第13話 帳簿の矛盾と「横流しの特定」
役所の最下層、カビ臭い過去資料室。
分厚い裏台帳に記された「三千テルム」という消費記録と、アシュレイが提示した「九百テルム」という実際の出力データ。
二つの数字の間に横たわる、決して誤差では済まされない決定的な矛盾を前に、元会計監査官ノラ・クレメントの小さな肩は小刻みに震えていた。
「……あり得ない。これほどの魔力が、炉に入る前に消えているなんて……」
ノラの丸眼鏡の奥の瞳が、五年ぶりに強い感情の色を浮かべて揺れ動く。
だが、その直後。彼女はハッと我に返ったように羊皮紙から手を離し、自分の体を抱きしめるように強く身を縮めた。
「……だめよ。これだけじゃ、キーツ局長は絶対に落ちないわ」
「なぜですか。インプットとアウトプットの差分は明確です」
「あの男は、書類上の『真実』を捏造する権限を持っているのよ! これを見せても、彼はきっと『魔力石そのものが不良品だった』とか『魔力炉の変換効率が一時的に落ちただけだ』と言い逃れをする。役所内部の数字だけで戦っても、絶対に彼には勝てない……。また、握り潰されて終わるだけよ」
ノラの声には、かつて同じ壁にぶつかり、徹底的に打ちのめされた者特有の生々しい恐怖と、深い慎重さが混じっていた。
彼女の言う通りだ。データ上の不整合は「異常」を示すアラートに過ぎない。それが「横領」であると証明するには、もっと決定的なものが必要になる。
アシュレイはノラの隣に立ち、淡々と、しかし力強い声で告げた。
「ええ。数字(論理)だけでは、権力者に潰されます。システム上のエラーを立証するには、ログと完全に一致する『現場の物理的な証拠』が必要です」
「物理的な証拠……?」
「消えた七割の魔力石。それが正規の炉ではなく、別の場所へ流れている疑いが濃厚です。……ノラさん。貴女の監査メモに、帳簿上で『不自然な修繕費』が計上されたまま放置されている空間の記録はありませんか? あるいは、用途不明な配管工事の記録が」
アシュレイの問いに、ノラは息を呑んだ。
経理の人間として数字の辻褄が合わないことに、彼女の奥底で眠っていた「監査官としての本能」が反応したのだ。
彼女は震える手を伸ばし、机の一番下にある、厳重に鍵のかかった引き出しを開けた。そこから取り出されたのは、封印された古い監査メモと、一部が意図的に黒く塗りつぶされた旧市街の古い配線図だった。
「……第四中継点の先よ。五年前、莫大な配管工事費用だけが計上されて、その後『老朽化につき立ち入り禁止』とされた区画。書類上はただの廃管のはずなんだけど……」
「さらに、もう一つ。内部の帳簿だけでは、また『書類の書き間違い』で逃げられます。外から見た、客観的な搬入の記録が必要です」
アシュレイがそう言った時、資料室の重い鉄扉が軋んだ音を立てて開いた。
カツカツと硬い靴音を響かせて現れたのは、商人ギルドの支部長、セルマ・ローデンだった。
地下資料室にセルマが姿を見せた瞬間、部屋の空気が一変した。
ノラの表情がわずかに硬くなり、視線を落とす。セルマもまた一瞬だけ足を止め、懐かしさと苦々しさが入り混じったような目で親友を見つめたが、すぐにいつもの事務的な顔に戻り、アシュレイの机に一束の帳簿を置いた。
「商人ギルドの支部長を、こんなカビ臭い地下室に呼び出すなんて。……いい度胸してるね、保守官殿」
「急な要請に感謝します、セルマさん。魔力石の搬入記録の原本を確認させていただけますか」
「ああ、持ってきたよ。……もっとも、誰かさんが昔みたいに一人で全責任を抱え込んで、証拠を燃やしたりしないならだけどね」
セルマの棘のある言葉に、ノラは唇を噛み締めた。
五年前、セルマは商人ギルド側からノラの監査を密かに支援していた。だが上層部の圧力を受けた際、ノラはセルマを巻き込まないために独断で証拠を隠滅し、自分一人で左遷を受け入れたのだ。セルマは、自分を頼らずに去った親友への負い目と憤りを、今も抱え続けている。
「……今回は最初から、抱え込む気なんてないわ。必要な数字を出して」
ノラは視線を上げないまま、素っ気なく返した。ミレナは二人の間に流れる妙な空気を感じていたが、アシュレイはあえてそこには触れず、三種類の記録を机に広げた。
監査側の帳簿、商人ギルド側の納品記録、そして魔力炉の出力記録。
三つの異なる視点からのデータが一つに揃った。
「見てください。ギルドからは毎月、百個の特級魔力石が納品されている。しかし、役所の帳簿ではそのうちの七十個分が『炉に投入される前に、老朽化によるロス』として計上され、実際に炉から出ているエネルギーも三十個分に満たない。……納品と消費の間に、巨大な消失点がある。これはもはや偶然のミスではなく、意図的な操作です」
「……間違いない。うちのギルドが出した石は、確実に役所の倉庫へ届いている。そこから先で消えているなら、犯人は役所の中にしかいないね」
セルマは腕を組み、冷徹な商人の目で断言した。
「保守官殿。私はギルドに戻って、次の搬入ルートの監視を強化するよ。あんたたちは、その消えた七割がどこへ流れているのか……物理的な尻尾を掴んでおいで」
セルマはそれだけ言い残し、ノラに背を向けて去っていった。和解の言葉はない。だが、机の上に置かれた帳簿の束には、彼女が五年間守り続けてきた執念が詰まっていた。
「……行きましょう。ガルドさんを呼びます」
* * *
数時間後。アシュレイ、ミレナ、ノラ、そして設備職人ガルドの一行は、旧市街の地下深く、長年使われていない腐臭の漂う暗渠の中にいた。
松明を掲げたガルドが、アシュレイの指示した石壁の前で立ち止まる。
「おいおい、グランの旦那。またこんなドブさらいの現場か? ここは五年前に『崩落の危険あり』ってことで、俺たち職人も立ち入りを禁じられた場所だぜ」
「ガルドさん、助かります。その壁を剥がしてください。図面には何もありませんが、ノラさんの監査メモによれば、ここに謎の『配管工事費用』が注ぎ込まれています」
「へっ、お役人様の裏帳簿より、旦那の鼻を信じるぜ。野郎ども、構えろ!」
職人たちがハンマーを振るい、分厚いレンガの壁を叩き壊す。
ズォォン、という重低音と共に壁が崩れ落ち、その奥から現れた光景に、その場にいた全員が息を呑んだ。
「……なんだよ、こりゃあ……」
ガルドが松明をかざす。
そこには、正規の図面には絶対に存在しない、腕の太さほどもある真新しい魔導線が何十本も束ねられ、脈打つように青白い光を放ちながら巨大な分岐器に接続されていた。
空気がビリビリと震え、莫大な魔力がそこを流れていることが肌で感じられる。
「違法な分岐線……」
ミレナが震える声で呟く。アシュレイはその接続先を示す古いタグを指先でなぞり、淡々と事実を告げた。
「やはり、ありましたね。中央魔力炉から各行政区画へ向かう正規のルートとは別に、特権階級の居住区へ直接魔力を送り込む『隠し迂回経路』です。ご丁寧に、財務局長キーツの邸宅と、見張り隊隊長ボルトンの詰所へと繋がっている」
これが、消えた魔力の正体だった。
彼らは魔力石の納品分を中抜きして横領しつつ、自分たちの快適な生活を維持するため、少なくなった街の魔力を「隠し配線」を使って優先的に自分たちの区画へ吸い上げていたのだ。
「ふざけやがって……! 俺たちが血反吐吐いて街を維持してる裏で、自分たちだけ甘い汁を吸ってたってのか!」
ガルドが激昂し、ミレナも怒りで唇を噛み締める。
その横流しによる慢性的な供給不足こそが、外縁結界の出力を低下させ、先日起きた魔物侵入の危機を決定的に悪化させていた。
だが、アシュレイだけは極めて冷静だった。彼は分岐器の構造を手帳にスケッチしながら、静かに首を振った。
「怒る気持ちは分かりますが、勘違いしてはいけません。彼らの横領と隠し配線は、確かに危機を深刻化させた『直接原因』ではあります。しかし、街が壊れていた理由の『すべて』ではない」
「え……?」
「もともと、イルダンの魔力網は長年の継ぎ足し運用で限界を迎えていました。図面は更新されず、誰もシステム全体を把握していなかった。キーツ局長の不正は、その『すでに崩れかけていた脆弱な仕組み』に、寄生虫のように取り憑いていただけです」
アシュレイは立ち上がり、壁の穴から伸びる違法配線を指差した。
「システムが正常に監視され、定期的な保守点検と台帳の更新が行われていれば、こんな大規模な違法配線、すぐに異常検知できたはずです。彼らが長年不正を働けたのは、この街の『保守体制そのもの』が、彼らが現れる前から完全に機能していなかったからです」
個人の悪意だけを叩いても、都市は直らない。仕組みの脆弱性そのものを直さなければ、第二、第三のキーツが現れるだけだ。アシュレイの実務者としての冷徹で俯瞰的な視点に、怒り狂っていた職人たちもスッと冷静さを取り戻した。
「……あんたの言う通りだ、グランの旦那。俺たちが長年、見て見ぬふりをしてきたツケでもあるんだな」
ガルドが苦々しく吐き捨てる。その様子を後ろで見守っていたノラは、震える手で壁の奥の違法配線に触れた。青白い魔力の光が、彼女の丸眼鏡を冷たく照らし出す。
「……信じられない。何年も、何年も探して……ずっと、数字の上でしか追えなかった不正が、こんな所に物理的に存在していたなんて……」
長年、一人で孤独に戦い、敗れ、暗闇の中で諦めかけていた彼女の努力が、アシュレイの実務能力によって、ついに「現実」という重みを持って繋がったのだ。
「ノラさん。これで、貴女の監査データと、この違法配線、そしてセルマさんの搬入記録。すべてのログが繋がりました。言い逃れは不可能です」
アシュレイが振り返ると、ノラは深く息を吸い込み、立ち上がった。その瞳に宿っていた死んだような濁りは完全に消え去り、かつて不正を憎んだ鋭い会計監査官の眼光が蘇っていた。
「ええ。これでやっと……私の追っていた『数字』が、『現実』を持ったわ」
ノラは力強く頷き、アシュレイに向かって不敵に微笑んだ。
「キーツ局長を追い詰めるわよ、アシュレイ・グラン。私が五年かけて集めた裏帳簿のデータ、全部あんたに預ける。……今度は、途中で消されたりさせないわ!」
完璧な証拠は揃った。
だが、相手は街の予算を握る巨大な権力者だ。おとなしく罪を認めるはずがない。
辺境都市の膿をすべて出し切るための、上層部との全面対決の火蓋が、ついに切られようとしていた。




