6話 クラリッサの逆襲
翌朝。
王宮の社交サロンは、異様な熱気に包まれていた。
いつもは優雅にお茶を楽しむ場所が、今日は井戸端会議の様相。
「聞いた? リュシエル様のこと」
「ええ、まさか平民の騎士と……」
「しかも、その騎士を誘惑したんですって」
ひそひそと囁かれる声。
まるで、蜂の巣をつついたような騒ぎ。
その中心にいたのは、クラリッサ・ド・ピンクリーだった。
相変わらずピンクのドレスに身を包み、儚げな表情を浮かべている。
「あら、皆様。そんな噂、私は信じたくありませんのよ」
彼女は涙を浮かべた。
まるで、悲劇のヒロインのように。
「だって、リュシエル様はあんなに高貴な方ですもの。まさか、身分の低い騎士と……ねえ?」
その言い方が、完全に確信犯。
「だって」を強調することで、逆に疑惑を深めている。
「でも、クラリッサ様。あなた、実際に見たんでしょう?」
若い貴婦人が、興味津々で尋ねる。
「ええ……」
クラリッサは涙ぐんだ。
ハンカチで目元を押さえる仕草が、わざとらしい。
「私、偶然見てしまったんです。リュシエル様が、テオドール・グレイフォードという騎士と、密室で二人きりで……」
「まあ!」
貴婦人たちが色めき立つ。
扇子をパタパタさせて、興奮を隠しきれない様子。
「しかも、リュシエル様、自ら紅茶を淹れて差し出していたんですのよ? 令嬢が、平民の騎士に!」
「それは……確かに、異常ね」
「ええ。きっと、リュシエル様は寂しかったのよ。セドリック殿下に振られて」
クラリッサの言葉は、巧妙に同情を誘うものだった。
自分を善人のように見せかけながら、相手を貶める。
「でも、だからといって平民に手を出すなんて……」
「貴族の品位が問われますわ」
噂は、瞬く間に広がった。
まるで、火が燃え広がるように。
その日の午後。
私のもとに、匿名の手紙が届いた。
封筒には、差出人の名前がない。
不審に思いながらも、開けてみると、そこには驚くべき内容が書かれていた。
『親愛なるテオドール様
あなたと過ごす時間は、私にとって至福のひとときです。
身分など関係ありません。あなたさえいれば、私は幸せです。
今夜、例の場所で会いましょう。
永遠にあなたのもの、リュシエル』
「……は?」
私は目を疑った。
こんな手紙、書いた覚えがない。
というか、「永遠にあなたのもの」って、恥ずかしすぎて絶対書かない。
「リュシエル様、これ……」
ソフィアが青ざめた顔で別の手紙を持ってきた。
息を切らしている。
「王宮中に、この手紙のコピーが出回ってます」
「なんですって!?」
受け取って読むと、先ほどと同じ内容。
しかも、筆跡が私にそっくり。
細部まで、完璧に真似されている。
「偽造ね」
「ええ、間違いなく」
ソフィアは怒りで震えていた。
拳が、ギュッと握られている。
「でも、筆跡鑑定をしても、限りなく本物に近い。誰かがリュシエル様の字を研究して書いたんです」
「クラリッサね」
「間違いありません」
私は深くため息をついた。
(やってくれるわね)
でも、逆に感心してしまう。
ここまで手の込んだことをするなんて。
「お嬢様、どうなさいます?」
「……とりあえず、証拠を集めましょう。筆跡鑑定士に、正式に鑑定してもらうわ」
「かしこまりました」
翌日。
社交界の茶会に出席すると、明らかに空気が変わっていた。
いつもなら笑顔で迎えてくれる人たちが、今日は冷たい視線を向けてくる。
「あら、リュシエル様」
年配の貴婦人が、冷たい目で私を見た。
マーガレット侯爵夫人の友人、エリザベス伯爵夫人だ。
「最近、お忙しそうですわね」
「ええ、まあ」
私は平然と答えた。
「護衛騎士と、ご熱心だとか」
刺すような視線。
まるで、針で刺されているような感覚。
私は平然と紅茶を啜った。
「護衛騎士は父が任命しました。何か問題でも?」
「いえいえ、問題なんて」
貴婦人は意地悪く笑った。
「ただ、メイドの証言がありましてね」
「証言?」
「ええ。あなたが、その騎士と密室で二人きりになっていたと」
「侍女たちもいましたが」
「でも、途中で侍女を追い出したとか」
「……は?」
そんなことしてない。
いや、確かに侍女たちは自主的に出て行ったけど、追い出してない。
空気を読んで出て行っただけ。
「それに、この手紙」
貴婦人は例の偽造手紙を取り出した。
「『永遠にあなたのもの』ですって。情熱的ですわね」
周囲の貴婦人たちが、クスクス笑う。
私は冷静に答えた。
「それは偽造です」
「偽造? でも、筆跡が……」
「誰かが私の字を真似たんでしょう。そんなこと、やろうと思えばできます」
「まあ、疑り深いこと」
貴婦人は鼻で笑った。
「それとも、図星だから必死なのかしら?」
カチン。
内心で何かが切れそうになった。
でも、私は笑顔を保った。
ここで感情的になったら、相手の思うつぼ。
「信じる、信じないは、あなた次第ですわ」
そう言い残して、私は茶会を後にした。
廊下を歩いていると、クラリッサとばったり会った。
まるで、待ち伏せしていたかのように。
「あら、リュシエル様」
彼女は儚げに微笑んだ。
相変わらずの猫なで声。
「お噂、聞きましたわ。大変ですわね」
「……あなたの仕業でしょう」
私は冷たく言った。
もう、演技する気もない。
クラリッサは驚いたような顔をした。
でも、目は笑っていない。
「まあ、何をおっしゃるの? 私、何もしてませんわよ?」
「偽造手紙に、捏造証言。全部あなたね」
「証拠はありまして?」
彼女はにっこり笑った。
その笑顔が、腹立たしい。
「ないなら、名誉毀損ですわよ」
くっ。
確かに、証拠はない。
まだ。
「でも、リュシエル様」
クラリッサは一歩近づいた。
ピンクの香水の香りが、鼻につく。
「あなた、平民の騎士なんかと親しくして、恥ずかしくありませんの?」
「何が恥ずかしいの?」
「だって、身分が違いすぎますもの」
彼女は哀れむような目で私を見た。
「セドリック殿下に振られて、寂しいのはわかりますわ。でも、だからって平民に走るなんて……」
「黙りなさい」
私は低く、しかしはっきりと言った。
声に、力を込める。
「テオドールは、あなたなんかより何倍も立派な人よ」
「まあ、本気なんですのね」
クラリッサは嘲笑った。
「可哀想に。貴族社会は、そんな恋を許しませんわよ」
「……」
「身分違いの恋なんて、悲劇にしかなりません。諦めた方が身のためですわ」
そう言い残して、クラリッサは去っていった。
ピンクのドレスの裾が、優雅に揺れる。
私は、その場に立ち尽くした。
その夜。
私は部屋で一人、窓の外を見ていた。
星が、綺麗に輝いている。
でも、心は晴れない。
(……悔しい)
クラリッサの言葉が、心に刺さっている。
「身分違いの恋なんて、悲劇にしかなりません」
(本当に、そうなのかしら)
テオドールとの恋は、間違っているのか?
彼は平民で、私は貴族。
この世界では、それは大きな壁だ。
乗り越えられない壁なのか?
(でも……)
でも、それが何だというの?
人を愛するのに、身分なんて関係ないはずだ。
前世の日本では、身分制度なんてなかった。
誰もが平等だった。
でも、この世界は違う……。
「リュシエル様」
扉をノックする音。
「入って」
入ってきたのは、マリアンヌだった。
「お嬢様、お顔が疲れてますわ」
「……そうかしら」
「無理なさらなくていいんですよ」
マリアンヌは優しく言った。
40年以上、この家に仕えている彼女。
私が赤ん坊の頃から、ずっと見守ってくれている。
「辛い時は、辛いと言っていいんです」
その言葉に、私の目から涙がこぼれた。
堪えていたものが、溢れ出す。
「マリアンヌ……私……」
「わかってますわ。お嬢様は、強がってらっしゃる」
彼女は私を抱きしめた。
温かい腕。
母のような温もり。
「でも、一人で抱え込まないでください。私たちがいますから」
「……ありがとう」
私は声を殺して泣いた。
悔しくて。
悲しくて。
でも、一番辛いのは――
(テオドールに、迷惑をかけてしまっていること)
彼は、私のせいで噂の的になっている。
「平民のくせに、令嬢を誑かした」
そんな心無い言葉が、彼を傷つけているかもしれない。
(……私のせいだ)
翌日。
王宮では、貴族たちの意見が二つに割れていた。
「リュシエル様は悪くない。クラリッサの陰謀だ」
そう主張する派閥。
主に、若い貴族や進歩的な考えを持つ者たち。
彼らは、トイレ戦争の時からリュシエルを支持していた。
一方で。
「身分違いの恋など、許されない」
そう主張する保守派。
主に年配の貴族や、伝統を重んじる者たち。
「あの令嬢、トイレ戦争の時はよかったが、今回は度が過ぎる」
「平民と恋をするなど、貴族の恥だ」
「クラリッサ嬢の方が、まだマシだ」
保守派の声は、次第に大きくなっていった。
そして、その声はついに――
「エリュドール公爵に、意見書を送ろう」
「ああ、令嬢の行動を慎むよう、忠告すべきだ」
動き出した。
数日後。
父に呼び出された。
書斎には、父と母がいた。
二人とも、真剣な表情。
「リュシエル、座りなさい」
父の声は、いつもより重かった。
「はい」
私は椅子に座った。
手が、少し震える。
「最近の噂、聞いているな?」
「……はい」
「テオドール・グレイフォードとの関係について、貴族たちから意見書が届いた。テオドールにはお前の護衛騎士は辞めてもらう」
父は書類を見せた。
そこには、何十人もの貴族の署名があった。
保守派の大物たちの名前が、ずらりと並んでいる。
「『身分違いの恋を慎むべし』か……」
私は苦笑した。
「お前は、どう思う?」
父が尋ねる。
「……私は、悪いことをしているとは思いません」
「そうか」
父は頷いた。
そして――
「ならば、私も同じだ」
「え?」
「この意見書、全部無視する」
父はビリビリと紙を破いた。
破られた紙が、床に舞い落ちる。
「お、お父様!?」
「リュシエル、お前が誰を愛そうと、それはお前の自由だ」
父は真っ直ぐに私を見た。
その目には、強い意志が宿っている。
「身分など、くだらん。大切なのは、その人の心だ」
「お父様……」
「テオドール・グレイフォードは、優秀な騎士だ。平民出身だが、それが何だ」
父は力強く言った。
「彼がお前を幸せにしてくれるなら、私は反対しない」
涙が、溢れた。
止まらない。
「お父様……ありがとうございます」
「泣くな。お前は強い子だ」
父は優しく微笑んだ。
その笑顔が、温かい。
「それに」
母が口を開いた。
「クラリッサの陰謀、もうバレてますわよ」
「え?」
「私、独自に調査したの。偽造手紙の筆跡、鑑定士に見せたら『明らかな偽造』って」
母はにっこり笑った。
その笑顔が、怖い。
怖いけど、頼もしい。
「それに、証言したメイド、実はクラリッサがお金で買収してたのよ」
「本当ですか!?」
「ええ。証拠も押さえてあるわ」
母は書類を取り出した。
「これ、明日の社交界でばら撒くわね」
(母、強い)
というか、怖い。
敵に回したくないタイプ。
「だから、リュシエル」
父と母は、同時に言った。
「胸を張りなさい。お前は何も悪くない」
私は、二人に深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
家族の愛を、強く感じた。
そして、決意した。
(負けない)
クラリッサがどんな陰謀を企もうと、私は負けない。
だって、私には味方がいる。
家族も、侍女たちも。
そして――テオドール。
(絶対に、幸せになってみせる)
私は拳を握った。
悪役令嬢の逆襲が、今始まる。




