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少年小説 アンパンの丘  作者: 丸山寛之
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最終章

少年小説 アンパンの丘


 最終章


   1


 ─そして、夏がきた。


 青い、青い、一面にかがやく青い空のまんなかで、太陽はくる日もくる日もサーモスタットの故障したヒーターのように過熱しっ放しである。


 鯛村の集落は深い夏木立の緑のなかに埋まっている。


 窓を開けはなった教室のなかに、裏山で鳴く蝉の声が激しい夕立のようにふってくる。


「まるで林間学校だ」と公平はおもった。


「やがて死ぬけしきは見えず蝉の声。だれの句かわかるか、アンパン」


 国語の時間にダルマさんにきかれて、公平は、


「芭蕉…じゃないですか」


 と、つとめて無感動な低い声でこたえた。


 中学の同級生にそんなやつがいたのである。


 学科を選ばずなんでもよくできる秀才なのに、どこか屈折した一面をもっていて、授業中に手を挙げるなんてことは絶対しない。


 だが指名されると、「……じゃないですか」と、どんな難問に対しても全然とまどうことなくサラリとこたえる。


 なんともいえずクールでカッコよく見えたものである。


 公平としては目下大いに二枚目的イメージを売り込みたい精神状態なので、その〝屈折秀才〟のポーズをまねてみたわけである。


 すると、辻明子が、あの清純なまなざしに、


「まあ、山本さんてほんとうはとてもよくできる人なんだわ」といった憧憬(もちろん、そのなかにはちゃんと淡い恋心も配合されている!)の念をこめて、じっと公平の横顔をみつめる──はずであった。


 なのに、ダルマときたら、


「どうした? 下痢でもしてるのか?」と、こうである。


 教室中に爆笑の渦が巻き、公平もしかたなく笑いながら夢想と現実とのはなはだしい隔たりをまた一つ、知ったのである。


 いまにしておもえば、あのときはせめてこう言い返すべきだった。


「いえ、歌のうたいすぎで声がかれちゃったんです」


 だが、いつだってそうだけど、ちょっと気のきいた台詞というものは、きまってあとから思いつくことになっている。


 夕食のあと、公平が中村家の庭先と砂浜を区切る石垣にのぼって、海を見ていると、テッチーがやってきて、


「ああ、よか風や!」


 大人びた感想を口にしながら公平の横に腰をおろした。


「おう」とだけ公平はことばを返した。


 夕凪ゆうなぎのときが過ぎたばかりである。


 海風が吹いてくる。


 砂浜では乾いた藻のかたまりがカサカサと鳴り、ときどきちぎれた小さな藻が砂の上を走っていった。


 鯛の浦の暗い海面に小島のシルエットが浮かび、漁火いさりびが赤く点々と散らばっている。


「すっかり夏だなあ」


「おう」


 こんどはテッチーが一言だけかえした。


 「夏休み……」 早くこないかな、といいかけて公平はあとのことばをのみ込んだ。


 テッチーは二学期からは屋久島高校へ転校する。


 宮之浦という海辺のまちにある屋久島高校には、中学時代の同級生が何人もいるし、スポーツ好きのテッチーにとっては野球やバレーボールなど、鯛村高校より格段に充実した部があることも期待を抱かせることの一つだった。


 それに鯛村高校のように一日中コーラス責めに合うこともないし、たぶんフォークダンスなんてものもやらされずにすむだろう。


 公平と同じように歌が苦手で、ダンスアレルギーのテッチーにとっては、そのことが、


「なんちゅうてン、いっばんうれしか」ことである─と、転校の話が出るたびにはしゃぐようにいっている。


 だが、それはさびしさをまぎらすためのやせがまん、ちょっと無理してるような感じもあった。


 このところ、テッチーがふとした拍子にふっとさびしげな顔をしたり、おそらく自分でも無意識にぼんやり(鯛村方言ではボサーッと)していたりすることに、尾っぽ館の仲間たちは気づいていた。


 テッチーの夏休みはすなわち別離のときでもあるのだった。


「あと十日ばっかいの寿命やっど。やがて死ぬけしきは見えず蝉の声ちゅうわけや」


 テッチーはそんなことを言って笑った。


 公平はどうこたえたらいいのか、さりげない言葉でしかも適切に自分の思いを伝えたいとおもったが、そんなうまい言葉がとっさに見つけられるわけがなく、「あ…うん…」と意味不明のつぶやきを発し、夕闇の海へ顔を向けていた。


 そのとき、テッチーが不意に立ち上がり、


「ヘーイ!」


 砂浜の上を歩いてくる人影に向かって手を振った。


「中上と重田や、おッ、スイカを持っちょっが、略奪、略奪!」


 そう言うなり、砂浜にとび下りて、中上光子と重田信子らしい二人連れを目ざして駆けだした。公平もつづいた。


   2


 砂浜を歩いてきたのは、ほんとに光子と信子だった。


 二人とも浴衣姿で、夕闇のなかにほの白く浮かび上がって見えた。


「あら、テッチー、アンパン」


「なんね、犬ころンごて(犬の子のように)走ってきて」


「スイカを寄付せんな、半分でよかで…」


 略奪! と叫んだにしては、ずいぶん穏便にテッチーが申し入れた。


「スイカ?」


 信子がふしぎそうに聞き返し、テッチーの目が、自分の手にぶら下げたものに向けられていることがわかると、けたたましく笑いだした。


「こいがスイカに見えたとね、ほんのこッ、よか目やっこと!」


 そして、テッチーの前にそのまるい形をした風呂敷包みを突き出すようにして、もう一方の手で叩いてみせた。ボコボコと鈍い金属音がした。


「なんや、それ?」


「洗、面、器!」


「あ、湯屋に行ったのか」


 なるほど、湯上りのさわやかな匂いが、二人分の濃度でもってただよっている。


「そういえば旗が出てるね」


 二人が歩いてきた砂浜の向こう、海ぎわを通る村道の松並木の間に白い旗がひらひらはためいているのが、夕闇を透かして見えた。


 鯛部落の南のはずれのお宮の丘の陰にある銭湯が、一日おきの営業日に掲げる合図の旗である。


 タブロイド判くらいの白い布に筆太の墨字で『ゆ』とかいてある。


 どうやら、れいの〝キス事件〟の誤解もとけて、ふたたび〝女の友情〟が復活したのだろう。


 今夜、光子はいつかのように信子の家に泊めてもらうのだという。


「浴衣のグラマー、色っぽか!」


 テッチーが、両方の手で光子の体の形をなぞるようにくねらせた。


「バカ! エッチ!」


 光子が笑った。


 公平は、そんなことをあけすけにやってのけるテッチーに対してよりも、むしろどこか俗っぽい光子の反応に軽い失望を感じた。


 辻明子だったらけっしてそんな反応は示さないだろう。


 いや、だいいち、辻明子に対しては、テッチーもそういう粗野な冗談はしないだろう。


 いまや公平は完全に明子に恋していた。


 はじめは明子の大きくてきれいな目が好きだった。


 清純な雰囲気に惹かれた。


 いまではもうどこがいいなんて生やさしいものではない。


 なにもかも全部いいのである。


 髪の毛がやや茶色がかって分量がそう多くないところも、小柄であまり肉づきのよくないところも、絶対に欠点ではなく、それらもまた辻明子を辻明子たらしめている美点なのである。


 しばらく前から天気のいい日の朝礼は、校庭に円陣をつくって行われているが、そのとき、公平の目はいつでも明子の姿を探し求めている。


 そして、明子の顔をさりげなく見られる位置に発見すると、それだけでもうなんともいえず満ち足りた気もちになるのだった。


 歌がはじまる。


 公平はわれを忘れて明子のきれいな口の動きに見とれる。


 見とれるうち、つい、明子とおなじソプラノのパートを歌ってしまい、狼狽したこともある。


 けれども─というべきか、もちろん─というべきか、これほど彼女に熱中しながら、公平はまだそんな自分の気もちを明子には伝えていないのである。


 それどころか、彼女の前ではかえって妙にぎこちなくなって、ぶっきらぼうな口をきいてしまい、おきまりの後悔と自己嫌悪におそわれる。


 だが一方では、明子以外の女生徒に対するばあいは、心の軽さがとれて気軽な会話ができるようになっていた。


 そのことは中上光子に対しても例外ではなかった。


 だからいま、夜の浜辺で公平はごくフランクに、


「ねぇ、みんなで散歩しないか」と提案することができたのだ。


「賛成!」


 光子がいった。


「ああ、カンゲキ!」


 テッチーがわざと大仰な嘆声をあげ、


「おいは忘れんぞ! 今月今夜のこの月を!」と、空を仰ぐ身ぶりをしてみせたが、あいにく空のどこにもそういうものは見当たらなかった。


 しかし、月が出てないために空はおびただしい星に埋めつくされ、キラキラ光る宝石をばら撒いたようなその美しさはまさに感動的であった。


 四人は、波打ちぎわの近くの濡れた砂がかたくしまって歩きやすいところを、川口のほうへ歩いていった。


 前浜─というそのものずばりの名を与えられたこの砂浜は、お宮の丘の下辺りから大川の川口までつづく二百㍍ばかりの白い砂のきれいな浜である。


 一列の石垣が砂浜と集落の境界をつくり、波や風をふせぐとともに世間の目から恋人たちを守る役目も果たしていた。


 じっさい、波おだやかな入り江に面した静かな夜の前浜が、鯛村の恋人たちに多大な貢献をしてきたのは、歴史的事実というものであった(これを平たくいえば、昔からデートの名所だったってコト)。


 尾っぽ館の若者たちも、ときたまこの情趣ただよう浜辺を歩くことがあるが、それはまあウナギ屋の前を匂いだけかいで素通りするようなものだった。


 ところが、いまはどうだ。


 一対一でないところがいささか本格的状況には欠けるとはいえ、湯上がりの浴衣姿の少女たちと肩をならべて星ふる浜辺を歩いているのである。


 ワッハハハ…、うれしーいじゃないか、明智クン! 


 公平の胸中はそんな気分だった。


 砂浜の上に一そうの小舟が引き上げてあった。


 いや、小舟というよりは、それは三角形の箱といったほうが実体に近いような代物であった。


「なんだい、これ?」


「清吉どんの舟やっが」と信子がいった。


 信子の家のとなりにすこし知恵遅れだけど、工作好きの青年がいて、相撲部屋専用みたいな特大のちり取りや、脚の長さが四本とも微妙に異なる腰掛けなどを作っているが、この小舟も彼の作品の一つだという。


 大きさは競艇のボートくらいで、底が平らで、舟ばたの高さは三十㌢くらいだ。


 もしもでっかい三角形のタンスがあるとしたら、それの引き出しはこんなふうになるだろう。


「乗ってみようか」


「おう、こげな舟にはめったに乗れんでよ」


 少年二人の提案に対して、光子はすぐ賛成し(なぜか、今夜の彼女はいやに協調的なのである)、信子は反対した。


「清吉どんにわるかじゃなかね」


「ないごて、わるかとや、また元ンとけ戻しちょけば、よかじゃなかか」


「そうよ、みんなで乗ろう!」


 光子がいった。


「やめんね! 人に見られたらどげんすっとね!」


 信子がふたたび強く反対したが、それはかえってほかの三人をけしかける効果しかなかった。


「見られてもよかよ」


「そうよ、そうよ」


 自分はやっぱりやめておくという信子をそに残して、三人は舟を持ち上げて波打ちぎわに運んだ。


 光子を先に乗せて、公平とテッチーは下駄を脱ぎ、ズボンをひざ上までまくりあげ、舟を四、五㍍、海のなかへ押し出した。


「よし、そろそろいいぞ」


「乗船!」


 二人が乗ると、小舟はゆらりと不安定にゆれてぐんと喫水を下げた。


 水面がほとんど舟べりすれすれのところへきた。


「ひやあ! きわどく浮いてるなあ」


 そこへ小さな波がきた。


 可憐な小舟はけなげな努力で耐えようとしたが、舟べりをこえて侵入する波の暴力を拒みとおすことができず、その結果、小舟の重力と水の浮力との間に保たれていた物理的均衡に終末的な破綻が生じた。小舟は沈没しはじめた。


 舟のなかの三人は反射的に立ち上がった。


「いやッ!」


 光子が悲鳴をあげた。と、つぎの瞬間、公平は自分の首が、光子の両手の輪のなかにとらえられたことを知った。


 そして、なんだかやわらかく弾力のある物体が、胸部に押しつけられる感覚も感じていた。………


   3


 翌日もいい天気だった。


 朝礼のとき、公平はまた明子と向き合うことができた。


 明子の背後の遠景には、青くおだやかな鯛の浦の海面が朝日を受けてキラキラかがやいている。


 ああ、だけど辻明子ってなんていいんだろう! 公平は烈しく思った。


 それはなにかこう胸がいたくなるようなつよい甘美な陶酔であった。


 もしも、ほんの一瞬でも、あの清純な少女を抱擁することができたら………、公平の脳裏をめくるめくような想念がかすめた。


 そしたら自分はどうなるだろう? 


 心臓がとまってしまうかもしれない。


 目が見えなくなるかもしれない。


 立っていられなくてぶっ倒れるかもしれない………。


 なぜそんな想念にとらえられたのか、公平はよくわかっていた。


 明らかにそれは昨夜のあの出来事のせいである。


 小舟が沈没していくとき、中上光子に抱きつかれ、公平も思わず光子の背に手を回した。


 二人は抱き合う形で海中へ沈みかけたが、なにしろそこは水深五十㌢程度の浅瀬だったから、舟底がどすんと砂地に着くと、コッケイな遭難者たちはゲラゲラ笑いながら舟の外へ出た。


 重しがとれてひとりでに浮き上がった小舟を元の場所に戻すと、夜の浜辺の散歩は他愛ない寸劇で幕となったのだった。


 ところが、そのときは別になんとも感じなかったのに、時間がたって気もちが落ち着くと、あのやわらかくて弾力のある物体の感触がいやになまなましくよみ返ってきて、公平をナヤませたのである。


 昨夜、公平は、父に手紙をかいた。


 内容は、もうじき夏休みだけど、休みに入っても一週間ほどはこちらにとどまりたい。


 自分としては一日でも早く帰京したいが、一学期限りで転校する友人がいるので、彼が鯛村を去る日に一緒に鹿児島市まで出て、屋久島行きのフェリーに乗る友人を見送ってから汽車に乗ることにしたい。


 その日、博多で新幹線に乗り継ぐことができなかったら、森先生のお宅に泊めてもらえるようお父さんからもお願いしておいてください。旅費などの送金はすこし余分におねがいします。


 博多の森先生というのは、父の高校時代の同級生で、福岡市の渡辺通りというところで産婦人科病院を開業している。


 学会などで上京すると、かならず公平の家にやってきて、


「おくさん、なんで医者の私が、坊主のこいつと仲良うせんといかんですかな?」などといいながら、酒をのみ、さいごはきまってドイツ語のリート(歌曲)を本格的発声法で歌いだすのである。


 そんなとき父はいつも聴き役に回っているらしく、父の歌声が公平の部屋にきこえてくることはなかった。


 翌日、そのわけをきいた公平に父は笑いながらこうこたえた。


「森は、久志高校(というのが、父たちの母校の名だ)創立以来の名テナーといわれたやつで、おれは音痴で有名な生徒だったんだ」


 名テナーと音痴、医者と僧侶、長身と短躯…どこといって相似点のなさそうな森先生と父の友情は、高校以来三十年も続いているそうだ。


 いまの公平にはそれは気の遠くなるようなふしぎなことに思えてならない。


 はたして自分は杉や川西や村田やテッチーなどとそのように長く豊かな友情を持続することができるだろうか。持続したい、持続すべきである─と公平は思う。


 公平は、どちらかといえば父親っ子で、子どものころから母には話しづらいこと──学校で先生に叱られたとか、友だちの模型機関車をこわしてしまったとか──を、父にはなんでも打ち明けた。


 けれども、昨夜の父への手紙には辻明子のことも、中上光子のことも書かなかった。これまでも書いたことはない。


 子どもならだれでも親に対する二つの顔をもっているものだ。


 一つは「親にしか見せない顔」であり、もう一つは「親には見せない顔」である。


 幼いころの子どもは、前者の顔しかもってない。親にすべてをゆだね、頼りきっている顔である。


 けれども、いつか子どもは「親には見せない顔」をもちはじめる。


 それは子どもの成長の一つのしるしでもある。


 いま、公平もまた親には見せることのない顔をもちはじめたのである。



 青年は親からはみ出す。


 時々親をばかにする。


 しかしいよいよといふ時には


 いつでも母をよび父をよぶ。


 親は青年のいきおいに驚く。


 それを見て生きるかいがあると思う。



 高村光太郎の『青年』という詩の一節である。


 公平は、この詩を図書室の詩人全集のなかに見つけたとき、自分の心を言い当てられたような気がした。


 そして、ああ、だれでもそうなんだなあ、と安心したのだった。


 ところで、公平は目下かつて経験したことのない深刻な困惑のとりこになっている。


 それは一言でいうと、愛する者に誤解されている、というまことにやるせない困惑である。


 どこでどうなったのか、あの小舟沈没の一件が面白おかしく脚色されて校内に流布されているらしいのである。


 沈みゆく船上で、テッチーは─あの音痴のテッチーが、『蛍の光』を絶唱し、アンパンは愛する光子をひしと抱きしめて「死ぬなら一緒!」と絶叫した……とか、なんとか。


 まあ、今回はいつかのキス事件とはちがって、はじめから冗談として語られているので怒るわけにいかない。


 そこで問題になるのは、どこまでがホントで、どこからがウソかという、事実と虚構の境目が第三者にはわかりにくいということである。厄介な誤解が生まれる余地がそこにあるわけである。


 辻明子がへんによそよそしくなってしまったのだ。


 以前にはちょっとしたことで明子の好意を感じることがよくあった。


 朝礼のときなど視線が合うと、目のふちをポッと赧くしたり、かすかなほほ笑みを送ってくれたこともあった。


 ところが、いまはへんにかたくなに顔をこわばらせ見向こうともしてくれない。


 それだけならまだ、いい。


 耐えがたいのは、公平がそこにいることを知っていながら、全然眼中にないといったふうに、ほかの連中とばかに楽しそうにはしゃいでみせるのである。


 炊事室で出合ったときなんか、もっとひどかった。


 杉と二人でカップラーメン用のお湯をわかしていたら、そこへ明子がやってきた。


 たぶん水でも飲みにきたのだろう。


 あいにく余分なサンダルがなくて、廊下からセメント床の炊事室へおりてくることができない。


 すると、明子のやつったらまるで童女のような甘ったれた口調で、


「杉さん、おんぶ……」だと。チクショー! 人の気も知らないで!


 杉がまた杉で、日記に明子のことを「白い妖精」なんてかいたくらいだから、でっかい体の蝶番ちょうつがいが残らずはずれたみたいにめろめろになっちゃって、


「おう、よし、よし」だって! どいつもこいつも勝手にしやがれ!


 だがよくかんがえてみると、これも身から出たサビなのである。自業自得なのである。


 夜の浜を散歩しようといったのも自分なら、舟に乗ろうといったのも自分である。みんな自分がわるいのである。


 公平よ、いたずらに嘆き悲しむなかれ。


 少年の人生はいまはじまったばかりなのだ。


 野球でいえば一回の表で一死を喫したとろに過ぎない。ドンマイ! ドンマイ! 気楽にいこう。


 少年の恋には締め切り日はないのである。


 ………………


 そうして、ついにテッチーこと日高哲郎が鯛村を去る日がやってきた。


 それは夏休みに入って数日後のよく晴れた日のことだった。


 鯛村高校の教師と生徒たちは全員、登校してきた。自由登校でいいといわれていたのに、一人として遅刻する者もなかった。


 テッチーは、この日の朝、ちょっと泣いた。


 中村家での朝食のとき、おばさんが、


「もっとはしッと食べんね。明日ン分も、明後日ン分も食べんね」


 といって、すっと顔をそむけた。おばさんの目のふちは赤くなっていた。


「はい、おかわり!」


 テッチーは、威勢よく茶碗を突きだしながら、目じりからこぼれかけた涙を、片方の手でぱっとはじきとばした。


 尾っぽ館の若者たちもこの日まで帰省を延ばしていた。


 みんな、テッチーと同じバスに乗って、途中、杉だけが川辺という町で下車し、ほかの者は鹿児島まで行く。


 鹿児島の埠頭で、屋久島行きのフェリーに乗るテッチーを見送ったあと、川西は日豊本線の列車で宮崎へ、村田と公平は鹿児島本線の列車で博多まで行き、新幹線に乗り換える。


 村田は大阪まで四時間、公平は東京まで七時間、「ひかり」の客になる。


 そして四ヵ月間の成長をめいめいわが家へ持ち帰るのである。


 中村家から学校までの道筋で、テッチーは、いつもよりもっとふざけ放題にふざけて歩いた。


 公平の手のスポーツバッグをはたき落としたり、杉の背中に「スイカ投売り!」のビラを貼りつけたり──。


 学校に着くと、別れの挨拶をいう級友の一人ひとりに、


「こンまずか顔とも今日でお別れか」


「しっかり勉強し給え、せめて日高さんの半分は出来でくっごとならんと!」


「原田ヨ、親孝行を忘れッな!」


「中上さん、ハナがずんだれちょっが!」


「おお、山口さん、世話になった、苦しゅうない、近こう寄れ!」


 にくまれ口を叩き、悪態をつき、えらそうな口をきいた。


 しかし、ベルが鳴り、講堂に入るころ、テッチーの口数はにわかに少なくなった。


 顔色が異常なくらい青ざめていた。


 先生たちが講堂に現れ、松山先生がテッチーに前に出るようにいった。


 テッチーは、青ざめた顔を伏せて、四十八人の同級生の前に立った。


 松山先生が話しはじめる。


「みんな、もう知ってるように、やんちゃ坊主のテッチー、日高くんが転校することになった。だけどテッチーはいつまでもぼくらの仲間だし、もし戻れるとき、来年でもいい、再来年でもいい、いつでも帰ってきなさい。みんな待っている…」


 テッチーの我慢もついにここまでだった。


 彼はいきなり泣きだした。ウォーッと声を放って泣いた。


 何十年に一度の集中豪雨みたいな泣きかただった。



 さらば さらば わが友


 しばしの別れぞ いまは


 身はさかり行くとも 心はひとつ


 いつの日にか また相見む


 さきくませ わが友



『別離の歌』がうたわれているあいだも、テッチーの号泣はやまなかった。


 今日はとくに鯛村高校への坂の登り口で停まってくれるバスに乗るために、講堂を出、廊下を歩き、玄関から校庭に出て、校庭を横切り、坂路を下ってバスにたどり着くまで、テッチーは泣きどおしに泣いていた。


 だから彼はただの一言も別れのことばを述べることができなかった。


 言葉が何であろう。テッチーは彼のすべてをさらけ出し、激しく純粋な告別をしたのである。


 バスが網部落を通過するころ、テッチーの泣き声はようやくんだ。


 岬の高みを走るバスの窓に顔を押しつけるようにして、鯛村の入り江と集落の風景に見入っていたテッチーが、泣きはらした目をふっと照れくさそうに微笑ませ、


「アンパン、ほら裏山が見ゆっど、ようあそにエスケープしたね。アンパンがアンパン食うた、アンパンの丘や」といった。


 そのとき、バスは岬のはなを曲がり、車窓に新しい風景がひらけた。  (完)


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