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少年小説 アンパンの丘  作者: 丸山寛之
1/6

第1章 

 少年小説 アンパンの丘         丸山寛之


 第一章


   1


「坊や、ほら、あそこが鯛村だよ」


 夕闇がしだいに濃くなっていく海沿いの道を走ってきたバスが、ひとつの岬のはなを曲がると、となりの座席のおじさんが待ちかまえていたように、左手の車窓の向こうを指さした。


 眼下に現われた入り江に面して、豆粒のような灯火が二、三百個散らばっている。


「あ、きれいですね」


 山本公平がこたえると、おじさんはうれしそうにうなずいて、


「坊やは竜宮を知っとるかな?」と妙なことを言いだした。


「竜宮って、あの、浦島太郎の…」


「そう、そう。浦島太郎と乙姫のロマンスの舞台だね。あの竜宮ちゅうのが、じつはこの鯛村だったんだよ」


「ヘエ!」


「ちゅうことはだね、鯛村の娘たちは、乙姫の子孫ちゅうことになるわけだ」


「はあ…」


「なんちゅうても、かんちゅうても、よか嫁女よめじょが村中にウヨウヨしとる。坊やも勉強どころじゃなかごとなるぞ」


 おじさんはそう言って、途方もない大声で笑った。


 あごの下に白いヤギひげをはやした、このおじさんは、さっき途中の村からバスに乗り込んでくるなり、空席はいくらでもあるのに、「坊や、旅は道づれ」と、公平のとなりに腰をおろしたのだった。


 坊や、坊や、と呼ばれるのはいささか耳ざわりだが、見るからに楽天家みたいなこの人を公平はいやではなかった。


「うちのおやじと同じタイプだ」と思った。


 公平の父の山本行念は、その名からも推察できるように浄土真宗本願寺派の末寺の住職である。


 この春の高校入試で、すべり止めのつもりで受けた学校までものの見事に失敗したとき、あっはっはと笑って言ったものだ。


「くよくよするなよ。高校に落ちたからといって、『死刑に処する』という法律もないだろう」


 そんな法律があってたまるか!


 おやじっておれのこと本気で心配してくれてるのかな。そう思いながら、しかし、気もちがぐんとらくになったことも事実だった。


 父が、新聞の「地方だより」というコラムで、鯛村の高校の記事を見つけたのは、それから一週間ばかりあとのことだった。


「九州南端の海辺の村に、村の人たちが力を合わせて高校を設立した。同村出身の、ある私立学園の園長である老教育学者が全面的協力を約束し、教師はその学園から派遣されることになった。入学は無試験、能力別指導によって、できる生徒はどんどん伸ばし、遅れている生徒には基礎をしっかり教え込む。日本一小さいこの高校を、日本一愉快な高校にしたい─と、校長の松山先生は話している。」


 ざっとこんな記事だった。


「どうだい、公平、行ってみるか。おまえに向いてそうな学校じゃないか」


「なんだか、島流しみたいだな」


 公平が情けない顔をしたら、父は笑って、言った。


「それをいうなら、都落ち。行ってみろ。べつに取って食われもしまい」


 父は、そんなことばで不肖の息子を手ばなす自分をも励ましたのかもしれない。

 


 バスは、岬のはなから付け根の方へ、だらだらと坂道をくだっていき、海ばたにかたまった小さな集落の入り口で一人の乗客を降ろした。


「ここが網部落じゃ」


 おじさんが言った。おじさんの発音では、網部落が「アンブラッ」というふうにきこえる。


「そいで、坊やよ、あっちの岬の付け根にあっとが、塩部落じゃ。人間のからだでいうと右腕のわきが塩、左腕のわきが網、胸の乳と乳の間が、鯛部落。首の下辺りのところに、苗部落。山ひとつ越えた、右肩のうしろに当たるところに、竹部落ちゅうのがある。この五つの部落をまとめて鯛村ちゅうわけだ」


「高校はどこにあるんですか」


「鯛部落じゃ。高校も中学校も小学校も鯛部落じゃ。村役場も郵便局も農協も医者どんも鯛部落じゃ」


 バスは海ぎわの松並木の道を一㌔ほど走り、その鯛部落の通りへ入った。


 なるほど、村役場や郵便局の建物も目についたが、全般的な印象としては古い家並みを両側に並べた、いかにもひなびた静かな村道である。


 鯛部落のバス停留所は、集落のはずれに近い理髪店の前だった。


 公平は、五、六人の乗客と一緒にそこでバスを降りた。


 あとには、終点の竹部落までいくヤギひげのおじさんをふくめて、三つか四つの顔がバスのなかに残った。


「坊や、がんばれよ! 泣くんじゃないぞ」


 ステップに片足を下ろした、公平の背中に向かって、冗舌のしめくくりのようなおじさんの声が投げられた。


   2


「ああ、すげぇところに来ちゃったなあ」と公平はつぶやいた。


 それが鯛村の土に第一歩を印した感想だった。われながら意気の上がらぬ第一声だと思った。


 バスを降りた人びとが足早に立ち去ったあとの路上には、夜ふけのような静けさがただよっていた。


 さっき岬の道から見下ろしたときには、もっと灯火がにぎやかに散らばっていたようだが、いま目にする村のたたずまいは意外にほの暗く、もの寂しい感じであった。


「ずいぶんさびしい竜宮だなあ」と公平は思った。竜宮っていうより鬼が島だよ。


 泣きたいような気持ちで空を仰ぐと、まるいミルク色の月がぼんやり浮かんでいた。


 公平は、青地に赤いストライプのスポーツバックを下げて、別段、鬼が棲んでいるともおもわれぬ鯛村高校の寮へ向かって歩き出した。寮の場所は、さっきバスがその前を通過するとき、例のおじさんに教えられて承知している。


 通りの向こうからガラガラ下駄を鳴らしてこちらへやってくる人影が見えた。近づくと、


「やあ、きみ、山本くん?」


 いやに愛想のいい明るい声だった。


「えっ、ええ」


「やっぱり、そうか。ぼく、川西、尾っぽ舘の住人、よろしく!」


 テンポの早い歌うような口調だった。


 頭に毛糸で編んだキャップをかぶってニコニコ笑っている。


「尾っぽ舘、ですか?」


「そう、ほんとの名は尾方舘(おがたかん)っていうんだけどね、通称、尾っぽ舘。いま尾っぽが四匹すんでる。きみで五匹目」


 川西は言った。


「持とう」


「いえ、けっこうです」


 公平が渡すまいとするバッグを、川西は素早く引ったくり、


「せっかく迎えにきたんだから荷物ぐらい持つよ」


 さっさと歩きはじめた。


「あの、どうして、ぼくのことわかったんですか」


「あ、それはね、山本くんが四、五日中にやってくるだろうと、松山先生にいわれてたから、毎晩交替で終バスが着くと迎えに出てたの。今日はぼくの番だったってわけ」


 川西は明るいよくひびく声でそう言った。


 公平は、このとき、自分の胸が何か名状しがたい熱いもので満たされるのを感じた。



 公平はその自分の気もちを言葉に表して告げるべきだと思ったが、口から出たのは、



「ああ…なるほど…」という間の抜けたつぶやきだけだった。


 すこし歩くと、小さな川に短い石橋がかかっていた。道はその石橋のたもとで川沿いの道と交差している。川伝いに山のほうへすこし行くと小学校がある。海のほうへ行くと塩部落で、そこに防波堤で囲った舟だまりがある、と教えたあとで、川西はクスッと笑った。


「ねえ、この橋の名、何ていうかわかる?」


「さあ…」


「大橋っていうんだ。ずいぶん豪勢なネーミングだと思わない?」


「じゃ、この川の名は…」


「そう、大川。鯛村でいちばん大きい川にはちがいないんだけど」


 川西はそこで語調をかえて、


「小さいながらも川があって、海があって、砂浜があって、山があって、野原があって、畑も田んぼもある。自然のものは何でも一そろいそろってるけど、そのかわり、映画館はない、パチンコ屋はない、ボウリング場もない、食堂も喫茶店もない。鯛村って完璧な別天地なんだよね」と言った。


 単なる僻地の村もそんなふうに説明されると、なんだかとくべつなイメージを与えられたみたいで、ものは言いようであった。


「要するにすげぇ田舎だってことですね」


「そう、要するにそうなんだけど、でも、ただの田舎じゃないよ、きみもそのうちわかるとおもうけど」


 川西は、ちょっと先輩風を吹かした。いったいに川西の口のききようや様子には大人びたところがある。


 橋を渡って二、三十㍍歩くと、尾っぽ舘。


 もとは医院で、そのお医者さんの名をとったという尾方舘は、いかにもそれらしい白いペンキ塗りの洋風の建物だった。低い石垣で通りから仕切られた、玄関先の小さな築山にソテツが一本植わっていた。そこまで来ると、


「ヘーイ、山本くんだ、山本くんだ!」と叫びながら、川西は玄関のなかに走り込んだ。そういうところは子どもっぽい感じだった。


 すると、どたどたと床板を踏み鳴らして、四、五人の若者が飛び出してきた。明るい電灯の光の下で、どの顔もニコニコ笑っている。


 紺絣の着物を着た背の高い青年が、


「ようこそおさいじゃったもした!」


 方言まるだしの陽気な歓迎の辞を述べた。


「エー、通訳します。よくいらっしゃいました」と言ったのは、色白の小柄な少年だ。


「まあ、部屋に入ったらどうだね」


 詰襟の学生服を着た、しかし、どう見ても高校生には見えぬ年かさの人に促されて、みんなぞろぞろと玄関の左手の部屋に入った。


「ここが、われわれの学習室」と川西が言ったら、すかさず、


「兼、娯楽室」


 アメフトの選手みたいな頑丈な体格の青年が補足した。


 八畳ほどの広さの部屋のなかに教室用の机が六つ、向かい合わせに並べてある。椅子は七つか八つはあるようだった。


 部屋の一隅に作りつけの、かなり大きな本棚があって、教科書や参考書にまじって小説や詩集があり、まじない全集とか世界七不思議といった本の背文字も見えた。尾っぽ舘の住人には、文学青年もいるし、好奇心の強い雑学博士もいるようだった。


 めいめい椅子に席を占めると、自己紹介をはじめた。


 意外なことに紺絣の青年、杉明夫と毛糸のキャップの川西文雄は、ことし三月、杉は鹿児島の、川西は宮崎の県立高校を卒業している。ここに一年いて、来春は、東京の学園の大学に進むことになっているのだという。道理でヒネてると思った。


 一方、色白の少年、日高哲郎は屋久島の中学校から、アメフト型体格の村田正彦は大阪の私立高校の一年を修了して、それぞれ鯛村高校に入学した。早生まれの日高は十五歳になったばかりだが、杉や川西は誕生日がくると十九歳になる。しかし、名目上はみんな鯛村高校一年─すなわち同級生なのだという。いったい、この学校はどうなってるのだろう。


「おどろくのはまだ早いよ」


 川西が言った。


「二十五歳の同級生だっているんだから」


「えっ」


 公平は、思わず、まだ紹介を受けてない年かさの人に目を向けた。とたんにどっと笑いが起こった。


「ほらね、ぼくだけじゃないでしょう。イーノック先生」


 日高がうれしそうに言った。イーノック先生と呼ばれた人は、自分でもさもおかしそうにフフッと笑ったが、


「きみ、ほんとにぼくが高校一年生に見えるかね」と、公平に顔を向けた。すると、公平がこたえるより先に、


「見える、見える」


 村田がボールペンのCMの口真似をした。


 イーノックこと児玉謙一郎は、英語の教師なのだが、生徒のなかには二十三歳の彼よりも年長の者が三、四人いる。その連中が背広など一着に及んで、学生服のイーノックさんと話していると、メダカの学校ではないが、だれが先生やら生徒やらわからない。


 鯛部落の背後にある丘─名前だけは「弓張山」とりっぱな名で呼ばれる低い丘─を切り拓いて建てられた小さな木造校舎の完成は、村びとこぞっての労力の提供なしにはありえなかった。


 その勤労奉仕の主力だった青年たちの何人もが、「おいどんたちの高等学校」の一年生になった。「二十五歳の同級生」は、そんな人たちなのだった。


 日高も、公平と同じように学校がはじまってから遅れて入学したので、はじめイーノックさんを生徒と間違えて、「オッス!」なんて挨拶したのだそうだ。


「ぼくだっておどろいたよ。新任式のあとで図書室に行ったら、ひげの生えたおじさんがたばこをのんでる。どうぞ、と差し出すから一本もらって、先生、教科は何をご担当ですかってきいたら、いえ、私は生徒です、って。これはえらいところに来たなあと思ったよ」


 イーノックさんはそんなことを言った。


 イーノックさんのほかに国語のダルマさん、生物のブチさん、音楽のバッタさんの、四人の独身教師が、尾方舘の個室をひと部屋ずつ占拠している。


 生徒たちのほうは学習室の奥の、かつての入院患者用の大部屋が寝室で、木製のベッドが等間隔に置かれてある。そのなかの一つが今夜からの公平のねぐらになるわけだ。


 それにしても、教師と同じ屋根の下で寝起きするんじゃ息がつまるだろうなあ。


 そんな公平の表情を読みとったのか、杉がニヤニヤ笑いながら言った。


「山本くん、先生たちと一緒じゃ、あんべぇわるいなあと、かんがえとっとじゃなかなあ」


「えっ、いや、べつに……」


「そんなことないよね。かえってうれしいこと多いもんね」


「そう、仰げば尊し、わが師の恩」


「和菓子とは、マンジュウのことなり」


「おっさん、ほんま、ええこと言うわ」


 生徒たちがいっせいに囀りはじめた。


 イーノックさんは、苦笑して、ズボンのポケットからむきだしの紙幣を取り出した。



「ほうらね、ええことあるやろ」


 村田が、懸賞を受け取る関取のように手刀を切ってイーノックさんの手から一枚をかすめ取ると、


「テッチー、行こか」


 日高を誘って夜の通りへ飛び出していったが、やがてあんパンの入った紙袋とジュースの缶をそれぞれの手にかかえて戻ってきた。


 配給されたあんパンを口に入れて、公平は、あんパンというもののうまさを生まれてはじめて知ったような気がした。


 その夜、尾っぽ舘の若者たちが寝についたのは十一時過ぎだった。公平が窓ぎわのベットにもぐり込み仰向けになると、天井に大判の白い紙が貼ってあるのが目にとまった。よく見ると、それは英語の不規則動詞表で、となりの川西のベッドの真上の位置に当たる。


 川西の向こうの日高の上の天井には元素記号表が貼ってある。杉の頭上には何も貼ってなく、いちばん奥の村田のところには水着の女性のカラー写真が見えた。


 公平は、いまこの部屋のベッドで眠りにつこうとしている自分を思うと、なにか不思議な感概にとらえられた。


 昨夜は十六年間暮らした東京のわが家で寝たが、今夜は九州南端の村に運ばれて、かすかな波の音を聞きながら眠ろうとしている。……


「坊や、泣くんじゃないぞ!」


 バスの降りがけに投げられた、ヤギひげのおじさんの声が、ふと耳によみがえるようだった。


   3


 翌朝、公平は頭の上の窓を叩く音で目をさました。外で何ごとかを叫ぶ女の人の声。



「こら、朝寝坊ども! いいかげんで起きらんか! それとも今日は朝飯抜きにすっとか、そんなら下宿屋は儲かっでよかがね!」


 その声を聞くと、若者たちはバネじかけのように跳び起きた。


 なるほど、窓を開けると、空にはかなり高くのぼった太陽がうららかに照っている。


 尾方舘の住人たちは、教師組は鯛部落の野口さんという家で、生徒組は中村さんという家で、食事の世話を受けている。

 いま、若者たちをふるえ上がらせた号令の主は、中村家のおばさんだった。


 若者たちは、手早く服を身にまとい、尾方舘の裏手のポンプ井戸で顔を洗うと、教科書やノートや筆箱のたぐいを携えて、朝食の待つ家へ向かった。中村家は尾方舘から高校への道筋にある。


 通りから海辺のほうへ引っ込んだ路地の奥の、中村家の木戸のところから、杉も、川西も、村田も、日高も口々に大きな声で、


「おはようございます!」と言いながら入っていった。だれもがなかなか行儀のいい若者に早変わりしていた。


 それに対して家の中からも、


「おはよう!」という威勢のいいへんじが返ってきた。さきほどのあの号令と同じ声だった。


 公平がみんなのあとからおっかなびっくり入っていくと、


「おや、あんたが山本くんね?」


 想像したよりも格段にやさしい顔が、こぼれるような笑みを浮かべていた。


 しかし、そのやさしい顔が、公平がごはんを一杯でやめようとしたときには、ちょっとおっかない感じになった。


「腹のぐあいが悪かとね? 悪うなかとね。そんならもっとしっかり食べんね」


 人が、善意によっても他人を叱咤することがあるという実例を、おばさんは示したのである。


 鯛村高校は、鯛部落の入り口近くにある、村役場の横手の緩やかな勾配の坂道を三十㍍ほどのぼりつめた、丘の上に建っている。


 校門をくぐると、グラウンドと呼ぶには気がひけるような小石まじりの地面の広がりがあって、そこでソフトボールがはじまっていた。川西が、


「松山先生!」と呼びかけると、けっしてスマートとは言いがたいフォームでバットをかまえていた打者が、振り向いて、


「おお!」と手をあげ、こちらへ歩いてくる。


「先生、バット、バット!」


 次打者らしい生徒があわてて走り寄ってバットを取り戻した。


「やあ、きみが山本くんか。よく来たね」


 先生はそう言いながら手を差し出し、公平と握手した。眼鏡の奥になんともいえぬ人なつっこい目をもっている人だ。


「きみ、野球はやれるかね?」


「はい、まあまあ、です」


「ほう、まあまあ、か。卓球はどうかね」


「それも、まあまあ、です」


「そうか、好敵手が現れたな、そのうち手合わせしようや」


 松山先生はそう言って、


「勉強のほうはどうかね?」と、いきなり弱点をついてきた。


「いえ、それ、全然ダメです」


「ほう、全然ダメか、じゃ教えがいがあるな、いい生徒が来てくれた」と、恐るべきことを言いだした。


「数学なんか、どうかね」


「ソ、それがいちばんダメです!」


 公平は思わず身ぶるいした。何が苦手といって、世の中にこれほど苦手なものはなかった。たとえば、数学には方程式とかいうものがあり、それを解くことによってX・Y・Zといった未知数に特定の数値を与えることができるらしいのだが、公平の手にかかるとX・Y・ZはいつまでたってもX・Y・Zのままなのである。永遠の未知数、それが山本公平における方程式であり、いまや数学ときいただけでも微熱がでるくらいだった。


「そうか、では、好きなものは何だね」


 好きなもの? このとき、公平の頭に昨夜の尾方舘の光景がチカッとひらめいた。


「はい、好きなものはあんパンです」


「えっ!?」


 松山先生の顔に一瞬、怪訝な表情が浮かんだが、つぎの瞬間、はじけるように笑った。



「そうか、そうか、好きなものはあんパンか、こいつはいい」


 始業のベルが鳴った。


 松山先生はまだ笑いながら、


「きみ、アンパンくん、みんなと一緒に講堂に行ってなさい」と、正面玄関から校舎のなかへ入った。


 公平は、校舎の端の昇降口で、下駄を脱いで、講堂へ入っていった。そこにはもう三十人ばかりの生徒が集まっていた。


 おどろいたことに、全員声を合わせて歌をうたっている。いったい、何がはじまったのか、尾っぽ舘の連中も、空いている腰掛けにすわるなり、一緒に歌いだした。それは、


 たたかうときも いこいのときも


 ぼくらのほこりは だんけつだ


 といったような歌詞だった。公平は仰天して、


「うへぇっ、ストライキか!?」と思った。


 入学早々、ストライキなんて冗談じゃない。


 そこへ松山校長を先頭に数人の先生たちが姿を見せたが、べつに動ずる気配もなく、それどころか自分たちもきげんのいい顔で歌いはじめた。


 ひとつの歌がおわると、どこかの一隅から別の歌声が起こり、すると、ただちに全員が合唱しはじめる。そうやって、二つも三つも歌がつづく。そのころには公平にも、これがこの学校の習慣なんだなあ、ということがわかった。


 ようやく歌がおわった。


 松山先生が、公平の名を呼んだ。公平は出ていき、みんなの前に立った。


「新しい仲間を紹介しよう」


 松山先生は言った。


「山本公平くんだ。まだ坊やみたいな少年だけど、東京から一人でやってきた。このごろは大学の入学式に親がついてくる例も多いのに、えらいものだ。勉強はあまり好きじゃないらしい。あんパンが大好きだそうだ」


 ここで、生徒たちがどっと笑った。


 公平は頭をかきながら見回すと、ひとりの女生徒の強い視線にぶつかった。きりっとした顔立ちの美少女である。


 松山先生に、挨拶しなさいと促されて、公平は「よろしくお願いします」とだけ言っておじぎをした。数学の次にこういうことも苦手である。


 と、ふたたびいっせいに歌声が起こった。


 うれしやわれら ここに


 新しき友 迎え


 結ぶ友垣 心はおどる


 How do you do?


 やまもとさん


 How do you do? do do


「歓迎の歌」という、この歌がうたわれているあいだ、公平は非常な困惑に耐えて立ちつくしていた。まるである種の宗教の入信儀式を受けるときのように─。


 こうして、山本公平は、鯛村高校の一年生になった。クラスメートは、男子三十二人、女子十七人。


 男子のなかには村の青年団長や消防団員など、風変わりな高校生もいる。学力の個人差がさまざまなので、英語、数学、物理、化学などはそれぞれAからFまでの能力別グループ学習である。


 杉や川西が全科目Aクラスであるのは当然としても、あの美少女、中上光子が英語のAクラスに入っているのを知ったとき、公平の向上心はがぜん燃えはじめた。


 ある朝、公平が忘れ物をして、ひとり遅れて尾方舘を出たところで、


「アンパンくん!」と呼び止められた。ふり向くと、中上光子だ。


「あ!」


 立ち止まった公平のそばに小走りに駆け寄って、


「ね、こんどの日曜日、私の家にあそびに来ない?」


「えっ!?いいの?」


「うちの父も会いたがってるの」


「おとうさん?」


「そう、会えばわかるわよ。きっとよ、ゲンマン!」と小指を差し出した。公平は、うろたえて、


「ヨ、よせよ、必ず行くから」


「あ、アンパンがてれてる」


 中上光子が笑う。風が光る。公平は天にものぼる心地だ。なんと爽やかな五月の朝であることだろう。        (つづく)


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