第10話 魔力網の強制再編
北の防壁で結界が破られ、魔物の群れが侵入を試みようとしていたその頃。
アシュレイはイルダン役所の地下深く、街のすべての魔力線を束ねる『中央魔力炉・分配制御室』へと駆け込んでいた。
「ミレナさん! 台帳と経路図は!?」
「ここに! 先ほど完成させた簡易台帳と、過去の配線記録をすべて広げてあります!」
薄暗い制御室の長机に、ミレナが数え切れないほどの羊皮紙を並べて待機していた。
部屋の奥には、街全体へ魔力を送り出す巨大な分配盤が壁一面にそびえ立っている。無数の魔導線が蜘蛛の巣のように絡み合い、あちこちで過負荷の赤い警告光を放っていた。
「ひどい有様だ。素人が見よう見まねで線を継ぎ足し続けた結果、どこにどれだけの魔力が流れているか、完全に制御不能に陥っている」
アシュレイは工具入れを下ろし、分配盤の前に立った。
ここでモグラ叩きのように線を繋ぎ直している時間はない。外縁結界の崩壊まで、長く見積もっても数分しかないのだ。
「グランさん、どうするんですか!? 発生器が壊れていないなら、どうやって結界の出力を上げるんですか!?」
「『負荷分散』の極致だ。今から、この街の不要な魔力供給をすべて手動で物理的に叩き斬り、浮いた魔力をすべて北の外縁結界へ強制的に流し込む」
アシュレイは昨日復旧させたばかりの魔導通信機を起動した。
『……ザザッ、こちら北の防壁! アシュレイ、聞こえるか!』
「聞こえます、リオネル副隊長。結界の状況は?」
『最悪だ! 穴が少しずつ広がっている! 隊員たちが槍で突き落としているが、数の暴力だ、長くは保たん!』
「あと三分持ち堪えてください。必ず出力を跳ね上げます。……ガルドさん、そっちは?」
『おう! 旧市街の第四分岐点、水門前に待機してるぜ! いつでもいける!』
通信機越しに、リオネルとガルドの力強い声が響く。
数日前まで、誰も全体を把握せず、ただ怒鳴り合っていた街。それが今、アシュレイが引いた図面と通信網を血液として、一つの巨大な「組織」として繋がり、機能し始めていた。
「よし。ミレナさん、読み上げてくれ。現在、最も無駄に魔力を食っている『削れる経路』のトップ3だ」
アシュレイの指示に、ミレナは震える指で台帳をなぞり、大きな声で読み上げた。
「一つ目! 旧市街の地下、先ほど切り離した違法工場の奥に続く、謎の加熱施設! 現在は使われていないはずですが、魔力だけが流れ続けています!」
「了解。ガルドさん、旧市街の第四分岐点にある『赤の魔導弁』を完全に閉じてください」
『おう! 任せな!』
通信の向こうで重い金属音が響き、分配盤の赤い警告光の一つがフッと消える。
アシュレイはその瞬間にメインの太い魔力線を掴み、北の結界へと繋がるバイパス回路へガチャンと物理的に接続を切り替えた。
「二つ目!」
「貴族街および行政区画の、景観用照明と過剰な空調設備! 全体の十五パーセントの魔力を食っています!」
「上層部の快適な生活を支えるための無駄飯か。……全カットだ」
アシュレイはためらうことなく、分配盤の「行政区画」を示す太いレバーを力一杯引き下げた。
一瞬にして、役所の地下室の照明が半分落ち、薄暗くなる。地上の貴族街や役所の執務室でも、突然の空調停止と消灯にパニックが起きているはずだ。だが、街が滅びれば快適な生活も何もない。今は知ったことではなかった。
「よし、これで供給量が跳ね上がった。最後、三つ目は!?」
「み、南区画の……生活用水路の浄化魔導具です! ですが、これを止めたらまた水が濁って……!」
「止めるのは一時的だ! 結界が回復して魔物を押し返せば、すぐに元に戻す。今は一滴でも多くの魔力を壁の盾に回すんだ!」
アシュレイは分配盤のカバーを素手で引き剥がし、最も太い魔導線をショートする寸前の強引さで北の結界ルートへとねじり込んだ。
「全バイパス接続、完了! 出力、最大まで振り切らせます!」
バチバチッ! と青白い火花が制御室を照らし出す。
膨大な魔力の奔流が、一極集中で北の防壁へと駆け上がっていくのが、大気の震えで分かった。
◆◆◆
「クソッ、これまでか……!」
北の防壁では、リオネルが血まみれの剣を構え、結界の穴から這い上がってきた巨大な『オーガベア』の爪を必死に受け止めていた。
部隊の体力は限界。結界の穴はさらに広がり、もはや決壊は免れないと思われた。
その瞬間。
――フォォォォォンッ!!
大気を震わせる甲高い共鳴音と共に、防壁の結界発生器が太陽のように強烈な青い光を放った。
薄く明滅していた光の膜が、瞬く間に分厚い「光の城壁」へと変貌する。
ひび割れていた結界の穴が一瞬で修復され、その圧倒的な魔力の反発力が、壁に群がっていた魔物たちをまとめて数十メートル後方へ吹き飛ばした。
「ギャウッ!?」
「グオオオオッ!」
強固な壁に弾き飛ばされ、地面に叩きつけられた魔物たちは、自分たちが到底破れない絶対的な防壁が復活したことを本能で悟った。
何度か威嚇の唸り声を上げた後、群れは怯えたように身を翻し、北の森の奥深くへと蜘蛛の子を散らすように逃げ帰っていった。
「お、押し返した……。結界が、完全に復活したぞ……!」
呆然と呟く隊員たち。
リオネルはへたり込みそうになる足を叱咤し、急いで魔導通信機を掴んだ。
「アシュレイ! やったぞ! 結界の出力が異常なほど跳ね上がって、魔物の群れが退却した! 俺たちの勝ちだ!」
◆◆◆
『俺たちの勝ちだ!』
通信機から響くリオネルの歓喜の声と、背後で湧き上がる見張り隊の歓声。
それを聞いたミレナは、堪えきれずにその場にへたり込み、ボロボロと安堵の涙をこぼした。
「やりました……! グランさん、街が、守られました……!」
「ああ。ガルドさん、リオネル副隊長、ミレナさん。皆の迅速な対応のおかげです」
アシュレイは通信機を置き、熱を持った分配盤から静かに手を離した。
煤で汚れ、火花で焦げた外套。だが、その表情は憑き物が落ちたように穏やかだった。
王都から「不要な人間」として追放された実務者。
しかし彼が持ち込んだ「状況の整理」「事実の把握」「属人化の排除」、そして「現場との連携」という地味で泥臭い手法は、崩壊寸前だった辺境都市イルダンを確実な死の淵から救い出したのだ。
「……とはいえ、これはただの『究極の応急対応』です。無理な負荷分散のせいで、分配盤のヒューズは焼き切れる寸前だし、貴族街からは明日、山のような苦情が来るでしょうね」
アシュレイは苦笑しながら、手帳の新しいページを開いた。
「この街の魔力網は、根本的に設計が狂っている。……明日からは、この街全体の配線をゼロから引き直す『真の都市再建』に取り掛かりますよ」
「はいっ! どこまでもついていきます、保守官殿!」
涙を拭い、満面の笑みで敬礼するミレナ。
壊れた日常を直し続ける男の戦いは、こうして一つの大きな節目を迎えた。
彼が辺境都市イルダンにおける「真の英雄」としてその名を轟かせるのは、もう少し先の話である。




