第9話 次の障害は結界不良
ドンッ! という腹の底に響くような低い振動が、役所の古い建物を揺らした。
書庫の天井からパラパラと埃が落ち、机の上に積み上げられていた書類の山が崩れ落ちる。
「きゃっ! じ、地震ですか!?」
ミレナが悲鳴を上げて頭を抱え、しゃがみ込む。
だが、アシュレイは椅子に座ったまま微動だにせず、窓の外――イルダンの街を覆う巨大なドーム状の光の膜『外縁結界』へと鋭い視線を向けていた。
「いや、地殻の揺れじゃない。今の振動は『魔力的な反発現象』だ。結界の表面に、強大な物理的・魔力的な負荷が急激にかかった証拠だ」
「け、結界に負荷……? まさか、魔物の群れが街を襲撃しているっていうんですか!?」
「分からない。だが、嫌な予感がする。……ミレナさん、外縁結界の過去の出力記録を出してください。直近半年分、いや、三年前まで遡ってすべてだ」
アシュレイの切迫した、しかしひどく冷静な声に、ミレナは弾かれたように立ち上がり、奥の書棚へと走った。
ほどなくして、分厚い革張りの台帳が何冊も机の上に広げられる。アシュレイは凄まじい速度でページをめくり、そこに記された無数の数字の羅列を、自らの手帳へグラフとして書き写していった。
通信塔の断絶。
地下水路の違法接続と汚水逆流。
立て続けに起きたインフラの危機は、見事な応急対応と恒久対応によって沈静化した。だが、アシュレイの頭の中には、一つの拭いきれない疑念が残っていたのだ。
(通信網も、水路の浄化施設も、都市の『中央魔力炉』からエネルギーを引いて稼働している。それらが局所的にエラーを起こしただけならいい。だが、もし……)
「……やはりな。最悪の推測が当たった」
アシュレイの手が止まる。手帳に描かれた折れ線グラフは、三年前から現在に至るまで、緩やかに、しかし確実に「右肩下がり」の曲線を描いていた。
「グランさん、これは……?」
「外縁結界への魔力供給量の推移だ。結界を維持するための魔力が、慢性的に足りていない。特にここ数ヶ月は、防衛に必要な最低出力のラインを常に下回っている『供給不足』の状態だ」
「供給不足……でも、中央魔力炉の魔力石は毎月ちゃんと補充しています! 燃料切れなんてはずは……」
「大元の炉には燃料がある。だが、結界まで『届いていない』んだ。通信網や水路での継ぎ足し運用と同じだ。都市が拡大し、無計画に新しい施設や違法な管が魔力網に接続され続けた結果、街全体の魔力流が完全にメタボリックを起こしている」
アシュレイはグラフを指差しながら、冷徹な事実を口にした。
「無数の無駄な経路に魔力が吸い取られ、一番重要な外縁結界に回すエネルギーが枯渇している。……結界が薄くなれば、魔物はその綻びを見逃さない」
その時だった。バンッ! と役所の扉が蹴り破られるように開き、見張り隊の副隊長リオネルが血相を変えて飛び込んできた。
その鎧には生々しい獣の爪痕が刻まれ、肩で荒い息をしている。
「アシュレイ! いるか!」
「リオネル副隊長。結界ですね?」
「ああ! 北の森にいた魔物の群れが、一斉に街の外壁へ押し寄せてきやがった! 奴ら、結界の『薄い場所』を正確に狙って体当たりを繰り返してる! さっきの振動はその音だ!」
リオネルの報告に、ミレナが息を呑む。
結界は街の絶対的な盾だ。それが破られれば、一般市民が暮らす街路に凶悪な魔物が雪崩れ込んでくる。
「今すぐ北の壁へ来れるか!? 結界発生器を調べて、出力を上げてくれ! このままじゃ外壁ごとぶち破られる!」
「行きましょう。ミレナさんはここに残って、結界の経路図をすべて出しておいてください」
アシュレイは工具入れを掴み、リオネルと共に表に停めてあった馬車へ飛び乗った。
◆◆◆
北の防壁は、凄まじい怒号と衝撃音に包まれていた。
防壁の上に立つアシュレイの眼下には、おぞましい数の『森狼』や『巨躯熊』といった魔物たちが、ひしめき合っている。
それらを辛うじて押し留めているのは、壁の数メートル外側に張られた、半透明の青い光の膜――外縁結界だ。
だが、その青い光は明滅を繰り返し、魔物が巨体をぶつけるたびに、石の壁そのものがビリビリと共鳴して揺れていた。
「クソッ! 弓隊、撃て! 結界を攻撃させるな!」
リオネルの号令で矢の雨が降るが、魔物たちは一時的に後退しても、すぐに結界の表面へと群がってくる。まるで、結界が今にも弾け飛ぶことを本能で察知しているかのようだ。
「アシュレイ! どうだ、発生器は直せそうか!?」
防壁の一角に設置された、巨大な石柱――結界発生器の基盤を調べていたアシュレイに、リオネルが叫ぶ。
アシュレイは基盤の回路に魔力測定器を当てながら、首を横に振った。
「駄目です。発生器自体は正常に稼働しています。壊れてはいません」
「じゃあ、なんでこんなに結界が薄いんだ!」
「さっき役所で言った通りです。ここへ魔力を送るための『供給網』が、街のあちこちでエネルギーを横取りされて、干上がっているんです」
アシュレイは立ち上がり、背後に広がるイルダンの街並みを見下ろした。
無造作に増築されたスラム、違法な接続で稼働する工場、効率の悪い迂回路を巡るインフラ網。
それらすべてが、街を守るためのエネルギーを少しずつ、しかし確実に吸い尽くす「寄生虫」となっていた。
「……王都の連中は、魔力が足りなくなれば、ただ発生器を新しくするか、魔力石を大量に燃やして力技で解決してきた。だが、そんな運用は予算の限られた辺境では通用しない」
アシュレイは手帳を強く握りしめた。
通信塔の障害も、水路の汚染も、単なる個別のもぐら叩きに過ぎなかった。
本当の病巣は、イルダンという都市の構造そのものが、長年の「継ぎ足し」と「放置」によって完全に破綻していることだ。
バツンッ!!
一際大きな衝撃音と共に、結界の一部がガラスのように砕け散った。
ほんの数メートルの穴。だが、魔物たちはそこを見逃さず、一斉に牙を剥いて壁へとにじり寄る。
「第一班、槍を構えろ! 突破されるぞ!」
リオネルが剣を抜き、防衛線が最高潮の緊張に包まれる。
だが、アシュレイの顔に絶望はなかった。
むしろ、その双眸には、長年隠れていた見えない病魔をようやく白日の下に引きずり出した、実務者としての冷徹な闘志が宿っていた。
「リオネル副隊長! この穴は部隊の力で死守してください! 俺はこれより、結界への魔力供給を最優先にする『緊急の経路再編』を行います!」
「経路再編だと……!? 街中の魔力網をいじるってのか!?」
「やらなければ、数時間後に結界は完全に消滅し、街は終わります」
アシュレイは工具入れを鳴らし、迷いのない足取りで防壁の階段を駆け下り始めた。
もはや、目の前の管を繋ぎ直すだけの小手先の修理では済まない。
街全体に張り巡らされた無駄を切り捨て、正しい血液の流れを取り戻す、都市機能の大手術が必要だった。
「個別障害の火消しは終わった。……本当の都市再建は、ここからだ」
背後に響く魔物の咆哮を背に、追放された保守官は、街の深部へと歩みを進めた。




