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追放された運用保守担当、辺境都市の障害を全部直したら英雄になった  作者: 結城ログ
第1章:壊れた辺境都市の応急処置 〜見えない障害を切り分けろ〜
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第5話 水路の異臭

「ミレナさん! 大変です!」


 役所の入り口から血相を変えて駆け寄ってきた若い事務官の悲鳴が、通信障害の解決に安堵していた空気を一瞬で切り裂いた。


 つい先ほどまで、通信網の図面を引き直し、中継柱の恒久対応を終えたことへの達成感に浸っていたミレナは、弾かれたように顔を上げる。


「今度はどうしたの? またどこかの通信が途切れた?」


「違います! 住民地区の南区画から苦情が殺到しています! 水路から酷い悪臭がして、水が濁って使い物にならないと……!」


 その報告に、ミレナは顔色をサッと青ざめさせた。


 隣で今後の保守スケジュールを手帳に書き込もうとしていたアシュレイは、ピタリとペンの動きを止め、小さく息を吐いた。


「……行こうか、ミレナさん。次の現場だ」


「えっ、い、今からですか!? グランさんは昨日から徹夜で図面を引いて、さっきまで泥まみれで作業していたんですよ!? 少し休まないと……」


「水路の異常は、通信の途絶とは緊急度が違う」


 アシュレイは書きかけの手帳をパタンと閉じ、腰の工具入れの位置を直しなら、すでに歩き出していた。


「見張り隊の通信障害は前線や役所という『組織』の危機だが、水路の障害は全住民の『命と生活』の危機だ。一分遅れれば、それだけ街の不満と衛生的な危険性が跳ね上がる。休んでいる暇はない」


 その背中に迷いはない。ミレナは慌てて事務官から苦情の報告書をひったくると、小走りでアシュレイの背中を追いかけた。


 ◆◆◆


 イルダンの南区画。そこは商店や平民の住宅、小さな町工場が密集し、街で最も人口を抱える生活の中心地である。


 南区画へ向かう道中、アシュレイは早歩きで進みながらミレナに質問を飛ばした。


「南区画へ流れる水は、どこから引いている?」


「東の浄水施設からです! 近くの河川から汲み上げた水を、浄水施設にある大型の浄化魔導具で濾過し、そこから地下水路を通って街の各区画へ分配しています」


「浄化魔導具の直近の点検履歴は?」


「ええと、たしか先月終わったばかりのはずです。少なくとも、魔導具そのものが寿命を迎える時期ではありません」


 アシュレイは手帳に短くメモを書き込みながら、目を細めた。


 大元の浄水施設が生きているなら、問題は「水を送る途中の経路」にある可能性が高い。通信障害と同じだ。原因は塔(大元)ではなく、見えない地下の継ぎ足しにあるのではないか。


 そんな推測を立てているうちに、二人の鼻腔をツンとした異臭が突いた。


「うっ……ひどい臭い……」


 ミレナがたまらずハンカチで口元を押さえる。


 普段なら露店の呼び込みや子供たちの笑い声で活気に満ちているはずの通りは、今やドブの底の泥をかき混ぜたような腐敗臭と、住民たちの怒号に支配されていた。


「おい、どうなってんだ! これじゃあ洗い物もできねえし、飲み水にもならねえぞ!」


「見てよこの色! 下水が逆流してるんじゃないのか!?」


「役所の人間を呼んでこい! こんなもん飲んで病気になったらどう責任取るつもりだ!」


 石造りの水路の縁には、バケツや桶を持った住民たちが人だかりを作っていた。

 アシュレイとミレナが人垣の隙間から水面を覗き込むと、本来なら川底の石が見えるほど澄んでいるはずの生活用水が、赤茶色にひどく濁っていた。


 パトロール中の衛兵が数人駆けつけ、必死に住民をなだめようとしているが、まったく収拾がついていない。飲食店の店主らしき男が、エプロンを泥水で汚しながら衛兵に食ってかかっている。


「おっ、役所の制服だ! おい、やっと来やがったか!」


「いつ直るんだ! 今日の夕飯の支度もできやしない!」


 ミレナの制服を見た住民たちが、一斉に敵意を帯びた視線を向けて詰め寄ってきた。


 行政への根深い不信感。これまで何度も不便を強いられ、その度に「予算がない」「様子を見ろ」とはぐらかされてきた辺境都市の住民たちの、当然の怒りだった。


 視線の集中砲火に怯み、ミレナが一歩後ずさった。だが、その前にスッと立ち塞がったのは、地味な外套を着たアシュレイだった。


「申し訳ありません。本日付で赴任した、臨時保守官のアシュレイ・グランです。原因を特定しに来ました。皆さんの切実な事情は分かりますが、怒鳴っても水は綺麗になりません。少しそこを退いてください」


 アシュレイは抑揚のない淡々とした声で住民たちを制すると、工具入れからガラスの試験管と、魔力測定用の細い金属棒、そして短いロープのついた重りを取り出した。


 そのまま躊躇うことなく、悪臭を放つ水路の縁に膝をつき、袖をまくり上げる。


「あ、あの人、あの臭い水を素手で……」


 最前列にいた恰幅の良い女性が、信じられないものを見るように目を丸くした。


 王都のエリート魔導官なら、汚れることを極端に嫌い、遠巻きに探知魔法を使うか、そもそも末端の部下にやらせて現場には足を運ばないだろう。


 しかしアシュレイは、泥臭く現場の最前線にしゃがみ込み、素手で濁った水を試験管にすくい取った。その徹底した現場主義の姿勢に、怒り狂っていた住民たちは毒気を抜かれたように押し黙った。


 アシュレイはすくい取った水に金属棒を浸し、その表面に浮かび上がる魔力の反応色をじっと観察する。


「……微弱だが、水そのものに浄化魔力は残留している。つまり、大元の浄水施設が完全に停止したわけじゃない。フィルター機能は生きている」


「えっ、じゃあどうしてこんなに濁っているんですか?」


 ミレナの問いに、アシュレイは試験管を鼻に近づけ、軽く臭いを嗅いだ。


「泥や苔が詰まったことによる自然発生的な臭いじゃない。明らかな生活廃水、それもかなり濃度の高い汚水の臭いだ。浄水施設からここへ綺麗な水が流れてくる途中のどこかで、汚水が『混ざって』いるんだ」


「汚水が混ざる……? でも、生活用水の経路と下水経路は、地下で完全に分離されているはずです」


「ああ、図面通りならな。それに、異常なのは水質だけじゃない」


 アシュレイは立ち上がり、手に持っていた重り付きのロープを水面へ垂らした。ロープが水流に流される角度を鋭い目つきで確認し、手帳に何らかの数値を書き込む。


 さらに、水路の石組みの壁面を指差した。


「よく見てくれ。通常時の水位を示す喫水線(苔の生え際)よりも、現在の濁った水面の方が明らかに指三本分ほど高い位置にある。流速も普段より速い」


「本当だ……。水かさが増してますね」


「本来の設計では、この区画の水路にこれほどの水量は流れないはずだ。浄水施設が処理しきれない量の汚水が、どこからか大量に流れ込んでいる。だから、浄化魔力が追いつかず、濁ったまま住宅街に溢れ出しているんだ」


 アシュレイの論理的で淀みない説明に、周囲で聞き耳を立てていた住民たちもざわめき始めた。


「じゃあ、その汚水が流れ込んでいる場所を見つけないといけないんですね。でも、この地下水路は旧市街の地下までずっと繋がっていて……とても広大です。どこで混ざっているかを見つけるなんて……」


 ミレナの言う通りだった。イルダンの地下水路は迷宮のように入り組んでいる。地図もないまま闇雲に潜って探せば、何日かかるか分からない。その間も住民は水を使えず、不満は爆発寸前まで膨れ上がるだろう。


 だが、アシュレイの顔に焦りはなかった。彼は手帳の白紙のページを開き、先ほどの流速と水量の計算式を素早く書き込みながら、冷徹な事実を口にした。


「濁りの濃度、水流の速度、そして水かさの増加分。これらの数値を使えば、汚水が合流している地点の大まかな目星はつけられる。俺の推測が正しければ、旧市街の第四分岐点あたりだ」


「本当ですか!? じゃあ、すぐにそこへ行って魔法で直して……」


「いや、それは不可能だ」


 アシュレイはピシャリとミレナの言葉を遮った。


「正確な合流箇所を特定し、流入を食い止める物理的な修繕工事を行うには、水路の中に入らなければならない。だが、今この水路は許容量を超えた濁流が走っている状態だ。中に入れば職人が押し流されて死ぬ」


「じゃあ、どうするんですか……?」


 アシュレイは手帳を閉じ、不安げに見つめてくる住民たちに向かって振り返った。

 そして、一切の感情を交えない、実務者としての事務的な声ではっきりと告げた。


「今日の正午をもって、この南区画一帯の給水を『一時遮断』します。大元の水門を完全に閉じ、水路を干上がらせてから、地下へ潜って調査と復旧を行います」


 その言葉が落ちた瞬間、静まり返っていた現場の空気が凍りついた。


「な……ふ、ふざけるな! 水を止めるだと!?」


「ただでさえ汚くて使えないのに、今度は一滴も出なくなるって言うのか!」


「商売あがったりだ! お前たち役人は、俺たちを見殺しにする気か!」


 先ほどよりもさらに激しい、憎悪すら混じった怒声がアシュレイに向かって浴びせられる。


 無理もない。水は命綱だ。ただでさえ苦しい生活を強いられているのに、それを行政の都合で一方的に止めると言われれば、激しい反発が起きるのは当然だった。


「グ、グランさん! いきなり水を止めるなんて言ったら、暴動が起きます! なんとか、水を流したまま魔法か何かで直すことは……」


 顔面を蒼白にして慌てふためくミレナ。一触即発の空気に、衛兵たちも剣の柄に手をかけて後ずさる。


 だが、アシュレイは降り注ぐ罵声を浴びながらも、ただの一歩も引かなかった。


「無理をして中途半端な応急処置をすれば、いずれ大量の汚水が街全体に逆流して最悪の感染症を引き起こす。俺は実務者だ。一時的な不満を恐れて、致命的な都市機能の崩壊を見過ごすことはしない」


 アシュレイは真っ直ぐに前を見据え、怒れ狂う住民たちの前に立ち塞がった。


 ここから先は、原因究明や魔法の技術の問題ではない。現場の責任者として、彼らの怒りを正面から受け止め、説得するという「火の粉を被る」仕事だった。

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