第14話 上層部の反撃と「不当な拘束」
旧市街の地下水路から役所の地上階へと続く、長く薄暗い石段。
カビと泥に塗れた足取りは重いはずだったが、アシュレイたち一行の纏う空気は、これまでになく熱を帯びていた。
「間違いないわ。あの違法バイパスに流れている魔力量と、商人ギルドの納品記録、そして私の監査メモにある『使途不明の修繕費』。……この三つを掛け合わせれば、キーツ局長たちの横領を完璧に立証できる」
ノラは胸に抱えた分厚い資料をギュッと握りしめ、上気した顔で語った。
五年前に彼女を絶望の淵に追いやった「書類上の完璧な偽装」は、現場の物理的な証拠という最後のピースがはまったことで、ついに崩れ去ろうとしているのだ。
「すぐに市長室へ行きましょう! これだけの証拠があれば、市長だってキーツ局長を庇いきれないはずです!」
ミレナも興奮気味に拳を握る。
ガルドたち職人も「やっとあのクソ豚どもに一泡吹かせてやれるぜ」と鼻息を荒くしていた。
だが、列の先頭を歩くアシュレイだけは、手帳に書き留めた配線図を見つめながら、静かに目を細めていた。
「……急ぎましょう。システムに致命的なエラーが発覚した時、悪意ある管理者が真っ先に行うのは『ログの消去』と『アカウントの凍結』です」
「アカウントの凍結?」
「ええ。彼らは街の予算と権限を握っている。証拠が揃ったからといって、おとなしく投了するような相手ではありません。必ず、システム(行政)のルールを悪用して先手を打ってくる」
アシュレイがそう呟き、役所の一階に続く重い鉄扉を押し開けた、まさにその瞬間だった。
「――待ち構えていたぞ、ネズミ共」
広々とした一階のエントランスホール。
本来なら市民や役人が行き交うはずのその場所は、異様な静寂に包まれていた。
いや、静寂ではない。数十名にも及ぶ、完全武装した見張り隊の兵士たちが、アシュレイたちを取り囲むようにして剣の柄に手をかけ、幾重にも整列していたのだ。
「なっ……!?」
ガルドが息を呑む。
その兵士たちの壁を割って、二人の男がゆっくりと歩み出てきた。
傷一つない豪奢な鎧を鳴らす見張り隊隊長ボルトンと、冷酷な笑みを口元に張り付けた財務局長キーツ・ロレンスである。
「おや、地下の薄汚いドブネズミどもが揃いも揃って……。ん?」
キーツはアシュレイたちを一瞥した後、その後ろで資料を抱えている小柄な女性を見て、醜悪に口角を歪めた。
「これは驚いた。誰かと思えば、五年前に地下へ追い払ったノラ・クレメントではないか。……資料室の埃でも食って死んだかと思っていたが、まだ生きていたとはな」
キーツの嘲るような声がホールに響く。
その瞬間、ノラの顔からサッと血の気が引いた。彼女は思わず、アシュレイの背後に一歩後ずさる。
頭では勝てると分かっていても、五年間、彼女を暗闇に縛り付けてきた絶対的な権力者の威圧感が、トラウマとなって彼女の身体を硬直させたのだ。
「フン。相変わらず貧相な女だ。またぞろ、その無意味な紙切れを抱えて私の邪魔をしに来たのか?」
「き、キーツ局長……! 今回は、誤魔化せないわ……! あなたが魔力石を横流ししている物理的な証拠を見つけたのよ!」
ノラは震える声で必死に叫んだ。
だが、キーツは全く動じることなく、腹を揺らしてクックッと笑った。
「証拠? 何の話だ。……私がここに来たのは、市の財産を脅かす『反逆者』を処分するためだよ」
「は、反逆者……?」
キーツは懐から一枚の羊皮紙を取り出し、高らかに読み上げた。
「財務局長としての監査権限を行使し、貴様ら全員を告発する! 罪状は、市の『未承認資料の持ち出し』、およびありもしない修繕をでっち上げた『予算横領の嫌疑』だ!」
「なっ……私たちが横領!? でたらめよ!」
「黙れ! でたらめを言っているのは貴様らだ!」
今度はボルトンが一歩前に出て、剣を床に強く打ち鳴らした。
「見張り隊隊長としての権限において、貴様らの治安維持法違反を問う! 数日前の夜、防衛命令系統を乱した『越権行為』! そして、第一貴族街への魔力供給を不当に停止し、『騒乱を誘発した罪』だ! いずれも極刑に値する重罪である。おい、こいつらを全員捕縛しろ!」
ボルトンの怒声とともに、兵士たちが一斉に槍を構えて距離を詰めてくる。
ミレナが顔面を蒼白にし、ガルドたち職人も「ふざけるな!」と工具を握りしめた。
「お待ちください」
一触即発の空気を止めたのは、アシュレイの極めて冷静な声だった。
「グランの旦那!?」
「今回の旧市街の調査と壁の撤去は、すべて保守官である俺の独断による作業指示です。ミレナさんや職人たち、そしてノラさんは、俺の要請で現場に同行した末端の作業員に過ぎず、裁量の権限を持っていません」
アシュレイは仲間たちを背に庇い、キーツとボルトンを真っ直ぐに見据えた。
「システム上、権限を持たない末端の実行者を大勢捕縛しても、行政の混乱を招くだけです。……すべての責任者である俺一人を拘束すれば済む話だ」
「黙れ! 現場にいた以上、全員共犯だろうが!」
ボルトンが喚くが、キーツは片手でそれを制し、ニヤリといやらしい笑みを浮かべた。
「……構わんよ、ボルトン。この生意気な王都の落ちこぼれさえ始末できれば、残りのゴミ共は後でいくらでも捻り潰せるからな。……おい、その男を縛れ!」
キーツの命令で、数人の兵士がアシュレイの腕を乱暴に後ろ手に縛り上げた。
「グランさん……! いやだ、グランさんっ……!」
ミレナが涙ながらに駆け寄ろうとするが、槍の柄で押し留められる。
キーツは拘束されたアシュレイの前に立ち、勝利の美酒に酔いしれる顔で囁いた。
「残念だったな、実務家気取りの保守官よ。お前がどれだけ現場で小賢しい真似をしようと、この街のルールを決めるのは私だ。お前は地下牢の中で、自分の無力さを呪いながら一生を終えるがいい」
だが。
両手を縛られ、無様にひざまずかされる形になってもなお。
アシュレイの瞳に宿る、氷のような「知性の光」は微塵も揺らいでいなかった。
「……ミレナさん」
アシュレイは、キーツを完全に無視し、顔を涙で濡らすミレナへ向けて静かに声を張った。
「俺が留守の間、一つだけ保守の作業を頼みます」
アシュレイは、ミレナの奥で呆然としているノラにも聞こえるように、はっきりと告げた。
「『第七保管庫の古い封蝋台帳を開けろ』。……それだけです」
「だ、第七保管庫……?」
ミレナは突然の指示に戸惑うが、その言葉を聞いた瞬間、絶望の底にいたノラの肩がビクッと大きく跳ねた。
「おい! 罪人が勝手に部下と口を利くな! その女から資料を没収して、さっさと地下牢へ連行しろ!」
ボルトンの怒声とともに、兵士たちがノラの手から資料をひったくろうとする。
だが、ノラは自分からその監査資料の束を床に放り投げ、兵士たちの手を躱した。五年分の執念が詰まった資料を、彼女はあっさりと手放したのだ。
「おい、何を……」
キーツが怪訝な顔をする中、アシュレイは兵士たちに引きずられながら立ち上がった。
そして、最後に一度だけ振り返り、勝ち誇るキーツとボルトンに向かって、淡々と、だが決定的な宣告を突きつけた。
「……人を不当に拘束して黙らせることはできるでしょう。ですが、止めてしまった仕組みの不具合までは消えない。明日になれば分かりますよ」
「負け犬の遠吠えを! 行け!」
鉄扉の向こうへと、アシュレイの姿が消える。
残されたミレナとガルドたちは、悔しさに唇を噛み締めることしかできなかった。
「……ううっ、グランさん……これからどうすれば……」
ミレナがその場にへたり込み、両手で顔を覆う。
だが。
「……泣いてる暇はないわよ、ミレナ」
五年間、誰とも関わろうとせず、心を殺して生きてきた女の声が、静かに、だが確かな熱を帯びてミレナを呼んだ。
ミレナが顔を上げると、そこには、震えを完全に止め、丸眼鏡の奥で鋭い知性の光を燃やす会計監査官、ノラ・クレメントの姿があった。
「ノラ、さん……? でも、証拠の資料も全部奪われて……」
「あんな紙切れ、もうどうでもいいわ。……あいつが最後に残した言葉の意味、分かったもの」
ノラはかつて「天才」と呼ばれた頃の不敵な笑みを浮かべ、キーツたちが去っていった方向を睨みつけた。
「アシュレイは、感情で動いて捕まったんじゃない。最初から『証拠の積み上げ』だけで勝つための、二重の証明ルートを仕込んでいたのよ」
ノラはアシュレイに指示された「第七保管庫」の方角を見据えた。
キーツは今、監査権限を悪用し、「違法配線を正規の予備回路として承認した」という嘘の書類を作って彼らを捕まえた。だが、それは同時に自らの首を絞める行為でもある。
「監査官なら誰でも知っているわ。新しく作られた台帳の改ざんを見破るには、決して書き換えられない『設立当初の原本』と突き合わせるしかないってことを。……あいつは最初から、キーツに矛盾だらけの嘘の書類を作らせる罠を張っていたのよ」
ミレナは目を見開いた。
アシュレイは捕まる直前、キーツが権力で書き換えた「嘘のログ」の矛盾を突くための、決定的なカウンターをノラたちに託したのだ。
「行くわよ、ミレナ。ガルドたちも手を貸して。……第七保管庫の古い封蝋台帳を開けて、キーツの喉元に物理的なエラーを突きつけてやるわ」
アシュレイ・グランが冷たい地下牢の中で待つ夜。
彼が残した「実務の火」を受け継いだ者たちによる、巨大な権力に対する真の反撃プロセスが、静かに実行されようとしていた。




