第6話 逃避と休息
朝の森には、鳥のさえずりが淡く響いていた。アリシアは昨夜の焚き火の名残に目を落としながら、湿った地面に腰を下ろしていた。
彼らのいるはずのキャンプは、森を越えた丘の向こうにある。
そこへ行けば、すべてがはっきりする。
それが、わかっているのに――身体が動かなかった。
「……私、何してるんだろ」
自分でもわからなかった。怒っているのか、悲しんでいるのか、ただ混乱しているだけなのか。
ノアが、そっと宙に浮かぶ。
『アリシア。行動の優先順位が不明瞭です。あなたは、仲間との“決着”を望んでいるのですか?』
ノアの機械的な声は、柔らかさとは無縁だったが、曖昧な思考を引き戻す力があった。
アリシアは黙ったまま、小さく首を横に振った。
「わからない……けど、会うのが怖いの。言い訳なんて聞きたくないし、謝られても……どうすればいいのか……」
『理解不能な感情反応を確認。逃避行動の傾向、継続中』
その瞬間――
アリシアの目の前の空間に、青白いスクリーンが再び現れる。
『転移プロトコル起動』
『転移先:ヴェルトリカル・コア』
『この世界を離れ、他の世界へ移行しますか?』
『はい/いいえ』
「……今、これ、ノアが?」
『この環境は、干渉許可レベルCを満たしました。あなたに選択権があります』
ノアの黒い球体が静かに揺れる。
『あなたは、ここに留まり続けますか。それとも、いったん距離を置く選択を?』
その言葉が、アリシアの胸に刺さった。
距離。そう、いまの自分には、それが必要なのかもしれない。
「……ノア、少し……考えたいの。冷静になれる場所に」
『了解。転移プロトコル、起動します』
アリシアは、もう一度画面に手をかざした。
周囲の空間が光に包まれる。
森の音も、湿った空気も、すべてが遠ざかる。
アリシアは、光の中で目を閉じた。
光の粒が消え去ると、そこはまるで時間の止まったような世界だった。
マットブラックの床が足元に広がり、高い天井には照明パネルが静かに光り、遠くには巨大な整備アームや機械設備が整然と並んでいた。
ここはアステリア基地――かつてノアが眠っていた場所。だが今は、どこか違って見えた。
「……戻ってきた、のね」
アリシアの声は、広い格納庫に反響しながら吸い込まれていった。
『転移完了。アステリア基地・格納区画Cに到達しました』
ノアの機械音声がアリシアの傍らで響く。姿は変わらず、黒く小さな球体ドローンのままだ。
『現在、外部活動ログは凍結中。対人交信プロトコルは限定的に解放されています』
「……誰かいるの?」
『現在、施設内部に生命反応は検出されていません。あなたと私のみがこのセクターに存在します』
アリシアは静かに息を吐いた。安堵と同時に、胸の奥にかすかな孤独が忍び込む。
誰もいない。傷つける者も、裏切る者も。
けれど、それは同時に、誰も手を差し伸べてはくれないということでもあった。
彼女は足元を見つめ、そしてノアに視線を向ける。
「ノア……あなたは、ずっとここで、私を待ってたの?」
『……はい』
ほんの一瞬、ノアの返答に遅れがあったような気がした。だがアリシアは追及しなかった。
「それは、命令だったの? それとも……あなた自身の意思?」
ノアは答えない。代わりに、静かに浮遊して、格納庫の奥へと進んだ。
「案内します。あなたに必要な情報資源と、休息地点を提供可能なユニットがあります」
アリシアはうなずき、ノアの後を追った。
歩きながら、重い金属の床を踏むたびに、異なる世界にいるという実感が深く体に染み込んでいく。
異世界。もうひとつの現実。
「ねぇ、ノア」
『はい』
「この世界って……私が知ってるものと全部違うのに、なぜか懐かしいって思うの、変よね」
『……記憶情報と感情反応には必ずしも整合性が存在しません。“懐かしさ”は、未知に対する不安定な認識パターンのひとつです』
「そっか……でも、なんか……心が落ち着く」
その感覚は、きっと一時の逃避なのだとアリシアは思った。だが、だからこそ、この一瞬にすがりたかった。
ノアが停止し、壁の一角を見つめると、格納庫のパネルが音もなくスライドし、白く明るい通路が開いた。
『居住ユニット07。現在は滞在者不在。使用可能です』
「ありがとう」
アリシアは扉をくぐる前に、もう一度ノアに向き直った。
「ねぇ、ノア」
『……はい』
「もし、あの世界に戻るとしたら……私は、また裏切られるのかな。痛い思いをして……全部、無駄だったって思うことになるのかな」
『予測不能。未来は選択の結果で変化します』
「そうだよね……」
アリシアは微笑んだ。少しだけ、泣きそうになりながら。
「でも……ありがとう。あのままじゃ、何も見えなかった。ちょっとだけ、ここで……考える時間がほしい」
『許可は不要です。あなたの選択を尊重します』
扉が閉まり、アリシアは部屋の中に一人で立った。
ベッド、洗面台、小さなデスク。無機質だが清潔で、静かで、なにより――安全だった。
ベッドに身を投げ出すと、硬いマットレスが背中を支えてくれた。
目を閉じると、仲間たちの声が脳裏に蘇る。
――「おまえが囮になれよ」
――「無駄に目立つんだよ、お姫様気取りが」
――「……こんなやつ、最初からいらなかった」
震える肩を抱くように、自分の腕を回す。
彼らが本当に、そう言ったかはよく覚えていない。
でも、あの瞬間の冷たい視線と、沈黙の重さは、今でもはっきりと覚えている。
しかし、そこにノアの言葉が重なる。
『未来は選択の結果で変化します』
未来は、選べるのだ。