月の救い
前回、修羅の道を踏み出しかけたアシュルー。
接近する、呑気なお子様。
今回は悲惨な展開にはなりません。
でもちょっとだけ暴力表現? があるので、ご注意下さい。
奈落の最奥。
生命を弄ぶことに快楽を見出した者達の、享楽の遊び場。
外道としか言い様のない悪行を繰り返し、他種族を『人』と見ずに切り刻んだ者達の遊び場。
嘗ては研究室と呼ばれた部屋。
身を潜め、隠れていた『人間』達を引きずり出して挽き潰す。
『人間』が一人残らず死んだことを確かめると、アシュルーは部屋を漁り始めた。
火をかけ、燃やしてしまう前に。
彼には探し、見つけたいモノがあった。
『人間』の残した書類を漁り、戸棚の中身を掻き出していく。
アシュルーは、『人間』共の作った、数少ない『成功作』だから。
だからこそ、彼の望む記録は、確かに残されている筈で。
それを指摘した、翼のある友人をふと、思い出す。
想像の中、彼は眉を寄せ、悲しそうな顔でアシュルーを見ていた。
だけど今、アシュルーにとって彼の存在など些細なモノで。
何故、悲しそうな顔をするのか。
思い至ることもなく、アシュルーは想像を打ち消した。
後はひたすら、欲しいモノを探して室内を荒らすだけ。
最早、己と同じ境遇の者達も、憐れな囚人達も。
囚われ、檻の中で蠢く何者も、既にどうでも良くなっていた。
彼には何よりも、欲しいモノがあったから。
グターは血の道標を辿り、奈落の最奥に辿り着いた。
目にしたモノは、狂った様に室内を荒らし回るアシュルーの姿。
全身は血に染まり、鬼の様な形相で。
しかし憔悴した雰囲気に、泣き疲れた子供の姿が重なった気がした。
本来ならば、恐れるだろう、その変わり果てた姿。
だけどグターには、何故だか可哀想に見えて…
…何故か、ちっとも怖くなかった。
ただ、慰めたいとぽつりと思う。
「アー兄」
かけた声に、アシュルーの動きが止まる。
それまでは忙しなく、少しも止まらずにいたのに。
「…?」
グターの顔を見るアシュルーは、訝しげな顔をしていた。
まるで、グターが誰か分からないと言う様に。
怪訝な顔で、グターの正体を探る目。
警戒心に満ち、壊そうかどうか、思案する指。
誰何の声が上がる前に、グターはアシュルーに近づいた。
こんなこと、何でもない様に。
普段通り、いつも通りの変わらぬ仕草で。
「アー兄、何か探してるの? 俺、手伝うよ」
グターは、アシュルーの目から視線を外さなかった。
アシュルーの茶の瞳が、僅かに見開かれる。
ひたと見据える、満月の様な瞳。
魔族が崇める、夜の神と同じ瞳。
それは、種の根源に刻み込まれた崇拝を呼び覚ます。
それは、神を慕う、忘れてはいけない正気を呼び戻す。
半分だけの魔族でも、月の魅力はアシュルーを抗いがたく呼び覚ます。
種の記憶、魂の根源…そこから成り立つ、彼の正気を。
グター自身は、己の瞳が持つ効果など知らなかったが…
それは確かに、魔族を惹きつけてやまない、月と同じ色、同じ輝きだった。
アシュルーの心のどこかが、その輝きを確かに知っていると騒ぐ。
深い眠りに落ちていた、正気が不意に目を覚ます。
目の前にいる少年を、知っているはずだ。
己への問いかけに、アシュルーの頭は鈍く痛みを訴えた。
「グー…坊?」
「うん。何? アー兄さん」
自分を確認する声に、グターはにへらっと笑った。
微かに泣きそうな、揺るんだ笑み。
それでも彼の笑顔は、いつもと同じく、太陽の様に明るく力強かった。
月の瞳に、太陽の笑みを持つ子供。
嗚呼、コレは、自分が可愛がり、庇護していた子供だ。
アシュルーの正気は、今や完全に取り戻されようとしていた。
ふらりと崩れ、倒れる様に蹲ったアシュルー。
それを、グターはぼんやりと見下ろした。
本来であれば、慌てる場面。
だが、グターには心配など思いつかなかった。
アシュルーの心が、正常な働きを取り戻したのだと、分かったから。
ずっと能面の様な無表情を浮かべていた顔に、困惑という表情が浮かんだ故に。
嗚呼、彼は自分を取り戻したのだと…
グターは目を細め、慈しむ様に微笑んだ。
「アー兄、大丈夫?」
「あー…大丈夫、大丈夫。それよりテメェ、何で此処に?」
「何でって、酷いなぁ。俺、フェイ兄に頼まれてアー兄探しに来たんだけど」
「フェイルが…」
ぼんやりと、アシュルーの脳裏にフェイルが再登場を果たす。
今度は悲しそうな顔などしておらず、こちらを満足げにニヤリと見遣る。
何故か想像の中のフェイルは、彼には珍しい全開の笑顔をしていた。
「…っくそ。全部、お見通しか、あの野郎…」
地獄の底に轟く様な、おどろおどろしい低い声が出た。
グターが笑顔のまま、顔を引きつらせて一歩後退る。
何故か、先程までの壊れたアシュルーよりも、今の彼の方がグターには恐ろしく見えた。




