第12話 予算のブラックボックスと「魔力監査」
煤と油にまみれた役所の地下から一転し、最上階にある財務局のフロアは、まるで王都の貴族邸のような豪奢な空気に包まれていた。
分厚い絨毯が足音を吸い込み、壁には高価な絵画が飾られている。
その最も奥にある局長室で、イルダンの予算を牛耳る男、キーツ・ロレンスは、鼻で笑いながら一枚の羊皮紙を机に放り投げた。
「……却下だ。話にならん」
「理由をお聞かせ願えますか」
突き返された『魔力網の抜本的改修予算申請書』を前にしても、アシュレイ・グランの表情は一切崩れなかった。
その隣では、同行した事務官のミレナが青ざめた顔でキーツの顔色を窺っている。
「理由だと? そんなものは明白だ。予算がないからだよ」
キーツは丸々と太った腹を揺らし、葉巻の煙をゆっくりと吐き出した。
「昨晩の魔物騒ぎで、防壁の一部や街路の修繕に莫大な費用がかかる。その上、貴族街の空調や照明を勝手に止めたせいで、駄目になった嗜好品の補填もせねばならん。……そんな状況で、街中の魔導線をすべて新品に引き直すだと? 寝言は自分の作業部屋だけで言え、王都の落ちこぼれが」
「昨晩の危機は、魔力網が劣化し、結界へ正常に魔力が送れなかったことが根本的な原因です。今、配線を正常化しなければ、次に魔物の群れが来た時は街そのものが失われますよ」
「だから、そのための結界維持費と魔力石の購入予算は、毎月きっちり計上して防衛部門に回しているだろうが! 足りないなら気合いでどうにかしろ!」
キーツは机をバンと叩き、苛立たしげにアシュレイを睨みつけた。
「いいか。防衛部門にも、保守部門にも、これ以上の予算は一銅貨たりとも出さん! これ以上私の貴重な時間を奪うなら、お前たち保守班を全員解雇してやるぞ。さっさと消えろ!」
完全な門前払いだった。
これ以上の対話は「システム上のエラー」にしかならないと判断したアシュレイは、無言で申請書を拾い上げ、深く一礼して局長室を後にした。
* * *
「……ひどいです。キーツ局長、全然話を聞いてくれないなんて……」
財務局のフロアを出て階段を下りながら、ミレナが悔しそうに涙ぐむ。
「想定の範囲内ですよ。彼らは『システムを維持する側』の苦労など理解しようとはしません。インフラというものは、蛇口をひねれば水が出るように、無限に使えるものだと錯覚している」
「でも、これで予算は完全に絶たれました。配線の引き直しどころか、明日の修繕に使う交換部品すら買えませんよ……」
「ええ。ですが、おかしな話だと思いませんか」
アシュレイは足を止め、手帳を開いた。
「キーツ局長は先ほど、『結界維持費と魔力石の購入予算は毎月きっちり計上している』と言いました」
「あ……はい。確かに言ってましたけど」
「この街の税収と、王都からの補助金を考えれば、都市機能を最低限維持するための魔力石を購入する予算は、本来なら十分に足りているはずなんです。しかし、現場には常に魔力が足りていない。……インプット(予算)とアウトプット(現場の魔力)の数字が、決定的にズレている」
アシュレイの指摘に、ミレナもハッと気づいたように目を丸くした。
「そ、それって……どこかで予算が『消えている』ってことですか!?」
「ええ。おそらく、キーツ局長たちの手によってね。予算がないと彼らが言うのなら、既存の予算がどこへ流れているのか、ブラックボックスの中身を暴くしかありません。……ミレナさん。財務局を通さずに、過去の予算台帳や魔力石の購入記録を確認できる場所はありませんか?」
ミレナは少し考え込み、やがて「あっ」と声を上げた。
「一つだけ……心当たりがあります。財務局から独立している『監査部門』です。でも……」
「でも?」
「そこの監査官は、五年前にキーツ局長の予算に口を出して、逆鱗に触れて左遷された人なんです。もうずっと、誰とも口を利かずに地下の資料室に引きこもっていて……」
「十分です。そこへ行きましょう」
アシュレイの足取りに、一切の迷いはなかった。
壊れたシステムを直すには、まず「正確なログ(記録)」を手に入れる必要があるからだ。
* * *
役所の最下層。
アシュレイたちが普段拠点にしている保守室よりもさらに奥深く、カビと古い羊皮紙の死骸が放つ独特の臭いが鼻を突く「過去資料室」。
天井まで届く本棚が迷路のように入り組んだその薄暗い部屋の最奥で、山積みの古い書類に埋もれるようにして、一つの小さな影が動いていた。
「……ノラ・クレメントさんですね?」
アシュレイが声をかけると、丸眼鏡をかけた小柄な女性が、ピクッと肩を震わせて振り返った。
手入れされていないボサボサの髪に、目の下には濃い隈が張り付いている。彼女こそが、かつて財務局の不正に肉薄し、この地下牢獄へ左遷された元会計監査官のノラだった。
「……誰? 過去の予算台帳の閲覧なら、そこの棚の三段目よ。勝手に探して」
ノラは鬱陶しそうに眉をひそめ、顔を伏せて手元の書類整理に戻ろうとする。
長年、誰にも助けられず心を閉ざしてきた人間特有の、深い諦念がその背中から滲み出ていた。
「調べものじゃないなら帰って。私はここで死んだ書類の墓守りをしてるだけなの」
「墓守りには用はありません。俺は保守官です。……貴女に、監査の協力を要請しに来ました」
その言葉に、ノラのペンがピタリと止まった。
彼女はゆっくりと顔を上げ、丸眼鏡の奥の瞳でアシュレイを睨みつけた。
「……あなた、自分が何を言っているのか分かっているの?」
「財務局の予算、特に『魔力石の購入記録』に致命的な矛盾があると考えています。それを確かめたい」
「忘れなさい」
ノラは吐き捨てるように言った。その声は、かつてのトラウマを刺激されたように僅かに震えていた。
「悪いことは言わないから帰りなさい。私みたいに、一生このカビ臭い部屋で誰にも読まれない書類の山に埋もれて死にたくなければね。……キーツ局長を甘く見ないことよ。あの人は、数字をいじる天才なんだから」
ノラは自嘲するように笑い、呪詛のように呟き続けた。
「どんなに不自然な支出でも、彼の手にかかれば完璧な『正規のロス』に偽装される。私が五年かけて証明したのよ。役所内部の台帳をいくら突き合わせても、横領の証拠なんて絶対に出ないように作られているわ。……あの男は、書類上は絶対に『無実』なの」
だから無駄だ。希望を持つだけ自分が傷つくだけだ。
そう言外に告げるノラに対し、ミレナは悲しげに目を伏せた。
だが、アシュレイは一切の同情を見せず、ただ淡々とノラの隣に立ち、彼女の机に自分の手帳を広げた。
「ええ。情報処理の観点から見ても、内部で完結している数字の改ざんを内部の書類だけで証明するのは不可能です。貴女の言う通り、帳簿全体を見ても偽装の海に沈むだけでしょう」
「……だったら、どうして」
「だから、『一日分』だけでいい」
アシュレイはノラの目を見据え、はっきりと告げた。
「五年分の記録も、全体の予算もいりません。ただ、昨日の日付……『魔物の襲撃があった昨日一日分』の魔力石の正規消費記録だけを、俺に見せてください」
「一日分だけ……? そんなピンポイントの数字を見たって、全体の矛盾なんて証明できないわよ」
「論理(書類)の中だけで探すから見つからないのです。現実の『物理的エラー』と突き合わせるための、基準となるインプット(入力)の数値が欲しい」
アシュレイの揺るがない瞳に、ノラは一瞬息を呑んだ。
目の前の男は、「正義」や「怒り」といったあやふやな感情で動いていない。ただ圧倒的な事実を求めて、純粋にシステムのエラーを追う技術者の目をしていたからだ。
「……一日分だけよ。それで矛盾が出なかったら、二度とここへは来ないで」
ノラは小さくため息をつき、渋々といった様子で机の引き出しの鍵を開けた。
分厚い裏台帳の中から、最新の購入・消費記録のページを開き、指でその数値をなぞる。
「……昨日の日付。イルダンの防衛およびインフラ維持のために消費された『最高純度の蒼炎石』は、規定通り『三つ』。発生する魔力エネルギーの理論値は、約三千テルムね。これが帳簿上の完璧な数字よ」
「ありがとうございます。では、こちらを見てください」
アシュレイは、自らの手帳に挟んでいた羊皮紙をノラの前に広げた。
それは昨晩、アシュレイ自身が地下の中央制御室で徹夜で計測し続けた、魔力炉の実際の稼働データだった。
「これは、昨日の丸一日、実際に中央魔力炉から出力された魔力エネルギーの『物理的なログ』です。……ノラさん。この総出力の数値を読んでみてください」
ノラは訝しげに眼鏡を押し上げ、アシュレイの提示した羊皮紙に目を落とした。
その瞬間。
「え……?」
ノラの小さな口から、間の抜けた声が漏れた。
彼女は目を瞬かせ、もう一度帳簿の数字と、アシュレイの出力記録を交互に見比べた。その顔から、一瞬にして血の気が引いていく。
「……きゅ、九百テルム……?」
ノラの手が小刻みに震え始めた。
「嘘でしょ……? 帳簿上は三千テルム分の特級魔力石が消費されていることになっているのに、実際に炉から出た魔力は、その三分の一以下……!?」
「その通りです」
アシュレイはペンを置き、静かに腕を組んだ。
「配線の老朽化によるロスだとしても、七割近いエネルギーが設備内で消滅したとなれば、役所の地下はとっくに高温で溶解し、大爆発を起こしています。物理的に絶対にあり得ない誤差です」
「誤差……そんなレベルじゃないわ! これは……!」
ノラが弾かれたように立ち上がった。
五年間、どれだけ探しても見つからなかったキーツの不正。書類の上では完璧に偽装されていたその「数字」が、現場の実測値という「物理」と突き合わせた瞬間、致命的な矛盾となって白日の下に晒されたのだ。
「最初から、炉には三十パーセント分の粗悪な石しか入れられていない。残りの七十パーセントは、炉に入る前に何者かによって『すり替え』られ、闇に消えているんです」
アシュレイの冷徹な事実の宣告に、ノラは言葉を失い、ただ呆然とその二つの数字を見つめていた。
長年彼女を縛り付けていた「キーツは完璧だ」という呪縛が、実務家のアプローチによって、今、音を立てて崩れ去ったのだ。
「……信じられない。これなら……この物理的な証拠があれば……!」
ノラの丸眼鏡の奥で、五年ぶりに「監査官」としての鋭い光が宿り始めていた。
予算のブラックボックスを暴くための、真の戦いの幕が上がった瞬間だった。




