第120話 触れてよい者とは誰か
白い紙は十日のあいだに四枚へ増えた。どれも半分は線で消してある。
監査院の裏手にある、書庫の隣の使われていない一室を、ローデリクが手を回して貸してくれた。卓は狭く窓は一つきりだ。アシュレイはそこへ草案を並べ、消した行の上をもう一度読み返していた。
触れてよい者とは、誰か。
最初に書いたのは知識だった。接続図が読めること。切り離し条件を言えること。待機波形の帯の意味が分かること。
それをガルドに見せたら、椅子を軋ませて笑われた。
「読めるだけの奴が、いちばん触るぞ」
イルダンから便で呼び寄せた職人は、卓の端で腕を組んでいる。
「腕のある奴ほど一人でやりたがる。おれもそうだった。……図面が読める奴を通す試験なら、南の街のあの男だって通ってたかもしれんぞ」
アシュレイはその行に線を引いた。三度目の線だった。
「知識は測れるわ」
ノラが眼鏡の縁を押し上げた。インクの染みた指が草案の余白を叩く。
「書かせればいいんだもの。……でも守るかどうかは紙では測れないの。私は帳面でそれを何度も見てきたわ。上手に書ける人ほど、書いたとおりにやらないのよ」
「守らせる方法なら、一つあります」
アシュレイは新しい紙の頭に短く書いた。
――一人では触れないこと。
「腕は測れません。守る気があるかどうかも測れません。ですが一人で触らせないことなら、手続きで決められます。現地の手と、監査の手。二人揃わない日は触らない。守らずに触れば、それが後から紙に残ります」
ガルドが鼻を鳴らした。今度は反対しなかった。
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卓の端で、若い男がずっと黙っていた。
カダルから十日かけて上ってきたコルトは、王都へ入ってから一度も背筋を伸ばしていない。借り物の外套の裾を握ったまま、時折そっと天井の高さを盗み見ている。
「……なあ」
ようやく口を開いた。
「おれ、なんで呼ばれたんだ。おれは資格なんてもんじゃねえぞ。据え付けを手伝ってた、街の下働きだ」
「その話を、これからします」
アシュレイが答えたところで、扉が鳴った。
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マーロウは供を一人だけ連れていた。
白髪の男は狭い部屋をひとわたり見て、卓の上の消し跡だらけの紙へ目を落とした。
「監査院の裏で、何を書いておいでかと思えば」
「触れてよい者の条件です」
「素人に核を触らせる気ですか」
声に揺れはない。乾いたまま、まっすぐだった。
「触れてよいのは、王都の認定を受けた者だけでよろしい。責任の所在がそこで切れる。……こちらがヴェルナーです。認定を持っている」
供の男が浅く頭を下げた。四十がらみの落ち着いた官吏で、脇に手順書の綴りを抱えている。目つきは真面目だった。トビアスと同じ種類の真面目さだと、アシュレイは思った。
「では、お願いがあります」
アシュレイは椅子を引いて場所を空けた。
「同じ紙を、二人に読んでいただけませんか。ヴェルナー殿と、この若者に」
マーロウの眉が動いた。
「……試すおつもりか」
「決めたいんです。触れてよい者を、肩書きで決めるのか、それとも別のもので決めるのか。ここで一度、実物で確かめておきたいんです」
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ノラが卓へ二枚の記録紙を置いた。
どちらも上端が切り落としてある。街の名も日付も署名も、そこにはない。
「甲と乙よ」
ノラは眼鏡越しに二人を見た。
「どちらも眠っている核の、寝息を写した紙。問いは三つ。この核へ今すぐ手をかけてよいか。よいなら、どの線から。いけないなら、どうするか」
ヴェルナーが先に甲を取った。
手順書を開き、指で行を追いながら、丁寧に紙を検めていく。急がない男だった。やがて顔を上げた。
「まず確認命令を通します。応答の波形を測り、危険の有無を判定する。切るのであれば主線から順に。……規定どおりです」
「その前に、確かめることは」
「……手順書には、ありません」
正直な答えだった。この男は嘘をつくつもりがない。ただ、書かれていないことを職務にする道を、誰からも渡されていないだけだった。
コルトが甲を受け取った。
紙を灯りへ近づけ、鼻先が触れそうな距離まで顔を寄せる。しばらく誰も口をきかなかった。
「触っていい」
若い声が言った。
「ただし、本線に手をかけたら街の灯りが落ちる。切るなら、この脇の死んでる枝からだ。一本ずつ。半日置いて、次」
指が紙の上をすべる。
「止めどきはここ。この帯が細くなったら、その日はもう手を離せ」
部屋が静かになった。
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「その紙は」
ヴェルナーが低く言った。
「その紙は、カダルのものでしょう。彼が知っていて当然だ」
「知ってた」
コルトはあっさり認めた。
「おれが取った紙だからな。上を切ったって分かるさ」
ヴェルナーの顎が、わずかに固くなった。抗議は正当だった。アシュレイもそう思った。
「もっともです」
アシュレイは頷き、ノラへ目をやった。
「では乙を」
ノラが乙の紙を二人の前へ滑らせた。
「この紙は、この若者に見せたことがないわ。取った人の名前も伏せてある。私が綴じたから、それは請け合うわよ」
ヴェルナーが先に読んだ。手順書を開く。同じ行を、同じ丁寧さで追う。
「……確認命令を通し、応答を測ります」
声がわずかに固い。同じ答えを繰り返すことに、この男自身が引っかかりを覚え始めていた。
「他の答えは」
「規定にありません。異常が出れば中断します」
コルトが乙を取った。
灯りへ透かす。今度は、顔を寄せる前に手が止まった。
「――駄目だ、これ」
紙を持つ指に力が入っていた。
「触るな。誰も触るな」
「なぜです」
問うたのはヴェルナーだった。侮る調子ではない。本当に分からない者の声だった。
「帯が切れてる」
コルトは紙の下の縁を指した。
「うちのは、ここが太くて途切れねえ。待ってられる力があるからだ。……こいつは切れてる。もう待てねえ。問いかけたら、こいつは答えを探しに行くぞ。いちばん近くの線から食う」
「では、どうします」
「人を退がらせて、報せろ」
若い男は言い切った。
「それだけだ。それ以上やるな」
アシュレイは、石垣に座っていた痩せた背中を思い出していた。同じ紙を懐へ折り畳んだ、あの男の手を。
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「乙はドランの核です」
アシュレイは静かに言った。
「取ったのは、あの街で毎晩あれの音を聞いている人です。図面は読めません」
ヴェルナーの手が、手順書の上で止まった。
「そして今ヴェルナー殿が読み上げてくださった手順は、五日前にあの街で踏まれかけました。差し止めの記録は、そこの綴りにあります。……もし通っていれば、あの街の灯りは半日で落ちていました。冬を待たずに」
男は動かなかった。
やがて、綴りを抱えたまま、コルトのほうへ顔を向けた。
「――なぜ、そこで止める」
誇りを捨てられずに聞いたのではなかった。聞かずにいられなかったのだ。
コルトは言葉を探して、少し間を置いた。
「据え付けを、いちばん近くで見てたからだ」
それから、付け足した。
「……図面じゃなく、あの核の息で分かる。息の形は、どこの核でも同じだった。うちのも、この紙のも」
ガルドが腕を組んだまま、椅子を軋ませた。
「資格ってのは、こういうことだ」
職人は誰の顔も見ずに言った。
「肩書きが読み違えたんじゃねえ。読む場所を教わってねえだけだ。……そこを教えりゃ、こっちの旦那だって明日から読める。教えねえで名札だけ配ってるから、こうなる」
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「ヴェルナー殿」
アシュレイは向き直った。
「これは、あなたを落とすための試験ではありません」
男の目が上がった。
「あなたは手順書のとおりに読まれました。書かれていないことを職務にする権を、あなたは誰からも渡されていません。渡してこなかったのはこちらです。……ですから書きます。書けば、あなたは通ります」
「私が」
「帯の見方は半日で覚えられます。難しいのはそこではありません」
アシュレイは草案の紙を卓の中央へ戻した。四つの行が残っていた。
「一つ。触れる前に、この核の条件を自分の手で確かめられること。二つ。確かめた条件を、その日の都合で曲げないこと。三つ。止めどきが分かること。分からない時は止めると決められること。四つ。一人では触れないこと。……これだけです。腕は要りません。天才も要りません」
「知識ではないと」
「知識は渡せます」
アシュレイは言った。
「渡せないのは、止めると決める側に立てるかどうかです。触れてよい者というのは、全部できる人ではありません。止めどきを知っていて、一人では触らない人のことです」
ノラがもう一冊、細い綴りを開いた。
「じゃあ台帳を作るわ」
新しい紙の頭に、几帳面な字が入った。
「王都の名簿は、街の名前を数えるだけの帳面だったわね。こっちは違うのよ。名前の欄の隣に、いつ、誰の立ち会いで、どの条件を確かめたかを書くの。名前だけの行は作らない。……一行目は」
筆が止まり、卓の端の若い男へ向いた。
コルトが跳ねるように顔を上げた。
「お、おれか」
「ほかに誰がいるの」
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マーロウは、その間ずっと窓の側に立っていた。
振り返った時、乾いた声は少しも変わっていなかった。
「よく分かりました。……その若者は、確かに素人ではない」
「では」
「ですが」
男はアシュレイの言葉を遮った。
「一人です。名簿には十九ある。あなたが今日そこへ書けたのは、一人だ。……残りの街の手は、いつ書けますか。半年ですか。一年ですか」
アシュレイは答えられなかった。答えは紙の上にあった。十日に一人。冬は二月後だ。
「私は待てません」
マーロウは扉へ向かい、把手に手をかけたところで足を止めた。
「今朝、決裁を回しました。名簿の街へ、査察団をまとめて出します。北から順にではない。……同時にです。一つ落ちるまでに全部確かめてしまう。それが私にできる、いちばん速いやり方だ」
「マーロウ殿」
「あなたの紙が間に合うなら、それでいい」
白髪の男は振り返らなかった。
「間に合わないなら、囲うしかないでしょう」
扉が閉まった。
ヴェルナーが一度アシュレイを見て、それから綴りを抱え直し、上役の後を追って出ていった。出際に浅く頭を下げていったことに、気づいたのはノラだけだった。
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部屋には、消し跡だらけの紙が残った。
ガルドが立ち上がって、窓の外の明るすぎる街並みを見下ろした。
「何都市だ」
「分かりません」
アシュレイは名簿の写しへ手を伸ばした。十九。届いているのは二つ。査察団が同時に出るなら、条件を知らない手が、同じ夜に十七の街の核へ届く。
自分は一つの街にしか立てない。
卓の上の台帳には、名前が一つしか書かれていなかった。書き終えたばかりの、乾いてもいない一行だ。
まだ誰も、二行目に載っていなかった。




