104.おはよう
情けは掛けないと決めていましたが、ちょっとやりすぎたかな?
ついそう思ってしまうくらい、アイツは酷いことになっていました。
主に、顔が。
あと、腹が。
具体的に言うとどっちも青痣になっていました。
指導者の外見、容姿も支持を集めるには重要な要素だというのに…
ああ、何て酷い青い痣。
自分でやっておきながら、我ながらやりすぎたかもと気まずく思います。
殴られた痕跡が生々しくも鮮やかすぎて、ちょっと間抜けにも見えました。
滑稽とまで言うつもりはありませんが、人前に出すのを躊躇う姿です。
アイツは鏡を見ていないので、気付いていない様子ですが。
まあ、鏡を見せるつもりもありませんが。
完治するまで、暫く鏡をアイツから遠ざけよう。
それで自分のやったことが消えるわけではありませんが、何となくそう決めました。
私に殴られてへたり込んだままのアイツは、何だか呆然としていました。
最初は殴られた痛みで蹲り、呻いていたんですが…
私、そんなに痛く殴りましたか?
自分が魔族としては戦闘能力皆無だと自覚がある分、懐疑的になりました。
でもアイツの痛がる様子に、偽りは見えません。
痛みが治まった頃になると、自分以外に目を向ける余裕も生まれたらしい。
アイツは捨てられた子犬みたいな顔で私を見上げた後、私の拳へと目を向けます。
私の拳は、アイツをグーで殴った為、赤くなっていました。
アイツの派が当たった為、小さく切れて血が出ています。
その物的証拠を見て、改めて私に殴られたことを実感したのでしょう。
今までにない容赦のなさと、その威力。
私が本当に本気で殴ったのだと、何よりも殴られたアイツ自身が分かっているでしょう。
アイツは目を潤ませ、呆然としてしまいました。
ペタンと座り込んだまま。
私が本気で殴ったことで、私に見放されたとでも思ったのか。
どことなく哀れを誘う風情で、アイツは頬を押さえて何もできずにいました。
私に本気で殴られたのだと、受け入れがたかったのかも知れません。
アイツのそんな姿に、私はより一層、やりすぎたかも知れないと思ってしまうのです。
「グター」
呼びかけると、ぼんやりしたままでもアイツは私に目を向けます。
焦点の微かに合わない目に目を合わせ、私は優しく微笑みました。
優しく優しく、殊更穏やかに。
アイツが私を、怖がらない様に。
「グター、おはよう」
挨拶なんて今更、という気もしましたが。
それでも未だ私は待っていてくれたアイツに、「おはよう」を言っていません。
少しだけ、それが気になっていたんです。
だから、言いましょう。
アイツは呆けていたけれど。
おはようを言いましょう。
夢から確かに覚めたのだと、それを知らせる挨拶を。
「おはよう、グター」
ゆっくり噛み締める様にもう一度言うと、アイツにもちゃんと伝わって。
目の焦点が、私にあてられて。
はっとしたように、改めて私の目を真っ直ぐに見返してくる、アイツの瞳。
満月色の目が、キラキラと輝きだしている。
それが微笑ましくて、何だかおかしくて。
私は満面の笑顔で、もう一度言った。
「おはよう」
アイツにもっと、明るい顔をしてほしかったから。
私の言葉を噛み締める様に、アイツは耳を澄まして傾けてくれました。
うっすらと浮かべられたはにかむ様な笑いは、私でもあまり見ない、照れた物。
私が目を覚ましていることを、改めて確かめる様に。
アイツの目が、私を見つめてくる。
「おはよう、リンネ」
そう言って、アイツが私に笑いかける。
しっかりと意思の込められた目線と、軽やかな言葉。
軽やかだけど、重いほどの感慨が込められた、大事な言葉。
私の為に、私にアイツが向けてくれる笑顔と言葉に翳りはない。
笑い返してくれるアイツの顔に、何だか凄く、ほっとした。
昔と変わらない笑顔を見せてくれるアイツに、安心して。
やりすぎたと思ったけれど、アイツは許容してくれるから。
変わらない笑顔の輝きが、何だかとても誇らしかった。
「頬、そんなに痛かった?」
「メチャメチャ痛かったよ…」
容赦ねぇ、手加減ナシかよ。
そうぶつくさ言いながら、困った様に窺ってくるアイツ。
「自業自得なんだから、甘くして貰えるとは思わないで」
「それでも、ちょっと酷い。リンネにこんな強く殴られたの初めてで、ビックリしたし」
「言っておくけど、治癒の魔法は掛けてあげないから」
「え゛!? そんなに怒った? もう一生、俺の怪我なんて治してくんない?」
「そこまでは言ってないでしょ。今回だけよ。だから、そんな捨て犬みたいな目は止めて」
「リンネ…俺、リンネに捨てられたら非行に走ってやる………」
「既に走った後で言うことじゃないでしょ!」
本当に、アイツはしょうがない奴です。
赤くなって、口の端が切れて。
手っ取り早く治す手段を封じられ、痛みを紛らわすこともできず。
やれることは、氷を当てて冷やすことぐらい。
アイツは腫れた頬を冷やしながら、げんなりした顔を装います。
それでも隠しきれない明るい感情は、喜びという名のソレで。
暗くしようと頑張る側から、明るく瞳は輝いていて。
紅潮した頬が、嬉しそうに綻んでいて。
ああ、私って大切にされてるな。
そう、実感するには充分で。
こんなに喜んでくれているのなら、目覚めた甲斐があると思った。




