていて、それを渡らないと敷地内には入ることができないようになっている。
良家の子女も入学するということなので、自然と警備が厳重になるのだろう。
しかし、任務にあたって丸腰というのは、どうも肩が軽くていけない。
橋を渡る際、初めての地を訪れる少年を装いつつ、周囲に目を配る。
五月の空は、梅雨のしめっぽさはまだ無かった。しかし、その先に訪れる夏の熱を秘めている。
堀の水は澄んでおり、泳ぐ小魚が足元を行きかうたび、日光の銀色を反射している。
音もなく、風もない。
草の青い匂いが俺の鼻の下を通り抜けたが、朝はまだ十分に目覚めきってはいないようだった。
橋を渡ると、両側の門柱にはそれぞれ石像が正面を向いて立っていた。
目測で測ると三メートルほど。
西洋の兜、太い首。腕も足も筋肉が盛り上がり、胸当てと腰布、ベルトには二本のグラディウスという出で立ちで、古代ローマの剣闘士のそれだ。
名のある彫刻家が彫ったのか、まるで生きた巨人がそのまま石化したようで、今にも動き出しそうだ。
そこまで考えていると、その二対の石像の顔が動いたので、俺は後ろに飛びのいた。
石像の口は動かなかったが、声は聞こえる。機械的な音声ではなく、なめらかな口調だった。
「これより内部は、私立鶴翼学園高校の敷地となります。入場を許可される方は、生徒、教職員、および学校関係者のみとなっております」
石像はお互いに一歩近づいて、侵入者を拒む壁となった。
つまり、今の状況では、俺を。
あえて近づくようなまねはせず、その場で申告する。
「俺は宇野零次。この学校に今日から転入する生徒だ」
「確認します。少々お待ちください……」
このまま中に入れないということになると、別の入り方をするか、ここを突破するかしかなくなる。
それが、どちらを選んでも転校初日の生徒の振る舞いとしては、できるだけ避けるべき選択肢であることくらい、俺にもわかる。
「氏名、宇野零次。検索の結果、学籍名簿に該当者なし。当学園の制服を着用、偽装による侵入行為の恐れありとみなし、排除行動に移ります」
石像たちは腰を落とし、鞘からグラディウスを引き抜いた。
鞘走りの音と、刀身が反射する光が先ほど堀で見た魚の鱗と同じ色をしているところから、材質が石ではないことを俺は確信する。
「それはないだろう。もう一度検索を」
俺は抗議してみたが、取り付くしまが無い。
これは多分、問答無用というやつだ。
今の俺は、まるで犬養毅だ。
斬りつけてくる剣をかわし、素早く上着を脱いで左手に巻きつける。
相手はナイフではなく、剣だからたいした防御にはならないが、無いよりマシだ。
敷地の中から、こちらに近づいてくる気配を感じた。石像ではなく、人の気配が一つ。
こいつらの応援が来るなら、時間をかけてはいられない。
俺はワイシャツの左袖に右手を差し入れ、ダマスカス鋼製のワイヤーを引っぱり出した。
八十センチのワイヤーは、両端に分銅が付いている。
左手の投網代わりの上着、右手にはワイヤー。
俺の姿を『蛇』が笑った。
「は! 二人のディマカエリVSラクエリィかよ。時代錯誤だな」
左右から来る斬撃を二度三度とかいくぐると、左側のディマカエリの膝を踏み台にして、右の奴の背中に飛びついた。
既に俺の左手に巻かれた上着は広げてある。
それを後ろから巨人の顔に巻きつけ、奴の背後に飛び降りる。
石像の視界がどういう構造になっているのかを知るすべがないが、グラディウスを振り回す動きに精密性がなくなったところを見ると、俺の行動は間違ってはいなかったようだ。
あいにく人体の構造というものは、それがアミノ酸でできていようと、炭素と珪素でできていようと、自分の背後には斬りつけられないようにできている。
丁度、俺がいる位置は。
俺はそいつの体を盾にして、俺を突いてこようとした左のディマカエリの手首にワイヤーを放った。
先端の分銅が残像でフィボナッチ曲線を描くのを確認し、渾身の力で引き寄せる。
右の巨人が左の奴の肩口に斬りつけ、左の巨人は右の奴の胸を刺し貫くことになる。
斬られた方は上半身が滑らかに下半身から滑り落ち、突かれた方はその場で両膝から崩れ落ちた。
今ではただの石くれだ。崩れた石が起こした地響きに驚いたのか、小鳥の立てるはばたきが聞こえた。
手早くワイヤーを回収し、上着を着込む。
先ほどから気になっていた気配は、今や俺のすぐそばまで近づいてきている。
相手は気配を消そうともせず、むしろ気を緩めるとこちらの意識が刈り取られそうな圧迫感がある。
少なくとも、足元で瓦礫と化した石像の数段上の力を持っているはずだ。
隠れる場所はないし、逃げるというのも俺の選択肢にない。
ここで逃走に成功したところで、俺自身が、逃げた自分を認められないからだ。
俺の武器はワイヤーのみ。
正直な話をすると、俺は組織の格闘教練で、Sの評価を取ったことがない。
つまり、相手が武道五段以上なら、もって三分から五分だし、相手が武器を持っていたら、その時点でお手上げだ。
腰を軽く落とし、身構えた。
視野を広く取る。
こんなことなら格闘訓練の時間をもっと取っておくべきだった。
任務初日から失敗する可能性大とは。
恐怖は感じなかった。
昔からそうだ。
俺は恐怖という言葉を知っている。意味も知っている。
だが、それだけのことだ。
心情としてこれがそうだと捉えられたことはない。
「おはよう」
そう言って現れたのは若い女性だった。小脇には短い杖をたばさんでいる。年の頃は二十代の半ばだろう。
信じがたいことに、さっきから感じていた気配は彼女からのものだった。
髪をアップに結い上げ、服装は紺色のスーツだ。
俺を眼鏡越しに切れ長の目で一瞥すると、彼女は手を前に合わせ、俺に向かって軽く会釈した。
「おはよう」再度、挨拶をされて、俺も返礼する。
「おはようございます」
「この学園の教頭を務めます、密城です」
「今日から転入することになった宇野零次です。ですが……」
俺は元石像だった石くれを見下ろした。
「まだ登録されていないとかで。学校の備品を壊したくはありませんでしたが、申し訳ありません」
「ええ。わかっています。気にしないでください。この程度の障害を乗り越えられない生徒の大半は、我が校なら卒業はおろか、日常生活にも支障をきたしますのでね」
こんなことは慣れきっているとでも言いたげだ。
「それはどういった意味でしょうか?」
俺の問いには答えず、石像に向き直った教頭は、小脇の杖を一振りした。
軍隊で言えば俺は一兵卒、教頭の彼女は軍隊でいえば副司令官になるわけだ。
無視されても仕方あるまい。
様子をうかがうと、教頭は目を閉じ、何事かを呟いている。
心なしか、彼女の体が蛍光色の緑に光っている。
最近の日光は、色味が増えているのかもしれない。
ゴツゴツと音がするので、視線をそちらに向けると、壊れた石像が元の形に戻りつつある。
それらは数秒で直立不動の姿勢になる。
「あなたたち、持ち場に戻りなさい」
教頭が命令すると、二体の石像は先ほど立っていた門柱の前に歩いていった。
「さて、それでは、宇野くん」
「はい」
いつのまにか俺も、直立不動の姿勢になっている。
「職員室に案内します」
「は! お願いします」
「宇野くん?」
「は! なんでしょうか?」
「ここは軍隊ではないから、そこまでかしこまらなくて結構ですよ」
「りょうか……。わかりました」
危ないところだった。初日から、おかしな生徒だと思われることは避けねばならない。