王女は身の危険を感じている。
マルリット王女(穀物神様)視点。
目の前に、目をキラキラさせた妖精の少年。
背筋を、戦慄が駆け抜けた。
いよいよ戦の終止符と、ほっとする思いで臨んだ調印式。
その最中、こんな目に遭うとは露とも思わず。
私は、進退窮まるという言葉を思い出しています。
「お久しぶりです、王女様。いえ、もう女王様ですね」
「そんな、戴冠もまだなのに、女王はちょっと。リンネさんも息災の様で…」
本当に久々の再会に、私達は手を取り合って喜びました。
この時は未だ、先の気苦労など知らずにいました。
ただ、ようやっと今日で一区切りできると。
この肩の荷も下りると、そう思っていましたが…
まさか今日が終わりもしないうちに、新たな気苦労を背負い込むことになろうとは。
「リンネさん、そちらの方は?」
「あ、ああ…うん。その…」
リンネさんにしては珍しく、歯切れが悪くって。
私はこの時点で、ちょっと悪い予感がしていたんです。
残念なことに、私の悪い予感はよく当たりますから。
だから、内心で冷や汗がだらっと。
食い入る様に私を見つめる、リンネさんの隣からの視線。
そこにいる妖精の、熱すぎる眼差し。
それを見た時点で、どうしてでしょう。
私は逃走したくて、仕方が無くなってしまったのです。
ですが今日は調印式。
主要人物の一人として、私は逃走するわけにもいきません。
私が此処で逃げてしまえば、『人間』は戦争を終わらせる気無しと取られてしまいます。
そうなってしまえば、最悪戦火が再燃します。
血みどろの『人間』絶滅なんてことにしない為、私は逃げられないのです。
…残念なことに。
「王女様、こちらは妖精のラティ。私達魔族の元に出向している妖精の貴族…みたいなもので」
リンネさんが、ちらりと横を見る。
そこに、ラティと紹介された少年の顔。
リンネさんは何故か、顔を青くしてさっと視線をそらせた。
…一体なんですか。
私の不安は、煽られて最高潮に達しようとしていました。
「お初にお目にかかります、王女様。私は貴女様がお連れの小妖精の兄、ラティと申します」
そう言って、妖精は深々と腰を折るのですが…
お辞儀しつつも、何故か私から視線をそらせない。
まるで獲物に食らいつこうとする、獰猛な獣の様に。
あまりにも妖精らしくない視線に、口の中が緊張で乾いていく。
「ラフィラメルトの兄、ですか。確かに面差しが似て…っ」
当たり障りのない話題で穏便に済まそうとしたら、何故か両手を掴まれていた。
それはもう、音にすると「ガッッ」という勢いで。
「あ、あの…っ?」
当然ながら当惑する私の目を真っ直ぐに見つめて、妖精は言ったのです。
「率直ながらお願いがあります。僕を貴方の愛人にして下さい」
………。
……………。
……えーと。私の耳は、おかしくなってしまったんでしょうか。
残念ながら、私の耳は正常だったようです。
妖精の隣で、リンネさんがギョッと目を剥きます。
私の横では、控えていたソフォドが…
……過激なことは止めなさいっ!
私の前に身を乗り出し、妖精との間を隔てるのは構いません。
ですが、その手に構えたナイフは一体何なんですか!?
相手は一応、正式に参席している賓客なんですよ!?
ここで傷害を起こしたら、今度こそ『人間』は終わってしまいます…!
私はさり気なく見えない角度から馬鹿なあの子を杖で殴り、何とか引き留めます。
そうこう私が慌てている間に、対面でも似た様な遣り取りが繰り広げられていました。
ええ、背中に遮られていた視界を取り戻した時に見たもの。
それはリンネさんによって強引に羽交い締めにされ、縛られようとしている妖精の姿。
「リンネ、止めないでくれ!」
いいえ、リンネさん、そのまま止めて下さい。良い感じです。
「落ち着いて、ラティ。正気に戻ろう? 相手は誰で、自分は何なのか思い出そう?」
少年とはいえ、相手は男の子。
体力や腕力を使う遣り取りでは、リンネさんが圧倒的に不利。
腕力に劣るリンネさんは、それでも必死にしがみつき、食らいつく。
私は応援しかできない。
「僕は、正気だよ」
「それは尚のこと悪いと思うの」
「止めても無駄だよ、リンネ」
「それは砦に帰ってから言って。今日は大事な日なのに、どうしてこんなことをするの」
「…僕は、僕の女神に出会ってしまったんだよ」
「どうしたの、ラティ! らしくないこと言わないで? 今凄く、薄ら寒いこと言ってるから」
「例えどんな言葉で表現しても、僕の感情は一つなんだよ」
リンネさんと言い合いながらも、此方から視線を外さない妖精が恐ろしい。
私は顔を青ざめさせ、急いで妖精から距離を取った。
何故かぞっと、背筋を寒気が這い登った。




