第16話 臨時新体制と「計画停止の通達」
冷たく湿った役所の地下牢。その重い鉄格子が、鈍い金属音を立てて開かれた。
カビと錆の匂いが漂う薄暗い通路の先。差し込む松明の光を背にして立っていたのは、両手で顔を覆って安堵の涙をこぼすミレナと、誇らしげに胸を張るノラだった。
「お迎えに上がりました、グランさん……っ! 聴聞会、私たちの完全勝利です!」
「……ご苦労様でした。俺が休んでいる間、見事にシステムを修復してくれましたね」
アシュレイは作業着についた埃を払いながら、静かに牢を出た。
彼自身の表情に劇的な変化はない。だが、その声には確かな熱があった。自らが構築した「現場のチーム」が、自分の指示したバックアップを見事に機能させ、巨大な権力を論理で打ち倒したことへの、深い信頼と敬意が滲んでいた。
「ふふん。五年分の監査官の意地を見せてやったわ。……でも、一つだけ聞かせて」
ノラは丸眼鏡を押し上げ、アシュレイの隣に並んで歩きながら不思議そうに首を傾げた。
「あなた、どうして『第七保管庫』に設立当初の原本があるって知っていたの? あそこは、役所の人間でも古株しか知らないような、完全に忘れ去られた死蔵区画だったのに」
「簡単なことです。赴任直後、見張り塔の通信途絶に対応した際、俺は街の通信網の物理的なルーティングを追うために『資産台帳』と施設のインデックス構造を確認しました」
アシュレイは懐から手帳を取り出し、淡々と答えた。
「障害対応には、どこに何が繋がっているかの正確なマップ化が不可欠です。その際、台帳の片隅に『第七保管庫:都市設立時基礎図面および初期決済記録』という記述を見つけていました。ただ、俺にはそこを開ける『権限』がなかった」
「なるほどね……。最初から、この街のデータベースの構造を頭に入れていたってわけね」
ノラは呆れたように笑い、そして頼もしげにアシュレイの横顔を見上げた。
キーツたち権力者は、自分たちが『今』を支配していると思い込んでいた。だが、目の前の実務者は常にシステムの『根幹』がどこにあるのかを把握し、決して揺るがない基礎の上に立っていたのだ。
* * *
地下牢から解放されたアシュレイは、そのまま最上階の執務室へと招き入れられた。
そこには、すっかり意気消沈し、ひと回り小さく老け込んだように見えるバルガス市長が待っていた。
キーツとボルトンという二大権力を失い、街の機能が完全に停止してしまった今。自らの事なかれ主義が招いた惨状を前に、バルガス市長がすがるべき相手は、目の前の実務者しか残されていなかった。
「……アシュレイ・グラン君。君たち保守部門が、この街の腐敗を暴き、救ってくれた。本来であればトップである私が気づくべきだったことだ。私が彼らの言葉を鵜呑みにし、君を牢へ入れてしまったこと……本当に、何と詫びればいいか」
バルガス市長は震える声で深々と頭を下げた後、すがるような、真剣な眼差しでアシュレイを見つめた。
「キーツとボルトンが実質的に権限停止となった今、財務と都市基盤の管理権限は完全に宙に浮いている。グラン君。君に、この街の再建を担う『臨時の都市基盤責任者』として、全権を委ねたい。君の知識と清廉さがあれば、この街を正しく導けるはずだ」
バルガス市長からの、異例の大抜擢。
一介の臨時保守官から、街の全権を掌握するトップへの昇進。ミレナが「グランさんが責任者に……!」と目を輝かせ、パッと表情を明るくした。
しかし、アシュレイの表情は微塵も動かなかった。全権掌握という甘い響きにも、彼は一切の喜びや野心を見せなかった。
「お断りします」
「……え?」
「俺は実務者です。政治家にも、権力者にもなるつもりはありません。肩書きや予算分配の権力など、俺の業務には不要な機能です」
アシュレイの即答に、バルガス市長もミレナもポカンと口を開けた。
だが、隣に立っていたノラだけは「あんたらしいわね」と小さく鼻で笑っている。巨大な権力を持てば、いずれキーツのようにシステムそのものを私物化するバグを生み出しかねない。アシュレイはそれを本能的に避けているのだ。
「では、どうすれば……この街は、どう直せば……」
「必要なのは、街のインフラを物理的に改修するための『管理者権限』だけです。……王都の監査が終わるまでの、現場を動かす暫定権限で十分です」
アシュレイは作業着のポケットから手帳を取り出し、バルガス市長へ向かって静かに、だが絶対の自信を持って告げた。
「奪い返した正規の魔力石を使い、今日から辺境都市イルダンの魔力網をゼロから作り直します。……本番環境の改修を開始しましょう」
* * *
数時間後。
役所の地下にある保守室には、この数日間でアシュレイのもとに集った「現場の代表者」たちが一堂に会していた。
見張り隊副隊長のリオネル。保守班職人頭のガルド。事務局のミレナ。監査官のノラ。そして、商人ギルドから直接足を運んできた支部長のセルマ。
「……ノラ。あんたの指示通り、キーツが隠していた裏予算と、横流し予定だった魔力石は、うちのギルドの物流網を使って全部正規ルートへ戻しておいたよ」
セルマが机の上に、分厚い納品書と、眩いほどに青白く輝く「最高純度の蒼炎石」が入った重い木箱をドスンと置いた。
「確認したわ。迅速な手配、感謝するわ……セルマ。これで資材と予算の統制は完璧よ」
ノラが眼鏡の奥の目を細め、セルマと静かに視線を交わす。五年前の蟠りを乗り越え、実務を通じた確かな連帯が二人の間に復活していた。
ノラの厳格な管理下によって、イルダンのリソースはようやく正しい血流を取り戻した。これで、いよいよ中央魔力炉から街全体への配線を引き直す大工事が正式に動き出すことになる。
「よしっ! これだけ極上の魔力石も戻ってきたことだし、これで結界も水路も全部最高出力にできるな! グランの旦那、早速こいつを炉にぶち込んでやろうぜ!」
ガルドたち職人が、待ちわびたように興奮気味に身を乗り出す。だが、アシュレイは机に広げた配線図から顔を上げず、静かに首を横に振った。
「ダメです。今この状態で特級の石を炉に繋げば、街中の配線がショートして火の海になります」
「えっ……? ど、どうしてですか!?」
ミレナが驚いて聞き返す。
「配線そのものが、すでに限界を超えているからです。長年の継ぎ足し運用で劣化しきった細い魔導線に、いきなり大量の魔力を流し込めば水圧で管が破裂するように爆発します。……古い配線をすべて剥がし、新しい太い線で安全に組み替える大工事が必要です」
アシュレイは全員の顔を順番に見回し、極めて重大な事実を口にした。
「しかし、魔力が流れたままの稼働中の魔力網を安全に組み替えることは、物理的に不可能です。……よって、明後日の深夜零時をもって、街の機能を丸一日完全に止める『計画停止』を実行します」
シン、と。地下室の空気が完全に凍りついた。
「……冗談だろ、グラン殿。街の魔力を完全に止めるってことは……水路も、明かりも、そして『外縁結界』すらも消滅するってことだぞ!?」
リオネルが机を叩いて立ち上がる。その顔には明らかな恐怖と焦燥があった。最前線で魔物と対峙し、結界のありがたみを誰よりも知る現場の責任者として、当然の反応だった。
だが、アシュレイは一切怯まず、真っ直ぐにリオネルを見据えた。
「無茶なのは承知の上です。ですが、家を建て直すには一度基礎を剥き出しにしなければならない。この『計画停止』を乗り越えなければ、イルダンは遠からずシステム崩壊を起こして滅びます。……俺たちに、これ以外の選択肢はない」
その言葉の重みに、部屋全体が深い沈黙に包まれた。
キーツという病巣を取り除いても、街の体はまだボロボロのままなのだ。大手術をしなければ助からない。だが、麻酔(結界の停止)をかければ、魔物という外敵に殺されるかもしれない。究極の二択だった。
「……二十四時間。魔力を止めて、配線を引き直すのにかかる時間だね?」
鉛のような沈黙を破ったのは、セルマだった。
彼女は腕を組み、極めて現実的な商人の目でアシュレイの目を見返した。
「水路が止まれば、飲料水が枯渇する。暗闇になれば暴動が起きるかもしれない。……分かった。商人ギルドの備蓄をすべて解放して、街の広場に水と松明の配給所を作るよ。一日くらいなら、物理的な物資で街の命を支えてみせる」
「セルマさん……!」
「……くそっ、やるしかねえってことか。結界がない時間は、俺たち見張り隊が文字通り『肉の壁』になって警戒態勢を敷く。一匹の魔物も街には入れねえ。グラン殿、あんたは配線の改修に集中してくれ」
リオネルも覚悟を決めたように、強く歯を食いしばって剣の柄を握りしめた。
「私は資材の調達と予算の進行を秒単位で管理するわ。ガルド、あんたの職人チームは何人で動ける?」
「五十人は集まるぜ! 古い配線の撤去と新しい線の敷設……徹夜でぶっ続けでやれば、意地でも二十時間で終わらせてやる!」
実務者たちが、アシュレイの提示した途方もない困難に対し、文句や弱音を言うのではなく「どうすれば実現できるか」の計算を一斉に開始したのだ。
誰かに任せるのではなく、全員が自分の領域で責任を負う。その圧倒的な熱量に、ミレナの胸の奥が熱くなった。
「ミレナさん。あなたには住民向け告知の手配をお願いします。なぜ止めるのか、いつ復旧するのか。情報を隠さず、正確に伝達してください。不安を取り除く事前の情報開示こそが、障害対応において最も重要なプロセスです」
「はいっ! すぐに全区画の掲示板と、触れ役を手配します!」
セルマは備蓄計画、リオネルは警戒態勢、ミレナは住民向け告知、ノラは資材と予算の統制、ガルドは現場の施工。
アシュレイ・グランという一人の実務家のもとに、かつてはバラバラだった辺境都市の機能が、今、完璧な一つのチームとして連動し始めた。
イルダン全体で、「街を止めるための準備」が、静かに、そして熱く始まろうとしていた。




