夜の神、案山子を砕く
当然と言えば当然ながら、光臨した夜の神は激怒していました。
正直、物凄く恐いです。
過去のアレコレが自然と思い出されて…情けないことに、涙が出そう。
今までの長い長い付き合い…その経験から、私には分かります。
表情は涼やかながら、夜の神の瞳には永久凍土をも溶かす豪華が燃えていました。
あの瞳にかつてのアレコレ--夜の神の地雷を分だ数々--を思いだし、私は本気で恐怖しました。思わず身を縮め、植木の影に隠れてしまいます。今の身体が小柄で良かった。
聡いラフィラメルトも何かを感じとったのでしょう。
あるいは、今までに話した過去の話で感じるものがあったのか。
彼もまた、私の袖の中に身を潜めてガタガタと震えていました。
「な、なんだろう…すっごくこわいよ。あんなに奇麗で、懐深そうな顔してるのに!」
「見た目で判断してはいけません、ラフィラメルト。彼は確かに慈悲深く、寛大ですが…基本的にそれは、彼が大事にする身内にのみ適応されているのです。彼本人は武神でもあるので、機嫌を損ねたり逆鱗に触れたりすれば…命はありませんよ」
「そういえば、割と短気だって前に言ってたよね」
「言いました。彼は怒りを引き摺らないさっぱりした性格なのですが、怒りを感じた瞬間は苛烈そのもの。衝動のままに取り返しのつかないこともやってしまいがちです」
「それ、直情径行って言わない?」
「普段は思慮深い方なんですよ、普段は」
「あくまで、怒りを感じている瞬間が問題だと」
「私自身、それで何度か殺されていますからね…」
「そう言えばそう言ってたね。でも、あんな恐いの、一度だけならまだしも何度も怒らせるって…穀物神様、学習しないの? 僕だったら一度だってご免だよ?」
「…私とて、わざとではありません」
何故か要所要所で悉く、計った様に怒りのツボをついてしまうだけだ。
しかも本人には責任の負えない、間接的だが責任が飛び火する形で。
原因の一番多くを作ったのが、現在あの方に目で射竦められているあの子で、二番目が『人間』なのですが…私は自分の作った生命に徒成される宿命でも負っているのでしょうか。
夜の神は、意識のないリンネさんを片腕で抱き上げたまま。
鋭く細めた瞳で、あの子を嬲ろうというのでしょう。
反骨心溢れるあの子が、夜の神に逆らう事もできず、身体を硬直させています。
きっと夜の神の仕業でしょう。
彼の瞳は、時に物理的拘束力を持ちます。特に、相手が遙かな格下となれば。
無駄な抵抗をさせない為、何より逃がさない為、あの子の身体を縛めているのでしょう。
「いつまで経っても懲りぬ奴だな、案山子。穀物神がおらぬでたがを外したか?」
すみません。私なら、此処にいます。潜んでます。
今日のことは私が原因です。私が彼のたがを吹っ飛ばしました。
夜の神の拘束力に、喉や声帯まで麻痺しているのでしょうか。
あの子は何も答えることなく、震える身体に反する強い視線で夜の神を睨み上げます。
ああ、そんな反抗的な態度を取って………
本当に、あの子は何て無謀なんでしょう。
…胃が痛くなってきました。
これで、此処に私が潜んでいることがばれたらどうなるのでしょう。
怒り心頭の夜の神は、鼠をいたぶる猫か蛇を連想させます。
怒りの収まらない内に見つかろうものなら…きっと、私も連帯責任ですね。
嬉々としてずばーっと切り捨てられそうです。恐ろしい。
「弱者を痛めつけること、品位のある行いとは言えぬな。それは私とて同じ事だが、そなたは嬲られるだけの弱者ではないようだ。手加減は、要らぬよなぁ?」
あ、ヤバイ。本格的に殺る気ですね?
いつもであれば決して浮かべない獰猛な笑みが、何とも言えません。
こんな時のあの方は、本当に毒蛇の様な方で…!
恐ろしさに目を瞑った瞼の向こうで、一点集中に星の降り注ぐ音がした。
瞼越しでも分かる、突き刺す様な光。身体を吹き飛ばす様な衝撃。
嘗て何度も喰らって、最早耳に慣れ、聞いただけで何が起きているのか察してしまう。
あー…これは、38連発コースですね………アレ、骨に来るんですよ。特に背骨。
彼は夜と月の神…眷属である星を操るのも、お手の物。
小さな星を標的目がけて矢継ぎ早に衝突させるのは、彼お得意のお仕置きの一つです。
これが『お仕置き』で済むのは、相手が神である場合のみですが…。
ひ弱な地上の民が喰らえば、塵も残らない。
…神なら、死ぬことはないけれど。
それが良いことなのか、悪いことなのか…食らった者でなければ、あれは分かりません。
王宮を破壊するなとは言いません…ですがせめて、残骸程度は残してください。
私が生き残っていても、不自然でない程度の破壊でお願いします。
そしてどうか、どうか…! 王都の方への被害は抑えてください…!!
そんな虚しい私の願いが届いたのかどうか…
手加減、有難う御座います…微かな慈悲でも、こんな状況じゃ有難いです。
取り敢えず、跡形無く根刮ぎ吹っ飛んだのは、王宮の庭園だけで済みそうでした。
萎びた藁屑の様にボロボロになってしまった、あの子。
気を失ったあの子の頭部を無造作に引っ掴み、引き摺る様に扱う夜の神。
気が済んだのか、その怒気はようやっと薄れ、普段の温厚で静かな空気を纏っています。
…半分死体の様になったあの子を片手で鷲掴む姿は、とても不穏そのものでしたが。
やがてぺいっと夜の神が放り出すと、ぺしょっと倒れてあの子は潰れてしまいました。
「--さて」
ぽつ…と、夜の神が何事か呟きました。
ですが遠すぎて、私にはよく聞こえません。
誰も言葉を聞く者がいなくなったはずの、荒涼とした庭園跡地の真ん中。
荒れ野に立つあの方は、こちらに背中を向けているのですが…
あれ、なんででしょう?
一度は収まったはずの不穏な空気が…不穏な、空気が…
「ねぇ、穀物神様。なんか、夜の神様の不気味なオーラが復活してる様な…」
「は…ははは…私の、錯覚ではない様ですね…?」
ガタガタと一層震える様になったラフィラメルトが、私の指に縋り付きます。
ですがその目は、きょろきょろと忙しなく周囲を窺っていて…
どうやら、私の側から離脱した方が良いのかどうか、計算していますね?
だけどきっと、その判断は正しい。
私も、親権に逃亡を選択した方が良い様な…言い知れぬ、身の危険を感じます。
ああ、ですが…ですが…
「其処に、隠れているのであろう? 懸命に気配を殺していた様だが、既に意味は無い」
夜の神の視線が、すっと流れて此方を向いた。
「何のつもりかは知らぬが…後ろ暗い所があると見える。観念して姿を見せよ」
鋭い目には此方の動きを見据えようとする色。
…どうやら、一歩遅かったようです。
完璧に、「此処に誰か潜んでいる」と知られている様でした………。




