4話 王子の没落、開始
婚約破棄の数日前。
「殿下ぁ、これ、素敵じゃありません?」
クラリッサの甲高い声が、王宮の廊下に響いた。
彼女が指差しているのは、高級宝石店のショーウィンドウ。
そこには、ピンク色のダイヤモンドのネックレスが飾られている。
「ああ、綺麗だね」
セドリックが優しく答える。
「欲しいんですの」
「……え?」
「このネックレス、私に似合うと思いませんこと?」
クラリッサは上目遣いで、セドリックを見つめた。
「そ、そうだね。でも、これ、かなり高いんじゃ……」
「殿下、ケチなんですの?」
「いや、そういうわけじゃ……」
「私、殿下に愛されてないのかしら……」
クラリッサが涙を浮かべると、セドリックは慌てた。
「わ、わかった! 買おう!」
「やった! 殿下、大好き!」
クラリッサは満面の笑みで、セドリックに抱きついた。
こうして、また一つ、高価な買い物が増えたのである。
それから数日後。
婚約破棄の夕方。
私は侍女のソフィアから、興味深い報告を受けた。
「リュシエル様、大変ですわ」
「何が?」
ソフィアは、いつも以上にニヤニヤしていた。
「セドリック殿下が、王宮の会計係に呼び出されたそうです」
「……会計係?」
会計係に呼び出されるって、相当なことだ。
王族でも、滅多にない。
ソフィアはにやりと笑った。
「ええ。クラリッサ嬢の買い物が、とんでもない額になってるらしくて」
「どれくらい?」
「先月だけで、金貨三百枚」
私は紅茶を吹き出しそうになった。
「さ、三百枚!?」
金貨三百枚って、平民なら一生かかっても稼げない額だ。
貴族でも、一ヶ月でそんなに使うのは異常。
「ええ。ドレス、宝石、靴、香水……とにかく買いまくってるそうです」
「……あの子、何考えてるの」
「考えてないんですよ。ただ『王子の恋人』という立場に浮かれてるだけ」
ソフィアは情報屋から仕入れた紙束を広げた。
「これ、クラリッサ嬢の購入リストです」
私は目を通した。
『ピンクのドレス 金貨50枚』
『ピンクの靴 金貨30枚』
『ピンクのリボン 金貨10枚』
『ピンクの手袋 金貨20枚』
『ピンクの日傘 金貨15枚』
「……全部ピンクじゃない」
「ピンクしか買ってません」
「ある意味すごいわね、この統一感」
逆に尊敬するレベル。
「でも、問題はこれだけじゃないんです」
ソフィアは声を潜めた。
「クラリッサ嬢の実家、ピンクリー男爵家の借金調査が進んでるんですが……」
「結果は?」
「金貨五万枚の借金が確定しました」
「……ごまんまい」
「はい、五万枚です。しかも、借り先が全部裏社会」
これはまずい。
いや、まずいというか、私には関係ないけど、セドリックには大問題だ。
「で、殿下はそのこと知ってるの?」
「まだ知らないようです。でも、もうすぐバレるでしょうね」
「楽しみね」
私は心の底から思った。
王宮で緊急会議が開かれたらしい。
議題は「第二王子の浪費問題」。
「殿下、これはいったいどういうことですか!」
財務大臣が怒鳴る声が、廊下まで聞こえてきたという。
ソフィアの情報網によると、会議の内容はこうだった。
「クラリッサ嬢のために、王家の予算を使い込むとは!」
「い、いや、僕は知らなかった……」
セドリックの言い訳が、情けない。
「知らなかったでは済みません! あなたは王子なんですよ!」
「しかし、クラリッサは『これくらい普通』と言っていて……」
「普通なわけあるか! 月に金貨三百枚も使う貴族がどこにいる!」
ごもっとも。
一般的な貴族だって、月に金貨十枚も使わない。
「それに」
財務大臣は書類を叩きつけた。
「ピンクリー男爵家の借金、調査結果が出ました」
「……借金?」
「ええ、金貨五万枚。しかも、借り先が裏社会の金貸し」
セドリックの顔が、青ざめた。
「ご、五万枚……?」
「クラリッサ嬢の父、ピンクリー男爵はギャンブル狂いです。そして、その借金を返すために、娘を王子に近づけた」
「……そんな」
「つまり、あなたは利用されていたんですよ、殿下」
財務大臣の言葉が、セドリックの心を抉った。
ソフィアは、この話を嬉しそうに報告してくれた。
「で、殿下、三時間正座させられたそうです」
「正座!? この世界にもあるの、正座!?」
「ありますよ。拷問として」
マジか。そしてなぜ正座を知っている!
その日の夜。
王宮では、もう一つの重大な会議が開かれていた。
王位継承問題である。
現国王、アルベルト三世には二人の息子がいる。
第一王子、レオンハルト。
第二王子、セドリック。
本来なら、長男のレオンハルトが次期国王になるはずだった。
しかし、セドリックを推す派閥が存在した。
理由は簡単。
セドリックの婚約者がリュシエル、つまりエリュドール公爵家の令嬢だったからだ。
エリュドール公爵家は、王国最大の権力を持つ名門。
彼らの支持があれば、セドリックが国王になる可能性もあった。
しかし――
「エリュドール公爵が、第一王子殿下を支持すると表明しました」
側近の報告に、セドリック派の貴族たちが凍りついた。
「なんだと!?」
「エリュドール公爵、曰く『娘の婚約を破棄した王子を支持する理由はない』と」
当然である。
というか、トイレ戦争で婚約破棄した時点で、この結末は見えていた。
「それに、公爵は第一王子殿下の政策を高く評価しているようです」
レオンハルトは、優秀だった。
政治、外交、軍事、全てにおいて有能。
対して、セドリックは……
「殿下、どうしますか?」
側近が尋ねる。
セドリックは、唇を噛んだ。
「……僕は、僕は間違っていなかった」
「はい?」
「リュシエルと婚約破棄したのは、正しかった。彼女は冷たい女だった」
「……そうでしょうか」
側近は内心、呆れていた。
(トイレごときで婚約破棄して、エリュドール家を敵に回した馬鹿は誰だ)
でも、口には出さない。
給料もらってるし。
「とにかく、クラリッサを守らなければ」
「しかし、殿下。クラリッサ嬢の実家の借金問題が……」
「それは……なんとかする」
なんとかなるわけがない。
一方、エリュドール公爵家。
私の父、ヴィクター・ヴァン・エリュドールは、書斎で第一王子レオンハルトと会談していた。
「公爵、支持をいただき感謝します」
レオンハルトは、深々と頭を下げた。
彼は30歳。金髪碧眼で、セドリックよりも遥かに風格がある。
「いえ、当然のことです」
父は冷静に答えた。
「セドリックは愚かでした。娘との婚約を、トイレごときで破棄するなど」
「……トイレ、ですか」
レオンハルトは苦笑した。
「あれは、話題になりましたね」
「ええ。しかし、あれで娘の評判が上がったのは怪我の功名でした」
「リュシエル嬢は、聡明な方だと聞いております」
「ええ、自慢の娘です」
父は満足げに頷いた。
「それに、最近は灰色の騎士と知り合ったようで」
「テオドール・グレイフォードですね」
「ご存知ですか?」
「ええ、優秀な騎士です。平民出身ですが、実力は本物」
レオンハルトは真剣な表情で言った。
「もし、リュシエル嬢と彼が結ばれるなら、私は祝福します」
「……ありがとうございます」
父は、レオンハルトの人柄を高く評価した。
(この方なら、次期国王として相応しい)
「では、公爵。これからも、よろしくお願いします」
「こちらこそ」
二人は握手を交わした。
こうして、エリュドール公爵家は正式に第一王子派となった。
その夜。
セドリックは、自室でクラリッサと向き合っていた。
「クラリッサ、聞きたいことがある」
「なんですか、殿下?」
クラリッサは、いつもの猫なで声で答えた。
でも、その声は少し震えている。
「君の実家……借金があるって本当?」
瞬間、クラリッサの表情が凍りついた。
「……誰から聞いたんですか」
「財務大臣からだ。金貨五万枚の借金があるって」
「それは……」
クラリッサは言葉に詰まった。
「答えてくれ。本当なのか?」
「……はい」
「なぜ、言わなかった?」
「言えませんでした。だって、殿下に嫌われると思って……」
クラリッサは涙を浮かべた。
でも、セドリックには、それが演技に見えた。
今まで何度も見てきた、あの涙。
全部、嘘だったのか?
「君は……僕を利用していたのか?」
「違います! 私、本当に殿下のことを……」
「ならば、なぜ僕の財布を毎日チェックしていた?」
「それは……」
「なぜ、僕の部屋から宝石が消えた?」
「……っ」
クラリッサは、反論できなかった。
セドリックは、深くため息をついた。
「僕は……愚かだった」
「殿下……」
「リュシエルと婚約破棄したのは、間違いだったのかもしれない」
その言葉に、クラリッサの顔が歪んだ。
「今更、何を言ってるんですか! リュシエル様なんて、冷たい女じゃないですか!」
「冷たい? 彼女は、ただ自分の意見を言っただけだ」
「トイレすら譲らなかったんですよ!?」
「……それは、僕も同じだった」
セドリックは、ようやく気づいた。
あの時、自分も譲らなかった。
お互い様だったのに、自分だけが被害者ぶっていた。
「僕は……間違っていた」
「殿下!」
「クラリッサ、しばらく距離を置こう」
「え……」
「君の実家の借金のこと、調査が必要だ。それまで、会わない方がいい」
「そんな……」
クラリッサは泣き崩れた。
でも、セドリックは部屋を出た。
翌日。
王宮中に噂が広がった。
「第二王子、クラリッサ嬢と距離を置くらしいぞ」
「やっぱり、あの借金問題が原因か」
「五万枚だぞ、五万枚。そんな女と付き合えるわけない」
「第二王子も、ようやく目が覚めたか」
貴族たちは、容赦なくクラリッサを切り捨てた。
昨日まで「可愛い」「素敵」と言っていた人たちが、手のひらを返す。
そして、同時に。
「エリュドール公爵が、第一王子を支持したらしい」
「第二王子、終わったな」
「まあ、トイレ戦争で婚約破棄した時点で終わってたけど」
「リュシエル様、賢かったよな」
「ああ、あんな王子と結婚しなくてよかった」
世論は、完全にリュシエル支持に傾いていた。
同じ日
私は侍女たちと共に、紅茶を楽しんでいた。
「ふふ、順調ね」
「セドリック殿下、自滅してますね」
ソフィアが嬉しそうに言う。
「私、何もしてないのに」
「何もしなくていいんですよ。悪人は勝手に自滅します」
「名言ね」
私たちは笑い合った。
そして、私は思ったのよ。
(さようなら、セドリック)
(さようなら、クラリッサ)
(あなたたちの時代は、終わったのよ)
窓の外を見ると、夕日が沈んでいく。
まるで、第二王子派の終焉を象徴するかのように。
オレンジ色の空が、次第に紫に変わっていく。
「さて、明日はテオドールと図書館で会う約束ね」
「お嬢様、顔が緩んでますわよ」
「……気のせいよ」
侍女たちが、クスクス笑う。
でも、私は気にしない。
だって、今の私は幸せだから。
自由で、新しい恋をして。
セドリックという重荷から解放されて。
これ以上、何を望むことがあるだろう。
「明日は、どんなドレスを着ます?」
エミリーが聞いてくる。
「そうね……淡いブルーのがいいわ」
「テオドール様、お好きそうですものね」
「……別に、彼のために選んでるわけじゃないわよ」
「そうですか?」
侍女たちが、にやにやしている。
もう、好きにして。
私は窓の外を見つめた。
星が、一つ、また一つと輝き始めている。
(明日が、楽しみ)
心の底から、そう思った。




