第7話 温もりの食卓と心を溶かす温度
扉が閉まった居住ユニットの静寂の中、アリシアは室内をぐるりと見渡した。清潔で落ち着いた配色。金属の質感が見える部分もあったが、全体は柔らかな照明と壁材に包まれていて、どこか「居ることが許されている」という感覚を与えてくれる空間だった。
ベッドの端に腰を下ろし、ため息のような安堵の息をつく。だがその瞬間、壁の一部が滑るように光り始め、ディスプレイが現れる。
《生体サイクルに基づき、食事時間です。メニュー選択をお願いします》
「食事……?」
アリシアは立ち上がり、ディスプレイに近づく。そこには、まるで高級レストランのように整えられた料理の写真が並び、メニューには丁寧な説明が添えられていた。肉料理、魚料理、パスタ、スープ、パンに果物。デザートに至っては、見ているだけで甘い香りが想像できそうな美しさだった。
「ノア、これ……選べるの?」
『はい。居住者の嗜好と栄養状態に応じて、複数の選択肢が提案されています。すべて調理済みの本物の料理です。ご安心ください』
その言葉に、アリシアは思わず微笑む。ノアの冷静な説明は相変わらずだが、その中にほんのわずか、人間的な“配慮”のようなものが感じられた気がした。
「じゃあ……ええと、これと、これと……あ、デザートはこのチーズケーキがいいな」
確認ボタンを押すと、ディスプレイの下部がスッと開き、やがて小さな電子音とともにトレイがせり出してきた。
湯気が立ちのぼるプレートの上に、芳ばしく焼かれた肉、温かなパン、ほんのり甘い香りのスープ。見た目だけではない、確かな“香り”と“温度”があった。
アリシアは言葉を失い、ただ立ち尽くす。
「……本物、なんだ」
その声は無意識に漏れたものだった。過去に旅の途中で口にした携行食や保存食とは、まるで別次元の料理が、ここにある。
スプーンを手に取り、まずはスープをひと口。舌に触れた瞬間、野菜とブイヨンの深い味わいがふわりと広がる。
「……っ、美味しい……!」
驚きと喜びがない交ぜになった声が、彼女の口から零れた。
パンを手に取れば、外はパリッと、中はふんわり。肉はナイフを入れると柔らかく、じゅわっと肉汁が溢れ、香草の香りが食欲をくすぐる。
「こんなに……丁寧に作られた料理、私、いつぶりだろう……」
手を止めて、ふと天井を見上げた。どれも初めて味わうものばかりだったが、不思議と懐かしいような、心の底から満たされていく温かさがあった。
「ノア、これ、誰が作ってるの?」
『調理は全自動のサーバーで行われています。ですが、レシピはかつてこの施設にいた者たちの記録から引き継がれたものです。人間の嗜好や味覚の傾向に基づき、再現されたものになります』
「じゃあ……これって、その人たちの記憶が詰まった料理、なんだね」
『はい。それは、かつて“家庭”と呼ばれていた場所の味に近いと評価されていました』
その言葉に、アリシアの胸がきゅっと締めつけられる。
ここにはもう誰もいない。けれど、そこに“生きていた人たち”の痕跡が、こうして今、自分の前にある。
「そっか……ありがとう、ノア」
フォークを握りしめたまま、彼女はもう一度、プレートの上の料理を見つめた。
それはただの食事ではなかった。過酷な戦いの後、張り詰めていた心と身体を優しく癒してくれる、確かな“人の温もり”そのものだった。
すっかり空になったトレイを前に、アリシアは小さく息を吐いた。お腹が満たされただけでなく、胸の内までふんわりと温かくなったような気がした。
「……あんなに、ちゃんとした食事、何年ぶりだったかな」
呟きながら立ち上がると、壁際にある別のパネルが緩やかに光を放っていた。近づくと、自動的に内容が切り替わり、衣服の選択画面が表示される。
《現在の装備は外部活動用戦闘装甲服です。居住モードへ移行しますか?》
「えっ、あ……はい、お願いします」
返事をすると、すぐさまパネルの隣の壁がすうっと開き、小さなクローゼットのような空間が現れた。中には清潔感のあるシンプルな衣類が、サイズまでぴたりと合っていそうな状態で整然と掛けられている。
「これ……私のサイズ、わかってたの?」
『はい。初回同期時の身体測定データに基づき最適化されています』
ノアの機械的な口調が返ってくる。その中に、「当然の処理です」とでも言いたげな無機質さがあったが、それがかえってアリシアの緊張を和らげた。
「じゃあ、着替えてみる……」
部屋の一角がすりガラス状に曇り、着替え用のスペースへと変化する。中に入ったアリシアは、着慣れた戦闘服を脱ぎ、用意された室内着を身にまとう。
柔らかく、肌に心地よく馴染む布地。動きやすく、しかしだらしなさを感じさせない上品さがあった。
「……なんだか、落ち着く……」
しばらくの間、彼女はしんと静かな居住区に身を置いていた。ただ、存在するだけで、責められず、傷つけられず、誰かのために戦わなくていい――そんな場所が、この世に本当にあったのだと、初めて知った気がした。
と、ふと身体の疲れを思い出す。どこかで温まって休める場所はないかと探すと、再びノアの声が響いた。
『入浴機能が起動可能です。ご利用されますか?』
「お、お風呂もあるの!?」
思わず声を上げると、室内の別の扉が静かに開き、湯気を含んだ空気がふわりと広がった。中には、清潔な洗面台とシャワーブース、そして奥には一人でゆったり入れるサイズの浴槽があった。
「……信じられない……夢みたい」
アリシアは思わず小さく笑った。足を踏み入れ、湯を張ると、瞬く間に浴槽が適温の湯で満たされる。肌に触れた瞬間、思わず声が漏れた。
「あ……気持ちいい……」
静かに湯船に身を沈める。ぬくもりが、冷え切っていた心と身体をゆっくりと溶かしていく。
(誰にも裏切られない。誰かの道具じゃない。今は、私だけの時間……)
しばし目を閉じて、彼女は深く息を吐いた。
時折、ノアの気配が視界の端にちらついたような気がした。だが、その存在はまるで空気のように自然で、むしろ心地よい安心感さえ与えてくれた。
「ノア……ありがとう」
小さく呟いた言葉に、返事はなかった。だが、その沈黙が、どこかやさしいと感じられた。