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少年小説 アンパンの丘  作者: 丸山寛之
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第5章

少年小説 アンパンの丘    丸山寛之


 第五章


   1


 公平が図書室で大判の美術全集のページをめくっていると、辻明子が、さりげなく近寄ってきて、聞いた。


「山本さん、『女生徒』を読んどらるっとな」


 アンパン、ではなくて、山本さん、と呼んで、目が合うとふと顔をあからめた。


 公平もとたんにどぎまぎしながら、


「女生徒……、あ、読んだ」


 口調はかえってぶっきらぼうになってしまい、あとでそんな自分がつくづくイヤになるのだった。


「そしたら、つぎにかしてね」


「いけねぇ!」


 公平は反射的に立ち上がった。


「尾っぽ館に置きっぱなしだった。取りに行ってくる」


「いいの、いつでもいいの」


 あわてて止めるはずみに、明子の手が公平の肩のあたりにふれた。


 瞬間、公平の体はビリリ……と感電した。


 明子はかわいそうなほど真っ赤になって、大きくてきれいな目がまっすぐ公平をみつめている。


 公平はどうしようもなくうろたえて、「あ……」とか「そう……」とか、もごもご口ごもりながら、また腰を下ろしていた。


 われながら不恰好だなあ、と思ったけど仕方なかった。


 もう二週間以上も前に、その題名に好奇心をそそられて、太宰治の『女生徒』という小説を図書室から借り出した。


 書架の本を抜き取ったあとに立てておく三角板の記入を見て、明子は、その本を借り出したのが公平だと知ったのだろう。


「だけどまずかったなあ。ヘンな本を読んでるの、知られちゃった」


 公平はまわりを見回しながら言った。


 放課後の図書室には、四、五人の生徒が残って本を読んだり、ノートをとったりしている。


「どうしてヘンな本なの?」


 明子がふしぎそうに小首をかしげた。


「『女生徒』なんて、げんなかよ(恥ずかしいよ)」


 公平がそう言うと、明子は明るい笑声をあげ、公平のとなりの椅子に腰かけた。


 ふっといい匂いが流れた。白いブラウスに包まれた少女の素肌の清潔な匂いだった。


 公平の胸はわくわく浮きっ放しで、うっかり口を開けると、なんかとんでもない言葉がとび出しそうだった。


「ああ、運命の神、モノモライよ!」と、公平は心のなかで叫んだ。


「あなたもときには親切をなさるんですね」


 モノモライとは、ギリシャ神話に出てくる運命の女神「モイライ」の名を、公平はれいによってそそっかしく「モノライ」とおぼえ込み、それをさらにもじってモノモライにしたのである。


 すると、このとき、机の向かい側にすわった、〝団長〟こと福田重治が、読んでいた本から顔をあげて、


「おう、アンパンがとろけそうになっちょっが」と冷やかした。


「……らしくないスか」


 公平がこたえると、団長はニヤッと笑い、


「らしくない、らしくない。もちっと、はしッとせんな」と言った。


 何かことあるたびに「らしくあれ!」というのが、鯛村青年団長でもあるこの年長の同級生のとくいの台詞だった。


 若者は若者らしくあれ! 高校生は高校生らしくあれ!


 しかし、いったい、高校生らしい高校生とはどんな高校生なのか。


 じつはこの問題をめぐって、公平は、団長に論争をいどみ、あっさりひねられたことがあった。


 ──それは六月はじめの中間テストが終わったあとのある日のことだった。


 国語教師のダルマさんが、授業をはじめる前に笑いを噛み殺すような顔で、


「えー、ひとこと注意しておく。こないだのテストでじつにあっぱれなカンニングをやってくれた連中がいる」と切り出した。


 一瞬、しんとなった生徒たちに背を向け、ダルマは黒板に、


 高浜虚子


 水原秋桜子


 と、書きつけた。


「これを女性の名だとお思いになってる人がいたんだ。それも一人じゃない、三人もいらっしゃる。カンニングよりもこっちのほうがむしろ重大問題だ。いったい、おれは何を教えていたんだろう。ガクゼンとして、このお三方の答案をこまかく比べ合わせてみて、またもやおどろいた。はじめから終わりまで一言一句ちがわないんだ。虚子や秋桜子のことを〝彼女〟と書いてるとこ、他山の石を、多山の石とまちがったとこ、そのほか全部同じなんだ。じつに堂々たるもので、かえって恐縮したくらいだ。これだけ言えば思い当たる者がいるだろう。ま、今回は大目に見ておく。以後自覚すべし」


 ダルマさんがそう言って、授業に入ろうとしたとき、団長が、


「先生」と言いながら起立した。


「これはだいじな問題ですから、もっとよく話し合いたいと思います。そういう不心得者がわれわれの仲間に居たということは、われわれ全員の恥だし、われわれ全員で反省すべきだと思うんです」


 ウソつけ! と公平は思った。


 煮えたぎる熱いものが、腹の底から頭のてっぺんへ向かって噴出するようだった。


「……高校生たる者は、あくまでも高校生らしくですね」


 そんな団長の声が、爆発寸前の公平の耳に入った。


「ハイ!」と手をあげて、つぎの瞬間、しまった! と思ったが、もう遅い。


「アンパン、じゃない、山本くん、どうぞ」


 団長が落ち着きはらってうながした。


 仕方がないから立ち上がり、公平は言った。


「えーとですね、ぼくはカンニングってそんなに悪いことじゃないと思うんです。いや、悪いことなんだけど、高校生らしいとか、らしくないとか、そんなことじゃないと思うんです。いや、どっちかというと、カンニングって高校生らしいことだと思うんです」


 自分でも何をいってるのかわからなかった。ちがう、こんなことを言いたいんじゃないんだ。


 問題はカンニングのことじゃないんだ。


 それにかこつけて、全員の恥だとか、高校生たるものは……とか、そういうインチキくさい、そうだ、偽善だ、それこそ若者らしくない、高校生らしくないことではないのか。


「おい、おい、無茶いうなよ」


 ダルマさんが苦笑しながら口をはさんだ。


「なぜ、カンニングが高校生らしいことなんだい?」


「それはですね、試験があるからカンニングもあるわけで、じゃ、なぜ、試験があるかとえば高校生だからで、だから高校生にはカンニングがつきものってことになるわけです」


「ほう! アンパン式三段論法だな。そういうのを詭弁という」


 ダルマさんがいった。


 つづいて、団長が演説をぶちはじめた。


「こういう意見が出る以上、やはり問題はハッキリしておいたほうがいいと考えます。カンニングは、はたしてそんなに軽視していいことなんでしょうか。私はそうは思わない。カンニングとは、日本語でいうと不正行為です。明らかに不正なのです。同時にこれはおたがいの友情と信頼関係に対する裏切りでもあるわけです。カンニングをした人たちは、ここで謝罪すべきだと思います。どうでしょうか、みなさん!」


 それはないよ。そんなひどいことってあるかい。まるで人民裁判じゃないか。


 そう思う一方、このとき、公平の心の片隅にチラッと、恥ずべき好奇心─低劣なピーピング・トム(のぞき見野郎)の心理が生じた。


 いったい、だれなんだろう? 秋桜子をアキサクラコと読んだケッサクな級友は…?


「待ってください」


 杉が立ち上がった。


「もう、よかじゃなかな」


「ないごて、よかとな」


 団長がねちっと反問した。


「ないごてチ、そげんことしても意味がないからです。カンニングはたしかに悪いことです。しかし、それはその人が自分で反省すればよかことじゃなかでしょうか」


 ここで、杉の意見は思わぬ方向へ脱線しはじめた。


「おいもカンニングをやったことがあります。前の学校におったとき、カンニングがばれて、試験中に立たされたことがあります。教室中の注目を浴びて、恥ずかしくて、みじめでたまらなかったです。そのとき、私は悪いことをした、と心から反省したでしょうか? いや、おいは、こう思うたとです。もっとうまくやればよかった!」


   2


 なぜ、自分たちはこんなに要領がわるいのだろう。


 どうして、こうも、なにごとにおいてもぎこちなく、不体裁なんだろう──と、公平は思うことがある。


 優柔不断か、しからずんば軽挙妄動か。いつでもこれのくり返しである。


 内心ぐずらぐずらと思いまどうばかりで、スパッとしたところが、ない。


 そのくせ、とんでもないときに、われながら呆れ返るようなおっちょこちょいをしでかす。


 躁と鬱。


 寡黙と冗舌。


 臆病と蛮勇。


 自己熱愛と自己嫌悪。


 そのほかさまざまな正と反のあいだを、あっちへ行き、こっちへ行く。


 そうして始終ぶざまな試行錯誤の連続だ。


 これは果たして自分だけのことなんだろうか。


 それとも、だれもが一度は経由する青春という時代の通性なんだろうか。……公平にはわからなかった。


 ──カンニング論議は、そのうち、実社会はそんな許容が通用するほど甘いものじゃないよ、という団長の説教に対して、社会が甘いものでないのなら、せめて学校にいる間だけでもたがいに許し合い、かばい合うことにしたらいいではないか、と杉が熱弁をふるうといったふうに、どんどんエスカレートし、しまいにはダルマさんが、


「まあ、このへんで行司預かりとしょう。もうじゅうぶん目的は達したようなものだ。ね、団長、そうじゃないか」


 と、引き分けを宣告し、そして、れいの゛とく全員声をそろえて歌をうたって幕─になったのだが、このときばかりは合唱ってほんとにいいものだなあ、と公平もしみじみ思ったものである。


 図書室で辻明子とならんですわった公平を、団長がからかったとき、公平が、


「……らしくないっすか」と言い、団長がニヤッと笑ったのは、そんないきさつがあったからだった。


 それにしても──と公平は思う。


 おれの心はいったいどうなっているんだろう。


 あれほど深く中上光子に傾倒していたのに、いまは辻明子のそばでわくわく天にものぼる心地である。


 町なかのアパートじゃあるまいし、心のなかに住まわせる人を、そうくるくる変えるなんてあまりにも無節操ではないか。


 しかし、そんな反省など、いまはまるで何の力も示しはしなかった。


 いまの公平にとってはち、むしろこれまで自分が辻明子の清純な(そうだ! 清純というこのことばは、まさに辻明子のためにつくられたものにちがいない!)魅力に気づかなかったことが、ふしぎなくらいだった。


「山本さん、夏休みはどげんしやっとな」


 明子がいった。


 こんななんでもないことばでも、明子の口から発せられると、まるで天来の妙音のようにきこえるのである。


「家に帰る」


 と、公平はこたえて、もうすこしなんとかいいようがありそうなものだと、自分が情けなくなる……。


「東京みやげを頼むよ」


 団長が、向かい側から野太い声を投げて寄越した。おとなって無神経だなあ!


「いいですよ。でも、あとで高校生らしくないみやげだったなんて、言いっこなしですよ」


 ほかの人にはこんなにすらすら軽口がきけるのに……。


「そしたら二学期も来やっとな?」と、明子。


「もちろん。どうしてそんなこと聞くの?」


「一学期でガッカリして、もう来やらんとかと思って……」


「そんなことないよ!」


 公平は、力をこめていった。そんなことがあってたまるものか!


「ほんと!」


 明子はニコッと笑った。


 公平にはその微笑が、ほんと! うれしいわ! という意思表示のように見えた。


「ああ! 運命の神、モノモライよ!」


 ふたたび、公平は心中で叫んだ。


「今日のあなたは、なんと慈悲ぶかい女神であることでしょう!」


 幸福はさらにつづいた。


 夕方近く雨がふってきたのだ。


 梅雨の終わりごろの、雷と一緒にやってきて、さっと烈しくふって通る雨である。


 傘のない公平を、明子が尾っぽ館まで送ってくれた。明子の家があるのは反対方向の網部落なのに──。


「丁度よかった。『女生徒』借りて帰るわ」


 同じ傘のなかに明子と入って、学校から尾っぽ館までの三〇〇㍍ほどの道を、公平はむっつりと押し黙り、こちこちに硬くなって歩いた。


 知らず知らず早足になるので、もっとゆっくり歩いてと、明子にいわれたが、そのうち、明子にも公平の緊張が伝染して、二人はなにか追われるようにぎくしゃくと歩いていた。


「明日も雨かしら……」


 明子がいった。


「そうかもしれない」


 公平がこたえた。


 二人が傘のなかでかわした会話は、それで全部だった。


   3


 公平と明子が相合傘で来るのを、尾っぽ館の中から最初に見つけたのは、川西だった。



「おおっ!」


 川西が、まるではじめて自動車を見る未開人みたいに窓の外を指差し、杉も村田もテッチーも、窓辺に走り寄った。


「やるじゃんか!」


「よう似合うとっが!」


「アンパンがカチカチの乾パンになっちょっが!」


 口々にはやしたてたが、二人が玄関に入っていくと、そこに出てきたのは川西だけだった。


 なぜか、ほかの三人は出てなかった。


 そして、部屋のなかに重い沈黙の気配があるのが、壁のこちら側からも感じとれた。



 その奇妙な雰囲気のへやにとび込んで、明子に渡す本をさがし、公平はふたたび玄関に出て行った。


「はい、これ…」


「ありがとう。さようなら」


 去っていく明子の後ろ姿を、あっ! 行ってしまう! と、胸のなかでつぶやき、公平は見送った。


 夕闇の雨の村道に白い清楚な花が消えた。


 へやのなかに入ると、川西が叫ぶような口調で告げた。


「テッチーがいなくなるんだ! 屋久島に帰ってしまうんだ!」


 川西の目のふちが赤くなっていた。


 テッチーは、青白い顔を公平に向けてふっと笑ってみせた。


「二学期から屋久島高校に転校すっで……。今日、おやじから手紙がきた」


「そうなのか…」


 重苦しい沈黙はそのせいだったのか。


「でも夏休みまではいるんだろう」


「うん、七月いっぱいは居っど。鯛村の空気を吸いだめしていっが」


 テッチーは空元気を出してそういった。


「じゃ、まだ一カ月もあるわけだ。よし、がんばってあそぼうよ」


 公平がいうと、みんなが笑い、すると、それまで黙り込んですわっていた杉が、村田に握手を求めるように手をのばし、


「ムータン、もう仲直りしもそ!」


「あ、ごめん、わるかった!」


 村田がぺこんと頭を下げ、杉の手を握った。


「あれ? どうしたの?」と聞く公平に、川西が、いかにもほっとしたように笑いながら、


「いや、なんでもないんだ」


 それから、


「さあ、みんな、食事に行こう」


 中村家へ行く道で、三人よりわざとすこし遅れて歩きながら、川西は、杉と村田のケンカのいきさつを公平に説明した。


 村田が、杉の日記をぬすみ読みして、それだけならまだしも、つい調子にのって、日記のさわりの部分を暗唱して、杉をからかった。


 杉がカッとなって一発パンチをとばしたのだという。


「さわりの部分って…?」


「それが、さっき来た辻さんのことらしいんだ」


「えっ!?」


「T子としか書いてないらしんだけど、どうもそうらしい。杉さん、好きらしいんだ」


 川西の話は「らしい」の連続だったが、その一語、一語が、まるで霊能者かなにかの断言のような強いひびきで、公平の脳天を直撃した。


「どんなことが書いてあったの?」


「T子…白い妖精とか、ぼくは恋に落ちたのだ、いまのこの気もち、これが恋というものなのだ、とか…」


「それを杉さんの前でムータンが暗唱したの?」


「そうなんだ、冗談いい合っていたから、うっかり出ちゃったんだろうね」


「それは怒るよね」


「すごい形相だった」


 なるほど、白い妖精か! ぼくは恋に落ちたのだ、か! ふーん……。


 公平の心はたちまち重く、暗く沈みはじめた。


 彼はいま、生まれてはじめてライバル(恋がたき)というものをもったのである。


    4


 雨は、翌朝までのこった。


 尾っぽ館の連中が、中村家に朝食に行こうと玄関を出たときだった。


 しとしとと雨のふりつづく鯛部落の通りを、黒い雨合羽で身支度した一団の男たちが、妙に切迫した気配をただよわせて駆け去った。


「あれ? 団長じゃなかったけ? おーい、団長!」


 テッチーが叫んだ。


 男たちのなかの一人が、駆け去りながらふり返り、ちょっと手をあげた。


「なんだろう、青年団の行事だろうか?」


「団長は、消防団にも入ってるんだって、そっちのほうじゃないかな」


「火事?」


「いや、船が難破したとじゃなかな」


 ──そうではなかった。


 中村家に着いて、聞いた話では、塩部落の十七歳の娘が投身自殺をしたのだそうだ。



 昨日から行方を捜していたのだが、おそらく岬の突端から身を投げたのだろう。


 今朝早くその近くの磯の瀬岩のあいだにただよっている彼女を発見した。


 海が荒れているので遺体の収容に手間取っているようだ。


 鯛村では何十年間に一度もないような事件だった。


「ばかなことをしたもんじゃ。若気の身勝手ちゅうもんや」


 おばさんが言った。


 身投げした娘の家には、二年前に後妻にきた若い母親がいて、この春、赤ん坊が生まれたばかりだ、という。


 その人の苦しい、つらい立場を思いやると、死んだ娘が腹立たしくてならない。おばさんはなげき、怒っていた。


 どんな娘だったのかときいたら、


「目の大きか、顔色のわるい、痩せた子じゃった」とおばさんはいった。


 公平の脳裏にひとつの映像がクローズアップのように浮かび上がった。


「ムンクだ!」


 昨日、図書室で見た美術全集のなかにあった一枚の絵を思い出した。


 目の大きな、青白く痩せた裸の少女が、貧しげな部屋の粗末なベッドの上にこちら向きに腰かけている。


 病み上がりのような生気のない顔だちと貧弱な肢体、まるで魅力というものに乏しいその絵の少女のなかで、ただ一カ所、若い力を感じさせるのは、眼である。


 なにかひたむきな色をたたえ、精一杯、大きく見ひらかれたその眼は、少女の生きる意志の象徴であった。


 ムンクは、その絵に「思春期」という題をつけていた。


 そうなのだ─と公平は思うのである。


 思春期─子どもと大人のあいだのこの厄介な宙ぶらりんの時代の本質は、けっして明るいものでも、愉しいものでも、溌剌と生気あふれるものでもありはしないのだ。


 暗く、まずしく、たえず苦悩と挫折に直面しながら、しかし、それでも明るく、愉しく、溌剌と生きているように見えるのは、苦悩も挫折も精神の栄養として摂取する、若い力のせいなのだ。


 若いひたむきな意志、それが苦悩を歓喜に転化させるのである。


 海へわが身を投じた少女は、その若い力を失っていたのではないか。


 昼過ぎ、鯛村の人びとは、ふたたび悲報に接することになった。


 死んだ娘の若い継母が、同じように岬の突端から身を投げたというのである。


 この二度目の投身事件は、尾っぽ館の若者たちにも、いっそう大きなショック─言い知れぬ精神的打撃を与えた。


 彼らはたがいに自分が感じた微かに身のおののくような不安を隠そうとはせず、顔を見合わせていた。


 彼らは知ったのである。


 まだ漠然とではあるが、知ったのである。


 どんなに平和で静かなたたずまいをみせていようと、人の住む世界の底深いところにはかならず数知れぬ悲劇がわだかまっていることを─。


 雨が上がった。


 杉明夫と山本公平は、塩部落の岬の突端への細い道を歩いていた。


 潮風にいためつけられて枝の曲がった木や、丈の高い夏草のしげみをところどころに置いた、海ぎわを通る石くれだった小道である。


 人ふたりのいのちを呑んだ海をこの目で見よう、と言ったのは杉であった。


 むろん、それはけっしてたんなる好奇心などではなかった。


 二人は岬の突端に来た。


 そこは切り立った断崖になって、海を左右に分けていた。


 海は、暗い空に押さえつけられて、狂ったような波が烈しく岩にぶつかっては砕け、しぶきあげ、わきかえり、渦巻いていた。


 波涛は吹き上げる風に運ばれ、微粒の水滴となって、岩の上に立つ二人の顔を濡らした。


 目の前にある小島の岩影がかき消されるような瞬間もあった。


 いっさいのれや甘えを峻拒するかのような、たけだけしく酷烈な空と海のあいだで、二人の若者はただ声もなく立ちつくしていた。


 公平は、荒れ狂う海に向かって立ちつづけるうち、自分のなかに力強くたくましいものが生まれてくるのを感じた。


 そのとき、杉が叫んだ。


「よし! やるぞ!」


 何をやるというのか、それはわからなかったが、その叫びは、公平の気もちも余すところなく表現していた。


 公平も叫んだ。


「おれもやるぞ!」      (つづく)


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