1話 婚約破棄の余波
婚約破棄の翌朝。
私、リュシエル・ヴァン・エリュドールは、エリュドール公爵家の朝食テーブルで、極上のクロワッサンを頬張っていた。
「……リュシエル」
父が、新聞を手に震える声で呼びかけてくる。
ああ、来た。怒りの説教タイムである。
「はい、お父様」
私は優雅に紅茶を啜りながら答えた。本当に美味しい。
婚約破棄後の紅茶って、なんでこんなに美味しいんだろう。自由の味がする。
「これを……これを見よ!」
父が新聞を叩きつけた。
そこには、でかでかとこう書かれていた。
『第二王子、トイレ戦争に敗北! 令嬢に膝を屈す!』
……いや、膝は屈してないんだけど。
「しかもこの風刺画! 娘が便器を抱えて勝利のポーズをとっておるではないか!」
ああ、本当だ。私、便器抱えてる。しかも後ろで王子が泣いてる。
「……芸術的ですわね」
「そういう問題ではない!」
父の怒号が食堂に響き渡る。
メイドたちが「ひっ」と身を縮めた。でも、よく見ると何人かは肩を震わせて笑いを堪えている。
「エリュドール公爵家の名誉が! 我が家の威信が! それが便器と共に!」
「まあまあ、あなた。血圧が上がりますわよ」
母が優雅に口を挟んだ。
エレオノーラ・ヴァン・エリュドール。我が母である。
気品ある美貌と、鋼のメンタルを持つ貴婦人だ。
「リュシエル、あなた本当に大丈夫? 婚約破棄なんて……お母様、心配で」
「全然大丈夫ですわ。むしろ清々しいくらいに」
「……そう。なら、いいのよ」
母はにっこりと微笑んだ。
「お母様は、娘が笑顔でいてくれるなら、それでいいの。王子だろうと何だろうと、娘を不幸にする男なんて、便器に流してしまえばいいのよ」
「お母様!?」
「エレオノーラ! そなた、何を言っておるか!」
「だって本当のことですもの。セドリック殿下、最近あのピンクの女とばかり一緒でしたし」
あ、母も気づいてたんだ。
「それに」
母は優雅に紅茶を啜った。
「トイレを譲らない程度で婚約破棄する男なんて、結婚したら『夕飯の献立が気に入らない』とか言って離婚を言い出すタイプですわ。早めに切れてよかったじゃない」
正論すぎる。
「そ、それは……そうかもしれんが……」
父が勢いを失った。
「それより、リュシエル。次の舞踏会の準備はできてる? 今回の件で、むしろあなたの株は上がってるのよ」
「え? 上がってるんですか?」
「ええ。『王子にも屈しない芯の強い令嬢』として、むしろ評判がいいわ。特に若い貴族の間では、『リュシエル様、かっこいい!』って」
マジで?
朝食後、私は自室に戻った。
すると、侍女たちが待ち構えていた。
筆頭侍女のマリアンヌ、副筆頭のソフィア、そして新米のエミリー。
三人とも、なぜか目をキラキラさせている。
「リュシエル様ぁぁぁ!」
エミリーが飛びついてきた。
「かっこよすぎます! 『浮気は譲ってもトイレは譲れない』って! あれ、今年の名言大賞ですよ!」
「……そんな大賞、あるの?」
「ありませんけど、作るべきです!」
エミリー、テンション高すぎる。
「しかし、街中がこの話題で持ちきりですわ」
マリアンヌが呆れたように言った。
彼女は40代のベテラン侍女で、私が赤ん坊の頃から仕えてくれている。
「朝、市場に行ったら、八百屋のおばちゃんまで『令嬢様、よくやった!』って」
「庶民にまで広がってるの!?」
「ええ。特に『トイレを譲らない王子』が不評で。『男のくせにケツの穴が小さい』って」
ソフィアがクスクス笑う。
彼女は30代の副筆頭で、情報収集が得意だ。貴族社会の裏情報は、だいたいソフィアが握っている。
「それより、これ見てください!」
ソフィアが数枚の紙を取り出した。
「社交界に出回ってる風刺画のコレクションです」
一枚目。
『王子、便器の前で土下座』
二枚目。
『令嬢、トイレットペーパーを王冠にして勝利宣言』
三枚目。
『ピンク女、便器に落ちて絶叫』
「……みんな、暇なの?」
「暇なんですよ、貴族って」
ソフィアが断言した。
「でも、これ以上に話題になってるのが、セドリック殿下とクラリッサ嬢のその後なんです」
「その後?」
「ええ。あの二人、もう終わってますよ」
ソフィアが取り出したのは、情報屋から買った報告書だった。
「まず、婚約破棄の日。セドリック殿下、王宮で陛下に呼び出されました」
「そりゃそうよね」
「で、陛下から『トイレごときで婚約破棄とは何事か!』と大目玉。殿下、三時間正座させられたそうです」
「正座!? この世界にもあるの、正座!?」
「ありますよ。拷問として」
マジか。そして何故正座知ってる。
「そして、クラリッサ嬢の実家、ピンクリー男爵家の調査が始まったんです」
「調査?」
「ええ。エリュドール公爵家が動いたんですよ。『娘の婚約者を奪った女の素性を調べろ』って」
あ、父の仕業だ。
「そしたら、出るわ出るわ。借金が山のように」
ソフィアが目を輝かせる。
「ピンクリー男爵、ギャンブル狂いでして。借金総額、金貨五万枚」
「ご、五万枚!?」(現代のお金にすると五億じゃない!)
「ええ。で、その借金を返すために、娘のクラリッサ嬢を王子に近づけて、王家の金を引き出そうとしてたんです」
「……最低じゃん」
「最低です。で、それを知ったセドリック殿下、激怒。『僕は利用されていたのか!』って」
ああ、気づいちゃったんだ。
「クラリッサ嬢、必死に言い訳したらしいですけど、『でも、殿下のこと、本当に愛してます!』って」
「うわ、薄っぺらい」
「でしょう? で、殿下、こう言ったそうです」
ソフィアが咳払いをして、王子の物真似をした。
「『愛してるなら、なぜ僕の財布の中身を毎日チェックしてたんだ!』」
「チェックしてたの!?」
「してたんですよ。しかも、殿下の部屋から、高価な装飾品がいくつも消えてたそうで」
「……盗んでたの?」
「盗んでました。で、質屋に売ってたのがバレました」
もうダメだ、この女。
「結果、セドリック殿下、クラリッサ嬢と距離を置き始めたんです。でも、世間はもう『トイレ王子とピンク女』って呼んでますけどね」
「あだ名、ひどすぎる」
「でも的確です」
その日の午後、私は母と共に社交界の茶会に出席した。
場所は、マーガレット侯爵夫人の邸宅。
会場に入ると、一瞬、空気が凍りついた。
(……あ、やっぱりこうなるよね)
私は覚悟を決めた。
でも、次の瞬間。
「リュシエル様ぁぁぁ!」
若い令嬢たちが群がってきた。
「かっこよすぎます! あのトイレ戦争!」
「私も見習いたいです! 婚約者に屈しない強さ!」
「サイン、いただけますか!?」
「……サイン!?」
「ええ! 『浮気は譲ってもトイレは譲れない』って書いてください!」
なんだこの展開。
年配の貴婦人たちも、クスクス笑いながら近づいてきた。
「リュシエル嬢、お見事でしたわ」
「ええ、うちの娘にも見習わせたいくらい」
「男に媚びない女性って、素敵よね」
あれ? 私、悪役令嬢じゃなかったっけ?
「でも、あのセドリック殿下ったら、情けないわよねぇ」
「トイレごときで婚約破棄だなんて」
「しかもクラリッサ嬢に騙されてたなんて」
「ピンクリー家、没落確定じゃない?」
貴婦人たちの会話が、容赦なくセドリックとクラリッサを斬っていく。
ああ、貴族社会って怖い。
「それにしても」
マーガレット侯爵夫人が、優雅に紅茶を啜りながら言った。
「リュシエル嬢、次の舞踏会が楽しみですわね。独身に戻った今、求婚者が殺到するでしょう」
「え、そうなんですか?」
「ええ。特に、灰色の魔法騎士と呼ばれる、あの平民出身の騎士が興味を持ってるって噂ですわよ」
灰色の魔法騎士?
ああ、テオドール・グレイフォードのことか。
「彼、とっても誠実で素敵な方らしいわよ。平民出身だけど、魔導試験を首席で突破したんですって」
へえ。
「リュシエル様、狙ってみたらどうです?」
若い令嬢の一人が、キラキラした目で言った。
「だって、トイレを譲らない王子より、トイレを譲ってくれる騎士の方が絶対いいじゃないですか!」
「……それ、恋愛の基準として正しいのかしら」
でも、否定はしない。
その夜。
私は侍女たちと共に、今日の茶会の反省会をしていた。
「というわけで、リュシエル様、大成功でした!」
エミリーが拍手する。
「予想外だったわね」
マリアンヌも頷いた。
「まさか、悪役令嬢から一転、『芯の強い令嬢』扱いになるなんて」
「でも、これで安心ですね」
ソフィアがにやりと笑う。
「セドリック殿下とクラリッサ嬢は、もう終わりです。あとは勝手に自滅していくでしょう」
「……私、何もしてないのに」
「何もしなくていいんですよ。悪人は勝手に自滅するものです」
ソフィアの言葉に、私は苦笑した。
(そういえば、この世界、乙女ゲームの世界なんだよね)
前世の記憶がある私は、この世界が『crazy about』というゲームの世界だと知っている。
原作では、私リュシエルは完全な悪役令嬢で、ヒロインのクラリッサをいじめて破滅する運命だった。
でも、今回は違う。
トイレ戦争という、原作にない展開で婚約破棄されたおかげで、破滅フラグを回避できた。
(ありがとう、トイレ。ありがとう、豆スープ)
心の中で感謝する。
「リュシエル様、何かいいことでも?」
エミリーが不思議そうに聞いてくる。
「ええ。ただ、自由って素晴らしいなって思っただけよ」
「自由、ですか」
「そう。束縛されない、自分の人生を歩める自由」
私は窓の外を見た。
夜空には、満月が輝いている。
(これから、どんな未来が待ってるんだろう)
少しだけ、ドキドキした。
でも、それは悪い予感じゃない。
むしろ、期待感。
(……そういえば、灰色の魔法騎士、か)
マーガレット侯爵夫人が言っていた、テオドール・グレイフォード。
(どんな人なんだろう)
まあ、いずれ会えるだろう。
「さて、明日も忙しくなりそうだわ。もう寝ましょう」
「はい、リュシエル様」
侍女たちが部屋を出ていく。
一人になった私は、ベッドに横たわった。
(婚約破棄の余波、予想以上に楽しいな)
そして、私は満足げに微笑みながら、眠りについた。
明日からの新しい日々を、楽しみにしながら。




