第113話 オルセンの去り際
オルセンが街を出ると聞いたのは、翌朝のことだった。
据え付け場から人が引き、核が眠りに戻り、カダルが地味な冬支度に切り替わった、その朝である。老技師は宿の前で、革紐で束ねた古い図面を荷の一番上に丁寧に載せているところだった。手つきに迷いはなかった。据え付けが止められても、その手の確かさは少しも揺らいでいなかった。
アシュレイは見送るために、そこへ足を運んだ。
「お発ちですか」
「ここにはもう用がない」
オルセンは荷の紐を締めながら、こちらを見もせずに言った。
「街は火を入れんと決めた。決めた街に、手順を持つ老いぼれが居座っても邪魔になるだけだ。次の街へ行く。核をまだ怖がっていない街へな」
声に、負けた者の湿りはなかった。ただ確信だけが、乾いたまま残っていた。
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アシュレイはその乾いた確信を、まっすぐに受け止めた。
「一つ伺ってもいいですか」
老技師の手が止まった。
「あなたはまだ、主基盤があると信じておられる」
「あるとも」
オルセンは即座に答えた。迷いのない断言だった。
「私が若い時分、あの手順は絵空事ではなかった。火を入れれば、核は応えた。応えたということは、受け止める上の系統が確かにあったということだ。系統がそう易々と、消えてなくなるものか。どこかにある。今は繋がりが切れて、見えなくなっているだけだ。……お前さんは見えないものを無いと言う。私は見えないだけであると言う。それだけの違いだ」
その「それだけの違い」が、街を焼くか焼かないかを分ける違いだった。だがアシュレイは、そこを声高には突かなかった。オルセンが誇りにしているものを頭から否定しても、この老人は一歩も動かない。
「あなたの手順がまやかしだと言うつもりは、ありません」
アシュレイは静かに言った。
「あれは本物でした。かつて正式に定められた、正規の手順だった。それはこの目で原典と照らして確かめました。あなたが習った時代には、あの手順で確かに街が救えた。……それは疑っていません」
「ならなぜ止める」
オルセンの声が、初めて硬くなった。
「正しい手順を正しく踏むことの、どこがいけない」
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「前提が消えているからです」
アシュレイは退かなかった。
「手順が正しくても、その手順が寄りかかっている土台が抜けていれば、正しさはそのまま凶器になります。あなたの手順は、上の系統が火の勢いを受け止めてくれることを当てにしている。当てにする相手が今どこにいるか、分からない。分からないまま火を入れれば、受け止め手のない勢いが街へ逆流します。今朝の一歩手前を、あなたも据え付け場で見たはずです」
オルセンは答えなかった。あの明け方、命令を入れる前から震えていた針を、この老人も確かに見ていた。見てなお、確信を手放していない。それがこの相手の、いちばん厄介なところだった。
「お前さんの言うことは、いちいち筋が通っている」
やがてオルセンは荷を背に負い直しながら、低く言った。
「だが筋が通っているだけだ。お前さんは動かさない理由ばかりを、次から次へときれいに並べる。載せろ、書け、削れ、条件が整うまで待て。……その待っている間に、地方の街はどうなる。灯りを削って、我慢して、じりじり縮んでいくだけだ。動く核がすぐそこにあるのにな」
老技師はそこで初めて、アシュレイを正面から見据えた。
「お前さんのそれは保守じゃない。停滞だ。地方は動かない核の管理台帳なんぞ、欲しがっちゃいない。凍えない冬を欲しがっているんだ。……動かさないことしか教えられん者に、地方の何が救える」
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その問いは、まっすぐで痛かった。
アシュレイはすぐには言い返さなかった。据え付けを止めた自分が、コルトに綴りを握らせて回った自分が、それでもカダルの供給難そのものは消せていないという事実を、この老人は正確に突いてきていた。
「停滞ではありません」
だがアシュレイは、そこだけははっきりと言った。
「動かせる条件が整うまで動かさないというのは、動かすことを諦めることではないんです。壊さずに眠らせて残す。いつか繋がり先が全部分かって、受け止め手が確かめられたら――そのときはあなたの手順で火を入れる日が来るかもしれない。その日のために、今賭けで焼き潰さずに残しておく。それが保守です」
「その日は来るのか」
「分かりません」
アシュレイは正直に言った。ここで嘘をつけば、この老人にはすぐ見抜かれる。
「来るとも来ないとも、私には言えません。……あなたの探している上の系統がどこにあるのか。私にもまだ示せない。そこはあなたと同じです。私にもまだ、見えていません」
その一言に、オルセンの目がわずかに動いた。論破しに来た人間が、自分にも見えていないと認めた。それはこの老人が道中で幾度も浴びせられてきたであろう、頭ごなしの否定とは少し違う響きだったのだろう。
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その日の午後、王都のエルリックから遠く照会の返しが届いた。
カダルの核の波形照合と、旧い系統の所在についての、いつもの几帳面な書付だった。だが末尾に一行、いつもと違う調子の控えめな書き添えがあった。
――主基盤の所在は依然不明。ただし以前この件で辿った別都市の倉庫が、旧式安全核に連なる部材を名目を伏せて長く預かっていた形跡がある。オルセン氏の探す方角と、王都の古い安全核が置かれた方角は、まるきり無縁とは言い切れない。
アシュレイはその一行を、二度読んだ。
倉庫印を辿って、この街まで来た。その倉庫がかつて、旧式安全核に連なる部材を伏せて抱えていた。そしてその旧式安全核は、王都にある。オルセンが「どこかにある」と言い張る上の系統と、王都の古い核が――今はまだ細い頼りない線でしか結べないが、まるで無関係だと切って捨てられる線でもなくなっていた。
示すにはあまりに遠い。だが消すには、あまりに近い。アシュレイはその書付を、そっと綴じ込んだ。オルセンに見せるには、まだ何一つ確かではなかった。
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オルセンは日が傾く前に、街を出た。
見送りはアシュレイ一人だった。市庁の者は据え付けを止めた老人をどう扱っていいか分からず、誰も門までは来なかった。
「達者でな」
オルセンはそれだけ言って、背を向けた。負けたとも退いたとも言わなかった。次の街へ手順を持って行く。ただそれだけの、まっすぐな背中だった。
「オルセンさん」
アシュレイはその背へ、声をかけた。
「あなたの探している上の系統が、もし見つかったら。そのときは――私にも教えてください。動かす日のための備えは、あなたと同じ側にいるつもりです」
老技師は足を止めなかった。だが片手を軽く上げた。応じたとも断ったとも取れる、そっけない仕草だった。
その背が、街道の先へ小さくなっていく。
アシュレイはその方角を、しばらく見ていた。オルセンが向かったのは、次の供給難の街のはずだった。だがその街道のさらに先。老技師が「どこかにある」と信じて探し続ける上の系統の在り処。そこへエルリックの書き添えた王都の古い核の方角が、うっすらと重なって見えた。
動かさないために回る手は、まだ一つきりだった。その手の届かない街で、次の誰かが正しかったはずの手順にまた火を入れようとするだろう。そしてその手順が探す先が、王都のいちばん古い傷へ――たどり着こうとしていることに、この時のアシュレイはまだ細い予感しか持てずにいた。
去っていく背中と、王都の方角。二つの線が初めて、地平の先で細く交わりかけていた。




