第2話 誰も全体を把握していない
「昨年の修繕記録と、この設備台帳の経路図……まったく噛み合っていない。いや、それどころか、存在しないはずの魔力線が引かれている」
アシュレイの指摘に、ミレナは気まずそうに視線を泳がせた。
「そ、それは……昔から、現場の職人さんたちが『こっちを通した方が早い』って、その場で魔力の迂回路を作ってしまうことが多くて。後から書類を直そうにも、誰も正確な場所を覚えていないんです」
「なるほど。図面を更新しないまま、現場の判断だけで継ぎ足し工事を繰り返してきたわけか」
「はい……。王都から来た魔導官の方々は皆、『辺境の田舎仕事はこれだから困る』と怒って、結局誰も台帳を直そうとはしてくれませんでした」
ミレナは叱責を覚悟してギュッと目を瞑った。だが、アシュレイの口から出たのは怒鳴り声ではなく、静かなため息だった。
「怒っても図面は直らない。それに、悪いのは現場の職人じゃない。彼らはその場その場で、必死に街の機能を維持しようとしただけだ」
「えっ……?」
意外な言葉に、ミレナは目を丸くする。アシュレイは上着を脱いで椅子に掛け、腕まくりをした。
「問題は、職人の腕ではなく運用の仕組みだ。街がどういう状態になっているのか、誰も全体を把握できていない。……ミレナさん、と言ったか。少し手伝ってくれないか」
「あ、はい! 私にできることなら」
「過去五年分の修繕記録から、北の第三見張り塔へ繋がる経路に関連する記述をすべてピックアップして読み上げてくれ。俺はそれを元に、現在の『本当の経路図』を描き起こす」
そこから、薄暗い書庫での地道な作業が始まった。
「三年前の四月、東区画の水路工事に伴い、通信用の魔導柱を一本撤去。代わりに、旧市街の地下を通る予備線へ接続先を変更……とあります」
「旧市街の地下……台帳には予備線なんて載っていないな。だが、記録があるなら引いておこう。次」
「ええと、一昨年の秋です。西の森で魔物騒ぎがあった際、結界の出力を上げるために、通信網の魔力の一部を一時的に結界へ分配……あっ、これ、『一時的』と書いてありますが、元に戻した記録がありません!」
「やはりな。通信障害の兆候が出始めた時期と一致する。魔力の供給量が慢性的に足りていなかったんだ」
ミレナが読み上げる断片的な記録を、アシュレイが大きな羊皮紙の上に図面として落とし込んでいく。
王都から来たエリートが、魔法も使わずに埃まみれの書類と格闘している。その光景はミレナにとってひどく新鮮だった。
この人は、机上の空論で現場を見下したりしない。ただ淡々と、絡まった糸を解きほぐすように「事実」だけを拾い集めている。
やがて数時間が経過し、羊皮紙の上に一つの複雑怪奇な図面が完成した。
「……ひどいな。まるで蜘蛛の巣だ」
完成した図面を見て、アシュレイは疲れたように眉間を揉んだ。
本来なら、役所から第三見張り塔まで真っ直ぐに伸びているはずの魔力供給線。しかし図面に描かれているのは、あちこちで枝分かれし、無関係な設備に巻き付き、無駄な迂回を繰り返す歪なネットワークだった。
「これが、今のイルダンの通信網の姿だ。『繋がらなくなったから別の線を足す』というその場しのぎの応急処置を繰り返した結果、魔力が途中で分散し、負荷がかかりすぎて自壊寸前になっている」
「そんな……じゃあ、通信が途切れる原因は、見張り塔の故障じゃないんですか?」
「ああ。塔そのものは正常だろう。塔へ魔力を送るこの『継ぎ足しの経路』のどこかで、魔力渋滞が起きて完全に詰まっているんだ。原因は塔ではない」
アシュレイはペンを置き、ミレナを見た。
「君のおかげで、見えなかった障害の形がようやく見えた。ここからは早いぞ。図面があれば、調べるべき中継柱の目星がつく。これとこれ、そしてこの三箇所だ。ここを物理的に切り離せば、とりあえずの通信は復旧するはず――」
アシュレイが解決策を口にした、まさにその瞬間だった。
バンッ! と乱暴に役所の扉が開け放たれ、先ほどの見張り隊の男が血相を変えて飛び込んできた。
「おい、大変だ! 北の第三見張り塔からの通信が、完全に沈黙した! 微かなノイズすら聞こえねえ!」
「完全停止……焼き切れたか」
「それだけじゃない! 北の森に魔物の群れが現れたって、別の塔から狼煙が上がった! 第三見張り塔の連中は孤立したぞ!」
役所内が再びパニックに陥る。
しかし、アシュレイの顔に焦りはなかった。彼の手元にはすでに、誰も把握していなかった「都市の真実の姿」を描き出した一枚の図面がある。
「ミレナさん、この図面の写しを頼む。俺は現場に向かう」
「えっ、グランさんが行くんですか!? でも、魔物が出ているのに……」
「戦うのは見張り隊の仕事だ。俺の仕事は、彼らが戦えるように通信を直すことだ」
アシュレイは工具入れを腰に下げ、迷いのない足取りで役所を飛び出していった。




