3話 灰色の騎士、登場
婚約破棄から翌日。
私は王立図書館にいた。
ここは、王宮に隣接する巨大な図書館で、貴族なら誰でも利用できる。
天井まで届く書架が立ち並び、古い羊皮紙の香りが漂う。
前世では本屋すら滅多に行かなかった私だが、この世界に来てから図書館が好きになった。
静かで、落ち着く。
そして何より、魔法の知識を得られる。
「えーと、『古代魔法陣の構築法』は……」
私は高い書架の前で、背伸びをしていた。
目当ての本が、手の届かない場所にある。
しかも、かなり上。
(くっ、あと少し……!)
爪先立ちになって、必死に手を伸ばす。
指先が、本の背表紙をかすめる。
でも、届かない。
「……脚立、どこ?」
周囲を見回すが、脚立は見当たらない。
司書の人もいない。
(仕方ない、魔法で……)
「浮遊」
詠唱して、本を浮かせようとした瞬間。
すっと、横から手が伸びてきた。
大きくて、でも優しい手。
「これですか?」
低く、穏やかな声。
振り返ると、そこには一人の青年が立っていた。
灰色の騎士服。黒髪に、灰色の瞳。
端正な顔立ちだが、どこか影のある表情。
身長は高く、引き締まった体つき。
でも、威圧感はない。
むしろ、落ち着いた雰囲気が漂っている。
「あ……はい、それです」
彼は軽々と本を取って、私に手渡してくれた。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
私は本を受け取りながら、彼を観察した。
(この人……見たことない)
騎士服を着ているということは、王宮の騎士なのだろう。
でも、貴族の息子にしては、雰囲気が違う。
貴族の騎士って、だいたい傲慢で偉そうなんだけど、
この人は違う。
もっと、こう……地に足がついているというか。
真面目そうというか。
「あの、もしかして……」
彼が口を開いた。
「リュシエル・ヴァン・エリュドール様ですか?」
「ええ、そうですけど」
「やはり。噂の令嬢様ですね」
噂の令嬢。
(ああ、トイレ戦争のことか)
私は苦笑した。
「……どんな噂か、だいたい想像つきますわ」
「いえ、悪い噂ではありませんよ」
彼は微かに笑った。
その笑顔が、なぜか温かい。
「むしろ、『芯の強い方』だと」
「そう言っていただけると、嬉しいですわ」
「自己紹介が遅れました」
彼は胸に手を当てて、礼をした。
騎士としての、正しい礼儀作法。
「テオドール・グレイフォード。王宮第三騎士団に所属しております」
テオドール・グレイフォード。
(……あ、この人が!)
マーガレット侯爵夫人が言っていた、灰色の魔法騎士。
平民出身で、魔導試験を首席突破した天才。
「あなたが、あの有名な……」
「有名、ですか?」
「ええ。平民出身で首席突破なんて、前代未聞ですもの」
「……恐縮です」
彼は少し照れたように目を伏せた。
その仕草が、なぜか可愛く見えた。
(……って、何考えてるの、私)
「それにしても、珍しいですね」
テオドールが本のタイトルを見て言った。
「『古代魔法陣の構築法』なんて、かなり専門的な本ですが」
「ええ、最近興味がありまして。魔法陣の効率化について調べてるんです」
「効率化?」
「はい。同じ効果を得るのに、もっと少ない魔力で済む方法があるんじゃないかと」
テオドールの目が、わずかに輝いた。
まるで、宝物を見つけた子供のように。
「……面白い視点ですね」
「あら、興味があります?」
「ええ。実は僕も、魔法陣の研究をしていまして」
彼は少し興奮した様子で話し始めた。
「平民出身の僕は、貴族ほど魔力が豊富じゃない。だから、いかに少ない魔力で最大の効果を出すか、それが僕の研究テーマなんです」
「まあ!」
私は驚いた。
だって、それは私が前世の知識を使って考えていたことと、全く同じだったから。
「実は、私も同じことを考えていたんです!」
「本当ですか?」
「ええ! 例えば、火炎魔法の『ファイアボール』って、魔力の無駄が多いと思いませんか?」
「思います! あれ、半分以上が熱として放散されてますよね」
「そうなんです! だから、魔法陣の構造を少し変えれば……」
「エネルギー効率が上がる!」
「そうそう!」
気づけば、私たちは図書館の片隅で、魔法談義に花を咲かせていた。
周りの人々が、「静かに」と睨んでくる。
でも、止まらない。
だって、こんなに話が合う人、初めてだったから。
貴族の令嬢たちは、魔法の話なんて興味ない。
ドレスとか、宝石とか、そんな話ばかり。
でも、テオドールは違った。
真剣に、魔法の話を聞いてくれる。
しかも、私以上の知識を持っている。
(……楽しい)
心の底から、そう思った。
それから、私たちは何度か図書館で会うようになった。
お互いに魔法の研究をしていたので、自然と会話が弾んだ。
「リュシエル様、この理論、見てください」
「わあ、すごい! こんな方法があったなんて」
「でも、まだ実験段階で……」
「試してみましょうよ。私、協力しますわ」
毎日のように図書館に通い、魔法の話をする。
時には、実際に魔法を試してみたり。
(失敗して、爆発したこともあったけど)
侍女たちは、にやにやしながら言った。
「お嬢様、最近図書館通い、熱心ですわね」
「……勉強してるだけよ」
「そうですか? でも、テオドール様と会う日は、朝から鼻歌歌ってますけど」
「歌ってない!」
「歌ってますよ。しかも、ドレスも念入りに選んで」
「……気のせいよ」
でも、否定できなかった。
だって、本当にテオドールと会うのが楽しみだったから。
ある日のこと。
「テオドール様は、どうして騎士になろうと?」
私は尋ねた。
彼は少し考えてから、静かに答えた。
「……守りたいものがあったからです」
「守りたいもの?」
「ええ。僕は、北の辺境にある小さな村の出身なんです」
彼は遠くを見るような目をした。
窓の外を、でも何も見ていないような。
「貧しい村で、冬は食べるものもろくになかった。妹がいたんですが……病気で亡くしました」
「……」
私は何も言えなかった。
「薬を買うお金がなくて。医者も来てくれなくて」
テオドールの声が、わずかに震えた。
拳が、ギュッと握られている。
「あの時、僕は誓ったんです。もっと強くなって、誰かを守れる力を手に入れようと」
「それで、魔法を?」
「ええ。偶然、村に来た魔法使いに才能を見出されて。必死に勉強して、魔導試験を受けました」
「そして、首席合格」
「運が良かっただけです」
彼は謙遜したが、私にはわかった。
これは、運なんかじゃない。
努力と、強い意志の結果だ。
「……素敵ですわ」
「え?」
「あなたの生き方。誰かを守るために強くなる。それって、とても美しいことだと思います」
テオドールは驚いたように私を見た。
灰色の瞳が、少し揺れている。
「貴族の方から、そんな風に言われるとは思いませんでした」
「どうして?」
「だって、平民を見下す貴族がほとんどですから」
「……それは、確かにそうかもしれませんね」
私は苦笑した。
この世界の貴族は、平民を見下す傾向がある。
「虫けら」とか「下賤な者」とか、平気で言う。
でも、私は違う。
前世の記憶があるから、人は生まれじゃなく、生き方で決まると知っている。
「でも、私は違いますわ。人は、その人自身の価値で判断されるべきだと思います」
「……リュシエル様」
テオドールは、じっと私を見つめた。
その瞳には、何かが宿っていた。
温かいもの。
優しいもの。
(……なに、この感じ)
心臓が、少しだけ早く鳴った。
それから、私たちはさらに親しくなった。
図書館で会うたびに、魔法の話、騎士の話、そして他愛のない雑談。
「リュシエル様、お好きな食べ物は?」
「そうね……甘いものかしら。特にチョコレート」
「チョコレート、美味しいですよね」
「テオドール様は?」
「僕は……肉料理ですね。騎士は体力勝負ですから」
「確かに」
そんな、本当に他愛のない会話。
でも、楽しい。
心が、温かくなる。
ある日、テオドールがこんなことを言った。
「リュシエル様、あの……」
「はい?」
「その、呼び方なんですが……もう少し、親しく呼んでいただけませんか?」
「親しく?」
「『テオドール様』だと、距離を感じてしまって」
彼は少し照れたように言った。
耳が、ほんのり赤い。
「『テオ』とか、『テオドール』とか……」
可愛い。
(……って、また何考えてるの!)
「わかりましたわ。では、テオドール」
「ありがとうございます。では、僕も……リュシエル、と呼んでもいいですか?」
「ええ、構いませんわ」
こうして、私たちは名前で呼び合う仲になった。
敬称なし。
まるで、友達のように。
いや、友達以上の何かのように。
そして、ある日。
運命の質問が飛び出した。
図書館での何気ない会話の中。
私は、ふと思いついて尋ねた。
「ねえ、テオドール」
「はい?」
「もし、あなたが私とトイレの前で鉢合わせしたら……譲ってくれます?」
瞬間、テオドールが紅茶を吹き出しそうになった。
「ごほっ……と、トイレ、ですか!?」
「ええ。真面目な質問ですわ」
私は真顔で言った。
だって、これ、重要なことだから。
前の婚約者は、トイレすら譲ってくれなかった。
次に付き合う人には、そんなケチな真似してほしくない。
「えっと……それは……」
テオドールは困惑しながらも、真剣に考え始めた。
眉間にしわを寄せて、本気で悩んでいる。
(あ、本当に考えてくれてる)
そして、数秒後。
「もちろん、譲ります」
彼はにっこりと笑った。
その笑顔が、太陽みたいに眩しい。
「あなたが笑顔でいてくれるなら、僕はどこでも構いません」
その瞬間。
ドクン。
心臓が、大きく跳ねた。
まるで、雷に打たれたみたいに。
「……本当に?」
「本当です。というか、トイレくらいで張り合う男って、どうなんでしょう」
テオドールは苦笑した。
「僕、あの『トイレ戦争』の噂を聞いた時、正直驚いたんです。第二王子殿下、何やってるんだって」
「ふふ、そうよね」
私も笑った。
「でも、おかげで自由になれたから、感謝してるのよ」
「……自由、ですか」
「ええ。あの婚約、束縛でしかなかったから」
「そうだったんですね」
テオドールは優しく微笑んだ。
「でも、今は違う。あなたは自由で、そして……」
彼は言葉を選ぶように、ゆっくりと続けた。
「誰かに愛される資格のある方だと、僕は思います」
「……っ!」
顔が、熱くなった。
耳まで、真っ赤になってる気がする。
何この人。
反則でしょ、そんなセリフ。
「あ、あの……」
「はい?」
「……ありがとう」
私は顔を逸らしながら、小さく呟いた。
テオドールは、また優しく笑った。
その日の夜。
私は部屋で、一人考え込んでいた。
(テオドール……)
彼の顔が、頭から離れない。
穏やかな笑顔。真摯な瞳。
大きくて温かい手。
そして、あの言葉。
「誰かに愛される資格のある方」
(……なんなの、あの人)
胸が、ざわざわする。
こんな感覚、初めて。
前世でも、この世界でも、こんなに誰かのことを考えたことなんてなかった。
「お嬢様、お顔が赤いですわよ?」
侍女のエミリーが、にやにやしながら言った。
「……気のせいよ」
「そうですか? では、なぜ先ほどから『テオドール』って名前を三回も呟いてるんです?」
「呟いてない!」
「呟いてましたよ。しかも、うっとりした顔で」
うわ、恥ずかしい。
顔から火が出そう。
「エミリー、これは命令よ。今の話、誰にも言わないで」
「はーい。でも、ソフィアには言っちゃいましたけど」
「えっ」
「マリアンヌにも」
「……もういいわ」
私は諦めた。
どうせ、侍女たちには筒抜けだ。
でも、不思議と嫌な気分じゃなかった。
むしろ、この胸のざわめきが、心地よくすら感じる。
(これが、恋……なのかしら)
窓の外を見ると、満月が輝いていた。
(テオドール)
彼の名前を、心の中で呟く。
平民出身の騎士。
努力の人。
誰かを守るために強くなった、優しい人。
(……私、もしかして)
自分の気持ちに気づき始めていた。
でも、まだ認めたくない。
だって、恋なんて、面倒くさいもの。
感情に振り回されて、苦しくなって。
でも。
(……でも)
でも、もしかしたら。
この恋は、面倒じゃないかもしれない。
むしろ、幸せなのかもしれない。
だって、テオドールと一緒にいると、心が温かくなるから。
笑顔になれるから。
「……明日も、図書館に行こうかしら」
私は小さく微笑んだ。
そして、ベッドに横たわった。
テオドールの顔を思い浮かべながら。
(おやすみ、テオドール)
心の中で、おやすみを告げる。
まるで、恋する乙女のように。
月明かりが、部屋を優しく照らしていた。




