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プロローグ 運命のトイレ戦争

 私は今、人生で最も切迫した危機に直面していた。


 トイレに行きたい。めちゃくちゃ行きたい。今すぐ行きたい!





 私の名前はリュシエル・ヴァン・エリュドール。

 ヴァリスト王国一の美貌を持つと評判の公爵令嬢で、第二王子の婚約者である。


 ……という設定の、前世の記憶を持つ残念な転生者だ。


 そう。私には前世の記憶がある。


 前世で私は、ごく普通の日本人OLだった。

 残業続きの毎日に疲れ果て、唯一の癒しは通勤電車の中で読む乙女ゲームのプレイ動画。


 その中でも特にハマっていたのが『crazy(グレージー) about(アバウト)』という、ド王道の乙女ゲームだった。


 貧しいけど心優しいヒロインが、イケメン騎士や王子様たちと恋に落ちる。


 そして彼女の前に立ちはだかる悪役令嬢。

 それが、リュシエル・ヴァン・エリュドール。

 つまり、今の私である。


「……マジかよ」


 転生に気づいた五歳の時、私は心の底からそう呟いた。


 よりにもよって、悪役令嬢。

 しかも破滅エンド確定の、ド定番悪役。

 原作ゲームでは、ヒロインをいじめ抜いた挙句、婚約者の王子に婚約破棄を突きつけられ、最終的には国外追放か投獄という悲惨な末路を迎える。

 定番すぎる……


「いやいやいや、無理無理。私、そんな面倒なことしたくないんですけど」


 だから私は決めた。

 ソレなら定番の回避をするぞ。

 破滅フラグは全力でお断りする。

 ヒロインが登場したら関わらない。

 王子とは適度な距離を保つ。

 悪役令嬢ムーブは一切しない。


 そうやって十五年間、真面目に生きてきた。


 おかげで「生真面目な令嬢」という微妙な評判は立ったが、少なくとも「悪役令嬢」とは呼ばれていない。


 完璧だ。多分……


 このまま適当に婚約期間を過ごして、穏便に婚約解消。

 そして自由な人生をエンジョイする――

 そんな青写真を描いていた、あの日までは。


 事件が起きたのは、魔法学院の春の園遊会でのことだった。


 会場は色とりどりの花で飾られ、貴族の子弟たちが優雅に談笑している。

 私もドレスに身を包み、社交界のスマイルを浮かべて会場を歩いていた。

 表向きは完璧な令嬢。


 でも内心は――

(……あー、だるい。早く帰りたい)

 という、前世から引きずる根っからのインドア思考。

 そんな私の目に、ある光景が飛び込んできた。


 婚約者である第二王子・セドリックが、ピンク色の髪をした女性と親密そうに話している。


 距離が近い。

 やたら近い。

 しかも女性の方は、上目遣いで王子を見上げている。


「……ああ、アレか」


 私は心の中で納得した。


 あのピンク髪は、クラリッサ・ド・ピンクリー。

 原作ゲームのヒロインその人である。

 男爵令嬢という低い身分ながら、その清純な魅力で王子たちを虜にしていく、というのが原作の設定。

 でも実際に見てみると。


(……清純? どこが?)


 計算された上目遣い。

 わざとらしく胸元を強調するドレス。


「まあ、殿下ったら」と、猫なで声で甘える仕草。

 うん、これは確信犯だ。

 天然清純系ヒロインじゃなくて、計算高い小悪魔系女子だ。


 原作の設定、盛りすぎでは?

 まあいい。

 どうせ私は婚約破棄されるんだから、むしろ好都合だ。

 セドリックがクラリッサに夢中になってくれれば、私から婚約解消を切り出す必要もない。


(頑張れ、ピンク女。王子を奪い取ってくれ)


 内心でエールを送りながら、私は会場の隅へと移動した。

 そしてそこで、私は運命の飲み物と出会った。


「エルフ風・豆のポタージュ」


 それは、エルフ族の伝統料理を再現したという、魔法学院特製のスープだった。

 濃厚で、香ばしくて、ほんのり甘い。

 豆の旨味がぎゅっと凝縮されていて、めちゃくちゃ美味しい。


「……おかわり、いいですか?」


 気づけば私は、給仕の人にそう尋ねていた。


「もちろんでございます、リュシエル様」


 こうして私は、人生で最大の過ちを犯した。

 エルフ風豆のポタージュを、おかわりしたのだ。

 最初は何ともなかった。

 美味しいスープを味わいながら、会場を眺める。

 貴族たちの社交辞令を聞き流し、適度に笑顔で応じる。

 完璧な令嬢ムーブ。


 でも――


 三十分後。


「……ん?」


 下腹部に、微かな違和感。

 一時間後。


「……あれ?」


 違和感が、確信に変わる。

 そして一時間半後。


「――――っ!」


 私は、理解した。

 エルフ風豆のポタージュ、腸への刺激が半端ない。

 しかもおかわりした。

 二杯も。


「やばい、やばいやばいやばい……!」


 私は優雅な笑顔を保ったまま、内心で大パニックに陥った。


 トイレ。


 トイレに行きたい。めちゃくちゃ行きたい。今すぐ行きたい!


 今すぐトイレに行かないと、公爵令嬢の威厳が物理的に崩壊する。


 私は会場の端にある、貴族専用トイレへと向かった。

 歩き方は優雅に。

 でも速度は最速で。

 白鳥のように――いや、ペンギンのように、必死の小走り。

 そして、トイレの前に到着した瞬間。


「使用中」

「使用中」

「故障中」


 ……は?


 三つあるはずの貴族専用トイレが、全滅している。

 私は今、人生で最も切迫した危機に直面していた。


「嘘でしょ……!?」


 私の翡翠色の瞳が、絶望で揺らいだ。

 こんな時に限って。

 よりにもよって、こんな時に!

 冷や汗が背中を流れる。

 下腹部の圧力が、限界に近づいていく。


(落ち着け、リュシエル。あなたは公爵令嬢。こんなことで取り乱しては――)


 その時。


 カチャリ。


 中央の個室の扉が、開いた。


「……!」


 私の視線が、そこに釘付けになる。

 希望の光。

 救いの扉。

 天啓のトイレ。

 私は反射的に、そこへ足を向けた。


 しかし――


「お、空いたぞ!」


 横から、聞き覚えのある声。


 振り返ると、そこには婚約者である第二王子・セドリックが立っていた。

 金髪碧眼。爽やかな笑顔。

 普段なら「さすが王子様」と周囲が騒ぐ彼。


 でも今の私には――


 最大の敵にしか見えない。


 そして、私たちの視線は同時に、たった一つ空いたトイレの扉に注がれた。

 空気が、凍りついた。


「……リュシエル嬢」


 セドリックが、爽やかに微笑んだ。


「お先に失礼するよ」


 彼の手が、扉のノブに伸びる。


「――待ちなさい」


 私は反射的に、彼の手首を掴んだ。

 セドリックが驚いたように目を見開く。


「リュシエル? どうしたんだ?」

「それはこちらの台詞ですわ、殿下」


 私は、できる限り優雅な笑顔を浮かべた。

 でも内心は。


(絶対に譲らない。絶対に。)


「私の方が、明らかに切迫しておりますの」

「いや、それは僕の方だ!」


 セドリックが反論する。


「僕は今朝、誤ってドワーフ族の激辛チリスープを飲んでしまったんだ。三杯も! お腹の中で火山が噴火しそうなんだよ!」

「私だって豆のスープを二杯も……!」


 私は言いかけて、ハッとした。

(待って。これ、公爵令嬢として口にしていい話題?)

 でも、背に腹は代えられない。


「しかもエルフ風ですのよ!? あれ、魔力で発酵が促進されてるって知ってますか!?」

「知らないよ! だが僕の方が先に手を伸ばしたはずだ!」

「いいえ、私の方が先ですわ!」


 気づけば、私たちは二人ともドアノブに手をかけていた。

 ぎりぎりと、無言の力比べ。

 セドリックの額には脂汗。

 私のこめかみには青筋。

 周囲の貴族たちが、ざわざわと集まってくる。


「あれは……リュシエル様とセドリック殿下?」

「何をしているんだ?」

「まさか……トイレの取り合い!?」


 恥ずかしい。

 めちゃくちゃ恥ずかしい。

 でも、もう引けない。


「リュシエル、頼む……!」


 セドリックが懇願する。


「これは王子の命令だ。扉を譲りたまえ!」

「王子命令でトイレを奪う気!?」


 私も負けていない。


「それ、歴史に残る汚点になりますわよ!?」

「汚点で結構! 今は背に腹は代えられないんだ!」

「こちらだってそうですわ! 大公爵家の威信をかけて、このトイレは譲れません!」


 完全に、意地の張り合い。

 もはや、トイレというより領土問題。


 その時――


「あの、こほん……」


 聞き覚えのある、猫なで声。


「では、私が代わりに……」


 振り返ると、そこにはピンク色の髪をした、クラリッサ・ド・ピンクリーが立っていた。

 スカートの裾をつまんで、上品ぶった笑みを浮かべている。


(……来たか、原作ヒロイン)


 でも今は、そんな場合じゃない。


「待ちなさい、クラリッサ!」


 私は反射的に、彼女の手首を掴んだ。

 クラリッサが「きゃっ」と驚く。

 周囲の貴族たちも、息を呑む。


 そして私は――


 心の底から、絞り出すように言った。


「浮気は譲っても――トイレは譲れませんのよ」


 会場が、一瞬静まり返った。

 そして次の瞬間。


「ぶはははははっ!」


 爆笑の渦。

 貴族たちが、腹を抱えて笑い始めた。


「浮気は譲っても、だって!」

「リュシエル様、最高!」

「セドリック殿下、これは不味いですぞ!」


 セドリックの顔が、真っ赤になった。

 怒りなのか、恥ずかしさなのか。

 たぶん、両方だ。


「――皆の者、聞いてくれ!」


 セドリックが、会場中に響き渡る声で叫んだ。

 周囲がシン、と静まり返る。


「この場を借りて、重大な発表をさせていただく!」


(……嫌な予感)


 私の背筋に、冷たいものが走る。


「私、セドリック・ヴァン・アルセナールは――」


 セドリックが、私を指差した。


「リュシエル・ヴァン・エリュドール嬢との婚約を、破棄する!」


 どよめきが広がる。

 私は、固まった。


(……え? マジで? 今? ここで?)


「理由は明白だ!」


 セドリックが続ける。


「リュシエル嬢は、トイレすら譲らない! 王子である僕にだぞ!? これはレディとしての寛容さを欠いている! 婚約者として失格だ!」


 会場が、ざわつく。


「トイレで婚約破棄……?」

「そんな理由ある?」

「いや、でもリュシエル様も大概では……」


 私は、静かに息を吸った。

 そして、できる限り冷静に尋ねた。


「……それだけの理由で、婚約破棄なさるの?」

「その『それだけ』が!」


 セドリックが叫ぶ。


「男にとってどれほど深刻か、君には理解できまい!」

「まあ、それはそれは」


 私は、優雅に微笑んだ。


「クラリッサ嬢なら、さぞ寛容でしょうね。ピンクのおつむに、お花畑の思考回路で」

「なっ……!」


 クラリッサが、金切り声を上げる。


「なんですってぇ!?」


 でも私は、もう気にしなかった。

 スカートを翻し、堂々とトイレの扉を開ける。


「ともかく、婚約破棄は承知しました」


 そして、扉を閉める直前に、振り返って微笑んだ。


「どうぞお幸せに」


 バタン。


 扉が閉まる。

 その瞬間、会場には笑いと拍手が沸き起こった。


「リュシエル様、カッコいい!」

「最後まで堂々としていた!」

「それに比べてセドリック殿下は……」


 私は、トイレの個室の中で大きく息を吐いた。


(……間に合った。本当に、本当によかった)


 そして同時に、心の底から思った。


 婚約破棄、最高じゃない!?


 原作では、ヒロインいじめの末に婚約破棄。

 でも今回は、トイレ戦争での婚約破棄。

 しかも向こうから切り出してくれた。

 これで私は、破滅フラグを完全回避した。


「ふふ、ふふふふふ……」


 笑いが、こみ上げてくる。


 自由だ。


 私はついに、自由になったのだ!


 あとは適当に社交界から引退して、好きな本を読んで、のんびり暮らせばいい。

 完璧な人生設計。

 そう思っていた。


 この時の私は、まだ知らなかった。


 この「トイレ戦争」が、私の人生を大きく変える転機になるということを。


 そして、運命の出会いが、もうすぐそこまで来ているということを――

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