第8話 夜の帳と、目覚める想い
浴槽から上がったアリシアの頬には、ほんのりと紅が差していた。温もりが肌に残っていて、心も身体も、まるで湯の中にとけてしまったかのように軽い。
用意されたバスローブを羽織り、髪をタオルで優しく包みながら洗面台の前に立つと、鏡が自動で曇りを取り除き、彼女の顔がそこに映し出された。
「……こんな顔、してたっけ……」
ぼんやりと自分を見つめる。血の気を失い、無理に笑ってばかりいた数日前の自分とは、どこか違う。髪は濡れて額に張り付き、頬には湯上がりの赤みが残っていたが、なによりもその目には――かすかに光が戻っていた。
(こんなふうに、少しでも自分を好きになれる時間が……まだ、あったんだ)
湿ったタオルをラックに戻すと、自動で洗浄が始まった。そんな些細なことにも、思わず笑ってしまいそうになる。
着替えの衣類もすでに用意されていた。柔らかな綿素材の上下。くすんだラベンダー色で、着心地はまるで雲の上にいるかのように軽やかだった。
「着てるだけで……眠くなりそう」
小さくあくびをしながら、部屋の中心にあるベッドへと歩み寄る。
クッション性の高いマットレスが、アリシアの身体をやさしく受け止めた。枕に頬をあずけると、すぐに瞼が重くなってくる。
(もう、今日は何も考えたくない……)
天井にはうっすらと星のような光が散りばめられている。たぶん演出だろうと思いつつ、アリシアは静かにその光を見つめた。
「ノア……」
ぼそりと呼ぶと、即座に応答が返ってきた。
『何か御用ですか?』
その声は部屋の空気を震わせることなく、どこか遠くで、でも確かにアリシアだけに届くように響いた。
「……別に、用ってほどでもないけど。こうして、誰かと話せるって……ちょっと、不思議な感じだなって思って」
『本ユニットは会話インターフェースも備えていますので、御希望であれば随時対応可能です』
「そうじゃなくて……あ、ごめん。なんでもないや」
アリシアは笑って、寝返りを打った。マットレスが沈み込み、枕がぴたりと首筋に馴染む。
少しの沈黙があった。その沈黙すら、今のアリシアにとっては心地よかった。
だが、やがてノアがぽつりと告げる。
『アリシア。あなたの生体反応は安定していますが、精神活動に深い疲労の兆候があります。今夜は、十分な休息が必要です』
「ふふ、命令形じゃないんだね」
『推奨です。命令ではありません』
「……わかった。じゃあ、推奨に従ってみるよ」
再び目を閉じたアリシアの顔に、微かな笑みが浮かんだ。どこかで、信じてもいいと思えたのかもしれない。機械のくせに、妙に優しいその存在を。
そして、思った。
(このままずっと、ここにいられたら……でも、そうはいかないよね)
仲間たちに裏切られ、逃げるようにしてここへ来た。でも、本当は――
(やり返したいとか、じゃない。ただ、私は……)
自分の心が、まだ整理できていないことを、アリシア自身もわかっていた。
だが今は、考えるのをやめよう。今日だけは、眠っていい。夢の中で、何か答えが見つかるかもしれない。
ノアはそれ以上、何も語らなかった。ただ静かに、眠りに落ちていくアリシアを見守っていた。
そして部屋の灯りが、ごく自然に落ちる。
夜の静けさが、アリシアをやさしく包んでいた。