第11話 翌日の大クレームと「優先順位(SLA)」
煤と焦げた魔力樹脂の臭いが、役所の地下から地上階の執務室まで漂っていた。
徹夜で中央魔力炉の分配盤と格闘していたアシュレイ・グランは、作業用の外套についた汚れを払うこともせず、執務机に広げた数枚の羊皮紙と睨み合っていた。
「……やはり、分配盤の第三ヒューズと第五ヒューズは完全に焼き切れていますね。昨夜の負荷分散は、文字通り基盤の命を削って行ったようなものです」
手元の擦り切れた手帳に、新しい被害状況と交換が必要な部品のリストをカリカリと書き込んでいく。その声は淡々としていたが、目元には深い疲労の色が張り付いていた。
隣の机では、若手事務官のミレナ・フォートが、山積みになった被害報告書と昨晩の魔力出力データとを懸命に照らし合わせていた。彼女もまた徹夜明けだが、その表情には以前のような絶望感はなく、街を守り抜いたという静かな高揚感が残っている。
「はい、グランさん。北の防壁からの報告でも、結界発生器そのものに異常は見られないとのことです。リオネル副隊長からは『おかげで助かった、後で美味い酒でも奢らせてくれ』と伝言を預かっています」
「酒より先に、交換用の魔導線を手配してほしいところですが……まあ、第一段階の火消しとしては及第点でしょう。しかし問題はこれからです」
アシュレイは小さく息を吐き、ペンを置いた。
昨晩、イルダンを襲った魔物の群れ。結界崩壊の危機を救うため、アシュレイは役所地下の制御室から、街全体の魔力網を強制的に再編した。無駄な魔力を食っている違法施設や、貴族街・行政区画への供給を物理的に叩き斬り、すべてのエネルギーを外縁結界へと回したのだ。
結果として街は守られた。だが、それはあくまで「究極の応急対応」に過ぎない。
「魔力を強制遮断した区画からの反発が、そろそろ来る頃――」
アシュレイがそう言いかけた、まさにその瞬間だった。
バンッ!! という鼓膜を劈くような乱暴な音を立てて、執務室の分厚い木扉が蹴り開けられた。
「責任者はどこだ!! 一体どういうつもりか説明してもらおうか!!」
怒号と共に踏み込んできたのは、二人の男だった。
一人は、上等な絹の服を着込み、丸々と太った腹を揺らす五十代の男。その指には高価な宝石の指輪がいくつも光っている。イルダンの予算と魔力石の分配を牛耳る男、財務局長のキーツ・ロレンスだ。
もう一人は、実戦で一度も使われたことがないであろう、傷一つない豪奢な銀の鎧を身に纏った四十代の男。貴族のコネで隊長の座に就いている、イルダン見張り隊隊長のボルトン・グレイヴである。
「ひぃっ……キーツ局長、それにボルトン隊長……」
街の上層部を牛耳る二人の登場に、ミレナが顔面を蒼白にして身を縮める。周囲の役人たちも蜘蛛の子を散らすように壁際へ退避した。
だが、アシュレイだけは椅子から立ち上がりもせず、手帳を開いたまま静かに二人を見据えた。
「私が臨時保守官のアシュレイ・グランです。被害状況の報告ですか?」
「被害状況だと!? ふざけるな!」
キーツは顔を真っ赤にして、アシュレイの机をバンと叩いた。
「昨日の夜、私の居住区である第一貴族街の魔力が突如として完全に停止した! 空調は止まり、照明は消え、保管してあった数百年物の高価な氷温ワインがすべて台無しになったんだぞ! おまけに市長の邸宅まで真っ暗だ! 特権階級に対する明らかな反逆行為だ、貴様、自分が何をしたか分かっているのか!」
「そうだ! 見張り隊の指揮系統を乱した越権行為も言語道断だ!」
ボルトンも、キーツに便乗するように声を張り上げた。
「隊長であるこの俺を通さず、現場のリオネルなどに直接指示を出すとは何事だ! そもそも、魔物が壁を叩いたくらいで慌てふためき、街の魔力網を勝手にいじり回すなど……王都から来た身の程知らずの平民が、英雄気取りでしゃしゃり出るな!」
口角泡を飛ばして怒鳴り散らす二人。
彼らは昨夜、安全な行政区画の奥深くでふんぞり返っていたため、最前線で何が起きていたのかを全く理解していないのだ。結界が破られかけていた恐怖も、現場の兵士たちの絶望も、彼らにとっては「ただの騒ぎ」に過ぎない。
アシュレイはゆっくりと立ち上がり、乱暴に叩かれた机の上の書類を整えた。
「お怒りはごもっともです。ですが、事実関係を整理させてください。ミレナさん、昨晩二十三時時点の結界出力低下率と、魔物の推定被害額の試算データをお願いします」
「あ、はい! ええと、昨晩二十三時の時点で、北の外縁結界は必要最低出力の六十パーセントまで低下。すでに一部が物理的に突破されかけていました。仮にあのまま魔力供給を増やさず結界が崩壊していた場合、北区画から商業区画にかけての想定被害額は、イルダンの年間予算の約三倍。死傷者の予測は五百人を超えます」
震える声ながらも、ミレナは明確な数値を読み上げた。
アシュレイはそのデータを受け取り、キーツたちへ真っ直ぐに向けた。
「お聞きになりましたか。あのまま貴族街の空調と照明を維持していれば、十五分後には結界が完全に崩壊し、街の三分の一が魔物に蹂躙されていました。……キーツ局長。貴方の高価な氷温ワインと、街の存続。どちらを優先すべきだったとお考えですか?」
「だからどうしたと言うのだ!!」
キーツは机上の報告書を乱暴に払い落とし、鼻息を荒くした。
「たかが下層の平民や職人が何人死のうが、私の知ったことか! 貴族街の機能を維持したまま、結界も守る。それが現場の仕事だろうが! それを自分の無能を棚に上げて、勝手に私の屋敷の魔力を止めるなど言語道断だ!」
「その通りだ! そもそも結界が破られそうになったのも、貴様が余計な機器操作をしたからに違いない! 現場を知らん素人が引っ掻き回すからこうなるのだ!」
ボルトンも理解不能な論理で声を張り上げる。
自分たちの不利益だけを声高に叫び、都市全体の危機など微塵も信じていないし、理解しようともしていない。彼らにとって数字のデータなど、ただの言い訳にしか聞こえていないのだ。
(……なるほど。これがイルダンの『組織的バグ』か)
アシュレイは心の中で冷静に分析した。
長年の継ぎ足し運用や台帳の欠落といった技術的な問題の上に、彼らのような既得権益層が鎮座している。現場を見下し、物理的な限界すら「気合いでどうにかしろ」と丸投げする彼らの存在こそが、街の魔力不足を決定的に悪化させている最大の要因だ。
アシュレイは一切の感情を交えず、ただ冷徹な事実とロジックだけで彼らの主張を切り捨てにかかった。
「魔力という限られたリソースを運用する以上、そこには必ず『優先順位』を設定しなければなりません。第一優先は、市民の生命の維持と都市の防衛機能。第二優先は、水路や通信などの基幹生活インフラ。そして一番最後が、一部の者のための快適な環境維持や景観用の機能です」
アシュレイは手帳を広げ、先ほど書いたばかりのグラフを二人の目の前に提示した。
「昨夜の対応は、この優先順位のルールに則り、最下位のサービスを意図的に『計画停止』させることで、第一優先のシステムを保護したに過ぎません。越権行為でも反逆でもない。都市機能を守るための、極めて正しい『保守運用』です」
「ええい、小賢しい横文字や理屈を並べ立ておって! 誰がそんなルールを認めた!」
「システム上、物理的に足りないものは足りないのです。もし文句があるなら、次から魔物が襲撃してきた際は、貴方たちがそのピカピカの鎧で真っ先に壁の前に立ち、結界の代わりにワインボトルでも投げつけて撃退してください」
静かだが、一歩も引かない正論。
現場の状況を無視して喚き散らしていたキーツとボルトンは、周囲の役人たちの冷ややかな視線にも気づき、顔を赤と青に交互に変色させていた。
「き、貴様ぁ……! 平民の分際で、私に説教する気か!」
「説教ではありません。技術的な限界と、運用ルールの報告です。ご理解いただけましたか?」
アシュレイが淡々と会話を打ち切ろうとすると、キーツはギリッと奥歯を鳴らし、憎悪に満ちた目でアシュレイを睨みつけた。
論理では勝てない。ましてや現場の兵士たちがアシュレイを支持し始めている以上、ここで力任せに彼を捕縛することもできない。ならば、自分たちが持つ最大の「権力」を使うまでだ。
「……いいだろう。口の減らない男だ。だがな、王都の落ちこぼれよ。貴様が独断で街の魔力網をいじり、設備に多大な負荷をかけた事実は消えんぞ。その結果、今この街の配線はボロボロのはずだ」
キーツは歪な笑みを浮かべ、見下すように言い放った。
「元に戻すにも、新しく配線を引き直すにも、莫大な予算と『魔力石』が必要になる。……だが、それを承認し、各部署へ分配するのはこの財務局長である私だ。今後の予算協議、せいぜい楽しみにしていることだな」
「行くぞ、キーツ殿。こんな馬鹿に付き合う時間はない」
ボルトンも捨て台詞を吐き、二人は乱暴に足音を鳴らして執務室から出ていった。
嵐が去り、室内に重苦しい沈黙が降り下りる。
「……グランさん。完全に、目をつけられちゃいましたよ……」
ミレナが泣きそうな顔でアシュレイを見上げた。
財務局長に睨まれては、この街で役人として生きていくことはおろか、インフラの修繕予算すらまともに下りなくなる。それは街の死を意味していた。
「ええ、露骨な敵意でしたね。ですが、好都合です」
「えっ? こ、好都合?」
「昨晩の対応は、あくまで力技の応急処置だと言いましたよね。今日から、この街全体の狂った魔力網をゼロから引き直す『抜本的改修』を始めます。そのためには、どうしても正式な予算と、大量の魔力石を申請し、確保しなければならない」
アシュレイは手帳を閉じ、工具入れを腰に下げ直した。
王都から追放された男の目には、腐敗した権力への恐れなど微塵もない。あるのはただ、壊れた仕組みを直すという実務者としての強い意志だけだった。
「奴らが予算を握り潰すというなら、どこに予算が消えているのかを徹底的に洗い出すまでです。……ミレナさん、財務局の予算申請窓口へ行きますよ。敵の土俵に、正面から上がりましょう」
辺境都市イルダンの魔力網をゼロから作り直す。
その真の戦いは、泥臭い下水道や防壁の上ではなく、数字と帳簿が交差する「予算協議」という名の戦場から幕を開けようとしていた。




